第12話 レベル差


 駆ける———————


 草木を分け、くぼ地を飛び越え、坂道を滑り降りながら、ひたすらに森の奥地へとアリッサは進んでいた。その理由はただ一つ……後ろから迫ってくる巨大な恐怖の権化をどうにかして撒くためである。

 アリッサは、田舎育ちであったことが幸いして、草木の中を進むのは慣れている。そのため、僅かな隙間であろうと、巨木も根が張り巡らされた場所であろうと、止まることなく突き進むことができる。だが、如何せん、相手が悪すぎた。

 後ろから猛スピードで迫る、無数の棘を持つ巨大な熊。通称、ニードルベアーは、草木をものともせずに弾き飛ばしながらこちらに突進をしてくる。そのスピードは、アリッサの数倍にも及び、逃げるだけの速度差など在りはしない。

 その上、隠れたとしても、風の動きを読んでいるのか、こちらの位置を正確に把握してくる。

 それなのに、アリッサが今の今まで生き延びていられているのは、入り組んだ森であるが故に、急旋回ができるからである。木の幹や、蔦を利用して、手の皮をすりむくことを厭わずに、強引に旋回を繰り返す。その行為により、針や体躯の直撃は免れている。しかしながら、それはあくまで時間稼ぎに過ぎない。

 なぜならば、急旋回を繰り返すたびに、周囲の草木は、ニードルベアーの突進により薙ぎ払われ、順々に開けていくからである。そうして、逃げ場を潰されていった結果、遂にアリッサは終点にたどり着く。

 それは、見上げれば首が痛くなるほどの断崖絶壁の場所。草木がそこだけ途切れているため、地面のみが無機質に露出している。どこかに逃げ道はないだろうかと、左右を交互に見て判断をし始める。

 だが、そんな暇すら与えてもらえず、崩れ落ちた枯れ木を踏み倒す重低音と共に、木々の闇の中から赤い瞳が輝きだす。ゆっくりと近づいてくるそれは、まさに絶望というに他ならない。


 だが、アリッサはまだ諦めてはいなかった———————


 怪物との距離は十数メートルしかなく、もしもあの後ろ足が少しでも動けば、一瞬の間に距離を詰められてしまう。後ろに逃げ場なく、左右の草むらまでは同じように20メートル弱はある。走って逃げたところで間に合わない。

 つまりは、一度は、あの怪物の突進を避けなければならないということである。もしも針がなければ、体術で何とか身を捻りながら回避できたのかもしれないが、素手で触れようものならば、ニードルベアーの背中と腕に生えた、巨大で無数の針に触れて大怪我では済まされない。


 冷や汗と、乱れた呼吸を強引に沈めながら、アリッサは後ろの崖面に背中を預ける。じりじりと距離を詰めてくる相手を凝視しながら、刹那の時に息を飲む。

 僅かな間の静寂がアリッサと怪物の間に流れるが、アリッサにはその時間が、何時間も経過したように長く感じた。思えば、怯えている男子生徒を見て、また体が勝手に動いてしまったのが一番の失点であったとアリッサは考えてはいたが、同時にそれは、間違いではなかったとも自負していた。自らの行動に嘘をつきたくないアリッサにとってみれば当然のことだったのであるが、逃げるべき場面で犯してしまった大失態は往々にして倍となり自分に降りかかる。そんな後悔と反省、そして行いを恥じないことで産まれた爽快な気分を混ぜ合わせながら、アリッサは刹那の時の中で思考をひたすらに繰り返し、息を深く吸い込んだ。


——————最初に動いたのはアリッサだった。


 右足で地面を蹴り上げて、崖を背にして右側へ一歩踏み出す。すると、それに反応してニードルベアーも即座に距離を詰める。一瞬のうちに両者が肉薄するが、アリッサはここで諦めることなく、踏み出した一歩目の足を横にしながら体全体に急ブレーキをかけ、体を正反対に捻りながら、ブレーキをかけたはずの左足で再び地面を蹴り上げる。

 そのフェイントが功を制したのか、ニードルベアーの体躯は崖の壁を弾き飛ばしながら衝突し、周囲に瓦礫を弾き飛ばす。アリッサはその弾丸を数発背中に受けてよろけながらも、止まることなく、一直線に草むらに向けて歩みを止めない。

 対し、ニードルベアーは爪が壁にめり込んだのか、腕を引き抜くのに、僅かな時間を必要としていた。アリッサはそのわずかな隙を逃すまいと、草むらに向けて飛び込むように入ろうとした。


 だが、ここでアリッサは強烈な寒気を感じることとなる——————


 理由は不明であるが、飛び込むために地面を蹴っている有為的な状況とは正反対の嫌な気配。直感に似たそれは、虫の知らせとでもいうのだろうか。いづれにしても、その寒気により不安を感じたアリッサは、僅かに速度が鈍ることを許容しながら、先ほどまでニードルベアーがいた壁の位置を、首だけ向けて確認する。


 状況は以前にして、変わらず、怪物は瓦礫の中から腕を引き抜けてはいない。だが、なにか様子がおかしいと感じたアリッサは即座に観察をするために眼球を動かし、不審な動きを確認する。そして、それはすぐに理解できた。

 腕を抜くことに必死になっているはずのニードルベアーの頭がこちらを向いていたからである—————


 怪物の深紅の瞳は、獲物であるアリッサを逃すことなく、レーザービームのように狙いを定めている。そして、先ほどまで引き抜こうとしていた腕は瓦礫の中から動かそうとしていない。


 生暖かい風がアリッサの頬を撫でた—————



 そして、静寂を突き破るように空気が裂けた—————



 怪物の瓦礫に埋もれた右腕に生えていた巨大な無数の針は、音速を超える弾丸となって、風船が弾け飛ぶような破裂音と共に、周囲に爆散する。

 それは散弾のようであるが、質量が圧倒的に違い過ぎる。針一つ一つの大きさは、十数センチにも及ぶため、戦車の徹甲弾があらゆる方向に拡散して飛んできた、というほうが正しいのかもしれない。


 アリッサは射出の瞬間に、詠唱をせずに咄嗟に『シールド』展開して、体全体を覆うように保護膜の防壁を作り上げる。そして、それだけでなく、両腕を交差させて、防御態勢を試みる。弾丸の速度など、今のアリッサには目視すらできない。つまりは気づいたときには命中しているのだ。

 それでもこれだけの行動ができたのは、嫌な予感を受け止め、確認するために振り向いたからであろう。もしも、何もせずに逃げていれば、無防備な背中から針が肉と骨を弾き飛ばしながら貫通し、絶命していた。


 衝撃は一瞬で訪れた—————


 拳で殴られる感覚というよりは、シールドにぶつかった針の徹甲弾の衝撃が、小娘一人の体を軽々と持ち上げ、後方へ勢いよく弾き飛ばす。貫通こそしていないが、ぶつかった瞬間に、全身の骨が軋む音が聞こえ、全力で展開したはずのシールドがいともたやすく削りとられる事実が腕全体から感じ取れる。

 このままでは、腕ごと針が貫通し、心臓を貫かれると判断したアリッサは、空中で弾き飛ばされる最中でありながら、左腕を腰から肩にかけて捻りあげるように強引に振り回す。

 すると、針の弾丸はギリギリのところで、逸れるようにして地面を大きく抉っていく。しかしながら、貫通しなかったと言って衝撃が完全に殺せたわけではない。体をひねったことにより、バランスを失ったアリッサの体は、空中を横に一回転しながら、後方の樹木に激突することなる。樹木は大きく揺れ動き、葉を無数に地面に落としていく。アリッサは衝撃で背骨が軋む感覚と共に、肺の中の空気が全てはじき出される。そして、体中が痙攣を起こしたことで、呼吸すらままならないまま、土の上に叩きつけられる。

 そのときに頭を打ったのか、それとも、体の中の空気を失い、酸素が頭に回らなくなったせいなのか、視界に赤みを帯びた靄がかかり、意識が混濁し始める。それでも、遅れてやって来た左腕の激痛により、辛うじて意識は保たれていた。

 だが、それは気休めであり、今度はその痛みで意識が飛びそうになることを、口の中の土を噛み砕きながらアリッサは強引に繋ぎとめる。

 左腕は腕先から肘にかけて、防刃のはずの制服を貫通して大きな裂傷があり、腕の骨は粉砕しているのか、皮と肉だけで繋がっているように形状を保てず肘から下がぶら下がっている。そのせいで、神経が切れているのか、肘先からの感覚がなく、青白くなった左腕はピクリとも動こうとしない。


 そんなアリッサの状態を知ってか知らないでか。それをなしたニードルベアーは、直撃しなかった針が抉りとっていった地面と草木を踏みしめながら、獲物にとどめを刺すために、こちらに近づいてくる。

 針を自切したおかげで腕が抜けたため、怪物の右腕に白い無数の針は存在していないが、今のアリッサの状態を考えれば、その程度は勝敗に関係がない。

 アリッサは、そんな状況でもなんとか足掻こうと、僅かに入る両の足を持ち上げ、叩きつけられた木を支えにしながら残された右腕でまともに動いているのかもわからない体を無理矢理に起こす。意識がもうろうとしているのか、視界は左右にぶれ、左半分が赤色に染まっている。

 荒い息が止まず、全身の冷や汗が噴き出す感覚を味わいながらも、焦点の合わない視界で、近づいてくる怪物を捉える。アリッサには、これ以上の打つ手はなかった—————



 瞬間——————



 ニードルベアーの後方から誰かが、静寂を突き破るように草むらから音を立てて飛び出して来る。それに反応し、怪物は注意をこちらから音のした方へ向け、体ごと振り向かせる。だが、それを位にかえさずに、飛び出してきた人物は、濡羽色の長髪を風になびかせながら、怪物が遅れて気づくほど素早く、その巨体とすれ違う。剣の残光が横一線に走り、わずかに遅れて、震えた空気と共に、鉄をハンマーで打ち付けたような甲高い音が響いてくる。

 よく見れば、針を自切したニードルベアーの右腕に、浅い切り傷が付いている。これが普通の動物であるならば、右腕を落とせていたのかもしれない。だが、目の前にいるのは、平均レベルが50以上と言われているニードルベアーという正真正銘のモンスターである。つまるところ、表皮は岩のように堅く、その動きは巨体に似あわずに素早いという怪物である。故に、アリッサとその怪物の間に割って入り、アリッサを庇うようにして背中をこちらに向けたキサラの普通の斬撃など、有効打にはなりえない。つまり、勝ち筋がほとんどないということである。

 それを理解しているはずであるのに、キサラという少女は、その怪物に対し、一度だけ深呼吸をして、手の震えを抑え込み、精神を抑え込んで見せる。


 「キサラ……さん?」


 アリッサの呻くように小さな声に、キサラは耳を貸さずに、次の一手に出る。右手のショートソードを右手首だけで回し、逆手に持ち帰る。代わりに、右の腰に差してあった短い魔術杖を引き抜き、ニードルベアーに杖先を向ける。

 ニードルベアーは、自らの腕に傷をつけられたことに怒り狂い、大気を震わすような咆哮で、こちらを威嚇する。それを意にかえさずに、キサラは杖先から眩い白光を放出する。それは、昼であるのにも関わらず、一瞬のうちに木々の影を隈なく照らし出し、ありとあらゆるものの視界を白く染め上げる。その光景に、アリッサを含め、ニードルベアーもまぶしさのあまり、自らの瞳を覆うようにして、腕を顔の前に出した。

 一度、まぶしさによって潰された視界は、光が収まってもしばらくは残るものである。その好機にキサラは白色の光を抑え込み、違う魔術の詠唱を始める。詠唱は怪物が視界を回復するよりも早く完了し、今度は地面に向けた杖先から、灰色の光弾が数発、キサラの周囲の地面に突き刺さり、そこから先ほどの光を全て吸い込むような煙が勢いよく噴出する。

煙は、空気よりも重いのか、地上に滞留し、あらゆる生物の視界を狭めていく。ニードルベアーはその煙を振り払うように両腕を振り回しているが、絡みつくように滞留した煙は後ろに回り込むだけで振り払えない。

 

 その間に、キサラは杖を腰にしまい込み、同じように視界を奪われたアリッサに駆け寄っていく。


 「大丈夫ですか? ——————という前に、逃げますよ。走れますか?」

 「なんとか……」


 キサラはその言葉を聞くや否や、アリッサの右手を掴み、先導するように走り出す。アリッサは自由の利かない左腕をだらりと下げながらも、その疾走についていく。木々を走り、あの怪物と距離を取るために……


 刹那、アリッサは再び先ほどと同じような悪寒が全身を駆け巡る——————


 冷や汗がアリッサの全身から噴き出すと同時に、その原因を瞬時に理解する。それは、灰色の煙の中で乱反射したわずかな赤い光が視界の端に見えたからである。それに気づいたアリッサは、掴まれていたキサラの手を振り払い、地面を蹴り上げすべての体重を乗せて、前を走るキサラの背中に右肩を叩きつける。

