第3話 覆せない契り


「そもそも、夫婦の契りを交わしたって、私たちまだ何もしてないですよね?」


 私は気を失って先ほど目覚めたばかりだし、初対面のはずだ。知らない顔だし知らない場所だし、そもそも神様の知り合いはいない。それなのに夫婦って、と私はまだ腑に落ちていない。

 雨竜さんは水希ちゃんと顔を見合わせた。水希ちゃんが私の疑問に答えるため口を開く。


「夫婦の契りとは神の前で誓うことで成立すると聞き及んでおります。此処の主は叔父様。叔父様が承認すればそれは即ち、夫婦となりましょう」


「ええっ、で、でも私、そんな結婚したいって望んだわけじゃないですし」


 慌てて訂正するも、しかし、と水希ちゃんは困ったように眉根を寄せた。


「既に望みは聞き届けられ、あなたはこうして常世とこよへ招かれた。確かにあなたはまだ人の部分を残してはいますが、けれど最早人ならざる身。現世うつしよへ戻るには些か遅く、幽世かくりよへ向かうには生身を残す。行くも戻るも困難を極めます」


「それってつまり……」


「あなたに最早、戻る場所などなく」


 やっぱりそういう意味ですよねぇ、と私は肩を落とした。長い髪がはらりと顔の横に垂れる。それを耳にかけながら私は息を吐いた。そんな私に雨竜さんが尋ねた。


「人身御供として滝壺に身を投げたのは叶えたい願いがあったからではないのか? それが叶ってもお前は戻りたいと願う?」


 滝壺に身を投げるほど命を賭して叶えたい願いがあったと神様は思うのだろうか。私は顔を上げて彼の不安そうな顔を見た。そんな顔を見たら何も言えない。そもそも帰りたい場所があるわけでもない。明日のあてさえない。


「いえ、そもそも私には叶えたい願いなんてなくて。でも特別戻りたいわけでもなくて。私の戻る場所なんて、水希ちゃんの言う通りないんです。何処にも行けなくて、ただ楽になりたくて」


「なら良いではありませんか。あなたは何処へも行かなくて良い、此処で叔父様の花嫁として過ごせば良いのです。最後の恋ならこれからすればよろしいのですし。夫婦となってから芽生える恋など数百年前なら至極当然ですし、当世でも似たような部分はおありでしょう?」


 にっこり笑う水希ちゃんの笑顔に空恐ろしいものを感じながらも、私は頷くことができなかった。それもそうかと思う部分はあるものの、でもそれってやっぱりちょっとおかしいのでは、と思う部分もあって、頷いてしまうともう戻れない気がしてしまう。


「この契りを覆すことはできません。これは神である叔父様が認めた婚姻。あなたは既に、叔父様の花嫁なのです。ただ、ええ、祝言までは人の子として在りますから、存在を繋ぎ止めておく努力はなさってくださいね」


 きゅう、と雨竜さんが身を縮めたような気がするけれど、私は水希ちゃんから視線を逸らすことができなかった。可愛い顔と可愛い声で大人のような言葉遣いをする彼女に、言い知れぬ恐ろしさを感じるのはやはり子どもの姿とはいえ相手が神様だからなのだろうか。


「あなたは人でなく、かといって常世に馴染むものでもなく、今はまだ不安定な存在です。些細なきっかけで魂は消滅する。あなたに消えられてはわたくしたちも困ります。手助けはしますから、あなたもどうぞ、嫁入りの覚悟をなさってください」


 つきましては、と水希ちゃんは更ににっこりと笑う。


「叔父様と仲を深めるためにお話されるのがよろしいかと。わたくしは朝食の準備をします」


 そう言って立ち上がり、水希ちゃんは襖を開けて出て行ってしまう。軽い足音が遠ざかるのを聞きながら、私は途方に暮れて雨竜さんを見た。雨竜さんも説明に窮したような表情で私から目を逸らしている。


「すまない。あれには少し負い目があってな。僕もあまり強くは言えない。でも悪い子ではないから、大目に見てほしい。それに僕は半端者で、此度こたびの願いも受け取り方を間違えたようだ。あれは不甲斐ない僕を一生懸命に支えようとしてくれる。それ故の言動だと、理解してほしい」


 雨竜さんは手を首の後ろに持っていってさするように動かす。自信なさそうな様子に見えた。でもぱっと手を離して膝の上に置いて軽く握ると、思い切ったように私をじっと見つめる。


「深琴」


 深い声で名前を呼ばれて私は目を見開いた。それでいて染み渡るような、馴染む声。冷たい水の中から呼びかけてくるような、注意を向けさせるに充分な声。


「願いの聞き届け方を間違えたのは謝ろう。しかし既に僕たちの縁は結ばれた。契りは交わされ、夫婦めおととなった。お前の願いが叶っていないと言うなら僕はそれに応えよう。どうか僕と、最後の恋をしてほしい」


 真剣な頼みに、私は困惑して眉根を寄せた。

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