水神伴侶と最後の恋を

江藤 樹里

第1話 世を儚んで


「最後に、素敵な恋がしたかった」


 アラサー女の寂しい願い。素敵な恋がどんなものか、具体的な理想さえない。けれど漠然と思い描いていた素敵な恋というものを、私はこの二十八年の中でついぞすることがなかった。

 世を儚んで滝壺に身投げする私のささやかな願いを聞くものは誰もいない、はずだった。


「――その願い、聞き届けた」


 お腹の底に響くような低音が辺りに響いた。ような気がした。鳥は飛び立たないし木々も揺れていない。私の両足は地面を既に離れていたけど、地面だって別に揺れていないんだろう。

 春はまだ遠い季節。冷たい風が身を切り刻む。目の前いっぱいに白い何かが広がって、上がった水飛沫が顔にかかるのを感じたと同時に私の意識は其処で途切れた。

 次に目が覚めたのはあれからどれくらい経った頃か分からない。ただ起き上がって目に入った薄暗い部屋に、私は唖然として口が開いていることにも気づかないまま周りを見渡した。畳の上に敷かれた布団の上に寝かされているようだ。布団は暖かくて軽い。


「目が覚めましたか!」


 可愛らしい女の子の声がして私は目を丸くした。いつの間に現れたのかおかっぱ頭の女の子が私の顔を覗き込んでいる。大きい花柄の着物を着た、くりっとした黒い目が可愛らしい、まだあどけない子だ。十歳前後の子に見える。


「叔父様、叔父様、目を覚ましましたよ!」


 部屋の襖を開けて女の子は声をあげた。襖の向こうの景色を見て私は更に目を丸くする。まるで水族館だ。暗い水底に差した陽がきらきらと煌めいている。その向こうで沢山の魚が泳いでいる。日本家屋風の部屋なのに、一体どういうことか。

 そして遠くから、どたどたと慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえた。女の子が伸ばした首を部屋の中に引っ込めるのと、駆けてきた足音の主が飛び込んでくるのはほとんど同時だった。


「ああ、目が覚めたか! 良かった、殺してしまったかと思ったぞ!」


 物騒な単語が飛び出してきたけれど現れたのは綺麗な人だった。声の感じから男の人だろうと思うけど、中性的な見た目で女性だと言われても信じてしまいそうだ。白い肌が少し上気しているのは走ってきたからだろう。色素の薄い髪はこの暗がりだと白にも見えた。長い髪は後ろでひとつに括られている。細い束は馬の尾というより蛇のようだった。歳の頃は私よりも下に見える。まだ二十代も半ばだろうか。

 乱れた和服を正しながら青年は畳の上を歩く。足袋が擦れる音がした。私が寝かされていた布団の横まできて正座をし、ずいっと顔を近づける。綺麗な顔がいきなり目の前いっぱいに寄せられて私は思わず仰け反った。自分を守るように両腕を胸の前で交差させて手首を掴む。青年は真剣な表情で私をじっと見た。つぶらな目は女の子と同じように黒くて、可愛らしかった。


「龍が淵が主、雨竜と申す。人の子、お前の願いを聞き届けた。契りを交わし、僕とお前は夫婦めおととなった。以後、よろしく頼む」


「……え?」


 私は小さく声を漏らす。思考がフリーズした。言葉の意味を知っているはずなのに理解することを脳が拒否したようだった。


「こいつは姪の水希ミズキ。亡くなった兄の子だが身を寄せ合って二人で暮らしている。こんななりだが家のことは一通りできるぞ。働き者だ」


 おかっぱ頭の少女が雨竜と名乗った青年の隣に正座してにっこり笑う。笑うと血縁だからなのかよく似ている気がした。


「水希と申します。よろしくお願いします、叔父様の花嫁様」


「はな……よめ……?」


 聞こえた言葉を繰り返す。やっぱり、夫婦と聞こえたのは間違いじゃなかったのかと思って私は瞠目した。


「ま、待ってください。花嫁とか、夫婦とか、何のことだか分かりません。どうしてそんな」


 私が答えを求めて口を開けば、二人は顔を見合わせて心配そうに私を見た。私がおかしなことを言っているんだろうかと心配になる表情だった。


「人の子よ、お前が願ったのだぞ。この龍が淵が主に。人身御供となり、この水神の花嫁にと」


「──え?」


 驚いた私の声は、雫のようにただ落ちた。


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