 キサラの背中は大きくのけぞり、前にはじき出され、同時にアリッサの体も、勢いが殺し切れずにバランスを崩しながら、前のめりに倒れていく。


 瞬間—————


 先ほどまでアリッサたちがいた位置の空気が地面へと押しつぶされ、大地をえぐるような衝撃が土煙を舞い上げ、代わりに、キサラが放った目くらましの煙が吹き飛んでいく。どうやら、ニードルベアーが自分たちに向けて、体を切り裂くために左腕を振り下ろしたようである。怪物はいつの間にかアリッサたちを先回りし、横に立っていたらしい。

 アリッサは考えるよりも早く、バランスを崩しかけた体を立て直し倒れ込まないために、右足で踏ん張ろうと地面を踏み込もうとするが、予測よりも地面の位置が低く、沈み込むように体が低くなり、完全にバランスを失って転がるように転倒する。

 不幸なことに、走っていた先が、坂道になっていたようである。そのため、転倒した体は転がるようにして、坂の下へと落ちていく。それは突き飛ばしたキサラも同様であり、二人は、勢いよく坂の下の茂みに埋もれることとなる。だが、その茂みがクッションになったおかげで、体が勢いよく叩きつけられるなかった。


 結果的にだが、この坂道のおかげで、ニードルベアーの剛腕と衝撃を偶然回避出来たようである。しかしながら、油断することは出来ない。

 攻撃を外したニードルベアーがこちらに狙いを定め、深紅の眼光を揺らしながら、四足歩行でこちらに歩み寄ってくる。アリッサは、即座に生唾を飲み込んで立ち上がろうとするが、その瞬間に、鋭い痛みが左の太ももに走る。

 すぐに確認をすると、患部には、貫通するように、枯れ木が突き刺さり、白い肌を赤黒く染め上げていた。木の棒が未だに突き刺さっているため、大きな出血はしていないが、これ以上、足を動かすことは難しそうであった。

 それに気づいたアリッサはため息を吐き、こちらを心配そうに見つめているキサラに、弱弱しく笑って見せる。それを見て、キサラは激昂し、アリッサの襟元を掴み上げた。


 「あはは……。ダメみたいだね……。キサラさんだけでも、逃げて……」

 「何言ってるんですか。今治療しますから、待っててください……」

 「だめだよ。間に合わない—————。このままじゃ二人ともアイツに……」

 「バカですかッ! バカですよね! いいえバカです、あなたは—————ッ!! 知り合いを見捨てて逃げられるわけないじゃないですか!」


 二人が言い争っている間にも、怪物の影は近づいており、悠長にしている時間はない。アリッサは動けず、激昂して目に涙を浮かべるキサラは、どうにかして逃げようと頭をひねっているが、これ以上の策が浮かんでいない。


 「大丈夫。何とかするから—————」

 「できるわけないでしょ!! 死にかけの体でなに言ってるんですか。それとも本当に死ぬためにここに来たんですか! ここで死ぬためにセントラルに来たんですか———ッ!」


 距離を詰めた怪物が、こちらにとどめを刺すために、後ろ足で立ち上がり、右腕を振りかぶり始める。アリッサはそれを確認し、つかみかかるキサラを右手で突きとばそうとしたが、あちこち打撲しているせいで突き放すことができず、キサラの体が少し揺れる程度で収まってしまう。アリッサはその瞬間に、この先に起こる惨劇を見たくないという思いが勝り、そっと目を閉じた。










 いつまで経っても衝撃は訪れなかった——————





 アリッサは騒ぎ立てるキサラの話を右から左に流しながら、そっと瞳を開ける。もしかしたら、既に死んだのではないかと疑ってしまったが、そうではなかったようである。

 驚くべきことに、先ほどまでこちらに狙いを定めていたニードルベアーが四足歩行に戻っており、獲物の位置を探るように、顔先についた小さな鼻で地面を嗅いでいる。怪物はそのまま、坂の下の僅かな平地をウロウロと徘徊し、こちらに寄ってこようとはしていない。


 それはまるで、ニードルベアーがこちらの位置を唐突に見失ったかのようであった————


 それに気づいたアリッサは、未だにしゃべり続けるキサラの口を覆い、状況を把握するために周囲に気を配り始める。キサラも、初めはモゴモゴとしゃべり続けていたが、急に表情に険しさが戻ったアリッサを見て、しゃべるのをやめ、ようやく、ニードルベアーの異常な行動に気づいた。

 そして、二人が周囲の状況を確認し終え、ある一つの事実に気づいてしまう。




 周囲の動植物が、全て、黒みを帯びていた——————

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