第2話 人身御供の願い事
「ひと、人身御供ってつまりあのそのえっと」
「どどどどうした落ち着け人の子よ。何をそんなに慌てておるるるるる」
あわわわわ、と私の動揺が伝染したように雨竜と名乗った青年も慌てた様子で呂律が怪しくなった。私も一緒になって焦ってしまうけれど、水希ちゃんは落ち着き払って雨竜さんを宥めた。
「叔父様、叔父様。叔父様は主なのですからどっしりと構えていた方が良いのです。人の子も慌ててしまいます」
「む、そうか、そうだな」
雨竜さんはこほんとひとつ咳払いをした。すぅ、はぁ、と何度か深呼吸を繰り返して、よし、と口に出してから私を再度見つめる。目の前で雨竜さんが落ち着きを取り戻し、私は頭を抱えて視界から二人を消した。
此処で目を覚ます前のことを思い出そうとする。そうだ、私、山を登ったんだ。普段は来ないような場所に車をつけて、仕事帰りのパンプスで特別舗装もされていないような山道を登った。確か川が流れていて、その川の名前は龍が淵川で、そして世を儚んで滝壺に身を投げ……投げた……。
「……」
そっと視線を上げれば雨竜さんも水希ちゃんも私をじっと見つめていた。同じ表情をして、愛嬌のある可愛い顔で。視界を覆って姿を見ないようにしても此処にいるのは変わらない。
「私が身を投げたから、人身御供だと思ったんですか……?」
「僕は水神だからな。そういうこともあろう。実に久方振りだ。しかもまだ若い娘、生きている娘だ。命尽きる前で良かった。よく望みを口にしてくれたな。確かに聞き届けたぞ!」
キラキラした目に見つめられて私は後ろめたさを感じた。そういうつもりは全くなかったし、望みを口にした記憶も特別ない。何だか凄く感謝してもらっているようだけど、身に覚えがなくてただ恐縮しきりだ。
「私、どんな望みを口にしたんですか……?」
恐る恐る尋ねれば、雨竜さんは純粋に笑った。あどけない少年のような、無垢な笑顔だ。
「最後の恋を所望したな」
そういえばそんなこと言ったかもしれない、と思って私は再び頭を抱えた。滝壺に落ちていく刹那、思い残したことを呟いた気がする。未練をまさか聞かれているとは思わないじゃないか。ましてそれを、聞き届けられるなんて。
「つまり私はあなたと、最後の恋を……?」
「そうなるな」
「神様!」
「なんだ、そう呼ばれるのは久しぶりだ」
悪い気はしない、と雨竜さんはくすぐったそうに笑った。そういうつもりで言ったんじゃないのだけど、あまりに無垢に笑うから否定もできなくて私は呻いた。ていうか神様って。水神って。何だそれ、夢じゃないのか。
「──人の子、頼む。疑ってくれるな」
笑っていたのは何処へやら、すぅっと温度が下がった気がして私は背を這う寒気に身を震わせた。懇願するような色を浮かべて雨竜さんが私を見る。水希ちゃんも同じ色を浮かべていた。底知れない深さを覗き込んだ気がして私は心が怯むのを感じる。
「疑うな。お前は確かに神へその身を捧げたのだ。間際に願ったそれを、僕が聞き届けた。これは現実だ」
私は頷いた。正直に言って怖かった。じわじわと命を削り取られるようなそんな寒気を感じた。命を絶とうと滝壺に飛び込む勇気はあったのに変なの、と自分でも思うけれどこの恐怖はもっと本能的なものだった。自分自身が消滅してしまいそうな、そんな。
この恐怖が本物なのだから、きっと目の前の二人も本物だ。本物の、神様だ。そう思えばふっと恐怖は消えた。でもまだ心臓がどくどく危機に瀕したことを報せてくるから私は震える息を吐く。ありがとう、と雨竜さんが静かに言葉を紡ぐ。
「人の子、お前の名を教えておくれ。お前をこの
問われて答えようとしたけれど、どうにも苗字が思い出せなくて私は名前だけを唇にのせた。
「
あぁ、と雨竜さんは頬を緩めた。慈しむように、愛おしむように。私は今までそんな視線を向けられたことがなくて目を丸くする。雨竜さんは髪と同じ色の長い睫毛を伏せて、綺麗だ、と歌うように口にした。
「雨音が奏でる楽が聴こえるかのようだ」
優しい声に私は胸が痛んだ。私の名前をそんな風に言ってくれた人は今までいない。私は本当に、この人と最後の恋をするのだろうか。この、神様と。
「……というか、最後の恋って言いましたよね?」
私は疑問が浮かんで思わず問うた。そうだ、と雨竜さんは頷く。待ってください、と私は言う。
「でもさっきは夫婦だって、言ってませんでしたか」
「言ったな」
けろりと雨竜さんは答える。混乱する私に違うのかと雨竜さんが尋ねた。
「最後の恋は夫婦の契りを交わすことだと聞いていたが」
「う、うーん……んんんん……どうでしょう……そう言えなくもないかもしれないですけど、恋の後に結婚があるというか、夫婦になるというか」
なに、と今度は雨竜さんが目を丸くした。
「夫婦の契りを交わしただけではもしかして恋が成就したとは……言わないのか……?」
たぶん、と答えた私にも分かるくらい雨竜さんはがっくりと肩を落とした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます