第16話 七聖賢

 教室から廊下に出たところで、ばったりとアリアに出会でくわした。

「あら、ごきげんよう」

「おう、怪我は治ったようだな」

 おかげさまで、と軽く礼をすると、東に向かって優しく微笑みかける。

 こうして久しぶりに再会すると、改めて彼女の変化を実感する。

 一言でいえば丸くなった。以前は肩に力が入りすぎているせいか、誰に対しても常に態度を尖らせていた。今は理解者を得たことで心に安らぎと余裕が生まれ、ストレスから来る刺々とげとげしさが薄れたのだろう。

「そうだ、折角こうして会ったんだし、一緒に帰りましょう」

 溌剌はつらつとしているが、どこか上品な笑顔で言葉をかけてくる。おそらく、これが彼女の自然体なのだろう。

「断る。面倒くさいし、時間の無駄だ。俺は瞬間移動ですぐに帰れるんだよ。なんなら、教室を出る前にそうしておけば——」

 よかった、と言いかけたところで、アリアの顔を覗くと、目尻には雫が溜まり、宝石のように輝く瞳が悲しみで濡れていた。

 さしもの東とて、女の涙に耐性はない。やがて深々と嘆息すると、無言の首肯でアリアの意向に従うことにした。

「決まりね。じゃあさっそく行きましょう」

 先ほどまでの泣き顔とはうって変わって、アリアは満面の笑顔を咲かせると、東の腕に抱きついてくる。

 こうあからさまに喜ばれると、面倒事が増えたと感嘆したものか、女の子に好感を持たれたと照れたものか、なんとも言い難い気持ちになる。

「おやおや、仲睦まじいですな。お二方」

 ふと、前方からよく知った声が響き渡った。かつん、かつん、と足音を立て、白いローブで身を包んだ長身の男が悠然と歩みを進めてくる。その邪悪で淫靡いんびな笑顔を、東は忘れられるはずもなかった。

 ギナン・アヴェノニクス。東とアリアの決闘を邪魔立てし、あまつさえ東を袋叩きにするよう周囲にうながした張本人である。

 ギナンは東に詰め寄ると、即座に冷酷で薄情な笑みを剥がし、持ち前の威嚇的な眼光で東を睨みつけた。

「下賤な貧民よ。断りもなく何故そこに立つ? アリア様の抱擁に授かるのは天上天下においてこの私だけだ。部不相応の寵愛ちょうあいを受ける慮外者りょがいものは、く自害して消え失せろ」

 不愉快げに口を歪めると、傲岸ごうがんな怒りを東にぶつける。

 しかし東は侮蔑も非難もどこ吹く風、寛容に聞き流すと、呆れたように溜息をついた。

「分かった分かった。別にお前の恋路を邪魔するつもりはねぇよ。是が非でもアリアを屈服させたいならやってみろ。ただ、降りかかる火の粉は払わせてもらうぞ」

 挑発的な東の発言を、ギナンは鼻を鳴らして一蹴した。

「まだ自分の立場が分かっていないようだな。自分が強者のつもりか? 先の決闘で、貴様を仕留めようと思えばできたのだ。貴様が今日この日まで生き長らえているのは、この私の温情によるものと知れ」

 それきりギナンは東を視界から外すと、今度はアリアに視線を向ける。東の時とはうって変わって、生き別れの兄妹きょうだいに再会したような無垢で晴れやかな笑顔を浮かべていた。

「ギナン・アヴェノニクス。アリア様を手込めにすべくまかり越してございます。ご機嫌いかがでしょうか」

「ご機嫌よう、ギナン卿。貴方のせいで最悪よ」

 お互い輝くような笑顔でありながら、限りなく剣呑で殺伐とした雰囲気をかもし出している。部外者である東ですら、その場の空気に耐えかねて後退あとずさるほどだ。

「先日の約定を覚えておいででしょうか。貴女が私に絶対の忠誠を誓うむねを両の耳ではっきり聞かせて頂きました。嘘だとは言わせませんよ。昨日の晩より、如何いかにして嫌がる貴女を屈服させ、身も心も私のみの色で染め上げようか思いせていた所存でございます。嗚呼ああ、ついにこの日が来た。今日こそ私の屋敷にお越し———」

「ごめんあそばせ」

 みなまで言うことなく、アリアの拳から繰り出された空前絶後の衝撃に、ギナンの体が吹き飛ばされた。

 心意六合拳・崩拳の一撃。最大まで勁道けいどうを開き、いわおのように固めた拳を以って敵の体を突き飛ばす門外不出の技である。達人が放てば、丸太すらもへし折ることが可能だ。

 悲鳴を上げることも、悶絶することも叶わず、圧倒的な拳圧に吹き飛ばされたギナンの体は、勢いよく背後の壁に叩きつけられた。鉄拳のクリーンヒットによって肋骨は粉砕し、内臓は粗挽あらびき肉へと変わった。

「あらいけない、ついアズマにする感覚で殴っちゃったわ」

「それやばくない? 大丈夫?」

「ギナン卿なら大丈夫よ。生きてても死んでても」

「そっちかよ。紛らわしい」

 昨日の決闘でアリアが恥辱に甘んじていたのは、満身創痍であったが故に抵抗できなかっただけであり、決して戦闘面で遅れを取っていたからではない。

 無論、ギナンも銃の腕前は第一級に属するが、人型の修羅と化したアリアの反応速度や行動速度は、銃弾のそれを遥かに凌駕する。魔術を用いない純粋な格闘戦なら、アリアがギナンに負ける道理など一分いちぶもないのだ。

 普段のアリアならば、ギナンの無礼を余裕の構えで笑い飛ばすほどの器量は持っていた。しかし、彼女が設けた決闘を阻み、東を愚弄にした狼藉者に対して、既にアリアは一片も情けをかけるつもりはなかった。

「さて、行きましょうか。今なら夕日が綺麗なうちに帰れるわ」

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