第4話 水神の住まう宮


 恋は、頼まれてするものなのだろうか。

 私は雨竜さんの目から逃げるように視線を逸らす。私のそれをどう取ったのか、雨竜さんは小さく息を零すと歩けるかと尋ねた。


「少し案内しよう。この邸のことをお前も知っていた方が良い」


 他にどうするあてもなくて私は立ち上がった。仕事のスーツ着のまま、歩いている時に引っ掛けたのかストッキングは破けていた。でも神様相手にあまり気にしなくても良いかと思って雨竜さんの後についていく。

 襖を開けて雨竜さんは廊下へ出た。先ほども見えたけれど、本来なら庭だとかそういうものが見えるのだろうその先は水族館のようだった。縁側と言うには板張の淵に橋の欄干のような手すりがつけられており、向こう側へは踏み越えない限り行けないようになっている。水の中にある建物といった様子で、竜宮城を思い起こさせた。見える景色は色とりどりの魚、というわけにはいかなかったけれど。


「此処は龍が淵川の底だ。滝壺の底、と言っても良い。姿は秘匿され、普通の人間に僕たちを見ることは叶わない。まぁ、この辺りに人の子が訪れることは稀だが」


 雨竜さんは袖手しゅうしゅの動作を取りながら私の視線を追うようにして頭上を眺めた。暗い水底に陽の光が僅かに差し込んできらきらと綺麗だ。川魚たちの地味な模様は目を楽しませるまではいかないものの、多少の群をなす姿は目新しくて圧巻でもある。


「この屋敷は水神が住まう宮でもある。僕と水希と、深琴しかいない。時折客もあるが、滅多にない。他所の神との交流もない。日がな一日、泡沫うたかたの歌に耳を澄ませるだけで静かなものだよ」


 こぽ、と泡の音がして私は首を巡らせた。揺れる水草から空気の泡が立ち昇っていくのが見える。遥か頭上へ昇っていくそれを見て、此処に空気があることを疑問に思った。


「水の中なのに息ができるんですね」


 雨竜さんを向けば、あぁ、と彼は頬を緩めた。優しい顔だけど、寂しい目をしている気がした。


「人の子を迎え入れるにあたって必要と判断した。つらくはないか?」


「だいじょうぶ、です」


 された気遣いをどう受け取って良いか分からなくて私は言いながら視線を移す。再び頭上を仰いで陽の光に揺れる水面みなもを眺めた。水面を眺めるのは好きだった。川のせせらぎに耳を傾けるのも。波の音よりも癒される気がして、ヒーリングアプリではよく川の音を選んだ。

 欄干に手をかけて目を閉じる。雨竜さんが言ったように空気がこぽこぽと時折立ち昇る音がするくらいで、後は静かだった。水の中にいるのだと思う。自分が何かの培養液で満たされたカプセルの中にいる妄想をしたこともあった。それに少し似ている気がした。


「深琴」


 深い声で雨竜さんが私を呼ぶ。名前を呼ばれる度に自分がぐいと引っ張られる気がして私は目を開けた。黒い目を慈しむように細めて次へ行こうと彼は言う。


「見るべきはまだあるぞ」


「はい」


 連れられて、此処はどれ、あれは何、と教えてもらう。日本家屋をよく知らない私に必要なのは差し当たって、トイレの場所と居間にあたる座敷、それから自分の部屋だった。二階はなく、平家建てのようだ。外へ行くための玄関も案内されたけれど、許可なく扉を開ければ水が流れ込んできて私はすぐに呼吸ができなくなると教わった。何処か行きたい場所があれば雨竜さんに声をかけるようにと。そうすれば一緒に行けると聞いた。


「此処が本当に龍が淵なのか確認したいです」


 疑っていると取られても仕様がないことを口にした私に、雨竜さんは良いともと二つ返事で頷いた。玄関の草履を履き、私を促す。私が履いていたパンプスも並べられていて、私は履き慣れたそれに足を入れた。


「手を重ねて。僕とはぐれないように」


 掌を差し出されて少し躊躇いながら私はその手に自分の手を重ねた。雨竜さんは嬉しそうに笑ってもう片方の手で私の手を包む。温かかった。


「恐ければほんの少し目を閉じていると良い。外へ出たら教える」


 優しい声に私は頷いた。数歩進んで玄関の引き戸を雨竜さんが開ける。ぶわ、と濁流が押し寄せてきた気がして私は咄嗟に目を閉じて息を止めた。それでも触れた手は離れず、雨竜さんがしっかりと握っていてくれる。安心だった。


「深琴」


 着いたぞ、と囁かれて私は恐る恐る目を開けた。始めに視界が開けて、次いで音の情報が入ってくる。目を覚ます前に私が見ていた荘厳な滝が流れていて、下を向けば間違いなく呑み込まれたはずの滝壺が白い飛沫しぶきをあげていた。


「あまり覗き込むとまた落ちるぞ」


 重ねた手とは違う腕で腰を抱き寄せられて私は雨竜さんと密着した。う、と恥ずかしさに少し呻く。彼の体は温かく、細身に見えたけれど意外に大きかった。足元は私が歩いていた道とは違う場所で、崖ぎりぎりに立っているようだ。


「これで龍が淵だと信じられたか?」


「はい。あの、ごめんなさい。疑っていたつもりではなくて、水の底っていうのがどうにも不思議で」


 言い訳めいて口にしたのに、良いさ、と雨竜さんは微笑んだ。形の良い唇が弧を描く。


「そろそろ戻ろう。水希が食事の準備を終える頃だ」


 はい、と頷いて私はまた濁流に飲まれる感覚を覚えながら邸内へ戻ったのだった。


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