"好き"への道のり

七海

女の子目線

今日の6限目。

ようやくあと1時間で放課後だという時分に、私は地獄の底にいた。


体育――それは、運動が苦手な私にとっては苦痛の授業だというのに、よりによって今日は持久走という最もしんどいものだった。


きっとどの所でもそうだろうが冬に行われるそれ。それだけでも嫌なのに、私の通う学校では謎のルールがある。


一つが半袖半ズボンで走ること。

1月だというのに、走れば暑くなるからという理由から強制的に脱ぐ羽目になる。

長袖のジャージを着ていても寒いのに、脱ぐとなるとそれはもうものすごい努力を要する。

生徒からのブーイングは毎回上がるものの、慣れているのだろう先生は授業が長引くだけだとあしらって聞いてくれやしない。


そしてもう一つが、制限時間があることだ。

授業時間は50分。そのうち準備運動等差し引くと40分程なので、運動部の子が30分以内、文化部や帰宅部の子が40分以内という具合に決められている。


なぜこんなルールがあるかというと、サボる――というか真剣にやらない生徒が多数いたせいだ。

きちんとやらせるためのルールは、少なくとも私を苦しめる。

だって真剣にやっているのに40分以内に走り切ることは不可能に等しいのだから。



制限時間を守れなかったらどうなるか。

放課後に補習としてまた走らさせるのだ。

これを地獄と言わずしてなんと言おう。



私はすでに泣きそうになりながら、剥き出しになった腕を擦る。

鳥肌が立った肌は、寒いを通り越して痛い。



ピーーーッとなる笛は、もはや死刑宣告だった。

脱兎のごとく一斉に駆け出す。

みんな、早い。補習を免れるためと早くジャージに袖を通すために必死だ。



スタートの時点ですでに置いていかれた私は、とぼとぼ――これでも全力なのだが――走る。

身体は寒さで硬く、思うように動かない。

それでも懸命に歩を進めれば身体中に血が巡るのが分る。

代謝が悪いから汗こそ出ないものの、少しずつ暖かくなってきた。



次第にゼェ、ハァ、とうるさくなってくる自分の呼吸音に嫌気が差しつつそれを止める術もなく走る。



「がんばれっ!」


2周目に差し掛かった時、ふいに聞こえた軽やかな足音と少し高い声が耳朶じだを撫でる。


振り向くよりも先に一人の男子が横切る。

帆波だ。


ぶっちぎりトップなのだろう彼は、少し息は上がりつつも爽やかにガッツポーズを向けながら走り去っていく。


ありがとうと途切れ途切れの私の返事は聞こえただろうか。

きっと喘鳴ぜんめいに紛れていただろう、というかこんな姿恥ずかしくて穴に入りたい。

そんなことを思いつつ懸命に前に進むも、次々と男子や先頭の女子たちに抜かされていく。



あぁ、嫌だ。

置いてけぼりだ。



大人びていてしっかりしていると、両親や同級生、先生らは皆そう私を評する。だからそれに見合うようたくさん努力しているけれど、周りにどんどん抜かされていく。

一生懸命に走っているつもりなのに、この足取りのようにちっとも前に進めている気がしない。

ちっとも追いつけやしない。



途端、視界が水浸しになる。

前が見えない――



「う、わ!?」



ごりっと何かを踏んづけて派手に転んでしまった。

左足がザリザリに擦りむけている。

見るからに痛そう、と他人事に思いつつ私を転ばせたであろう一際でかい石をにらむ。


しかしこんなことをしている場合ではない。タイムリミットは刻々と迫っている。

ぐいっと涙を拭いて立ち上がりまた走る――つもりでいたがそうはいかなかった。

左足首が痛い。半端なく痛い。




「う、そでしょ…」



再びポロポロとせきを切ったように涙が溢れる。


現在地点はようやく最後の3周目前半。私がビッケだから後ろから抜く人などもういない。



ぐっと右足に力を込めて立ち上がる。

助けてくれる人なんていない。なら自分が自分を助けるしかない。


怪我したのだ。まさか補習まではやらされまいと少し軽くなった心で歩き出す。

思っているよりも重症なのだろうか、少し力を込めただけでも痛みが走る為、左足をズルズルと引きずりながら出来る限り早く歩を進める。


 

ズキっと痛みが走るたび視界がぼやけるが、今は我慢だと知らないふりをした。

授業終了まであと何分残っているのだろう。

辿り着けるだろうかと一抹の不安を抱いた時だった。





「丸山っ!」



反対方向から物凄いスピードを出しながら駆け寄って来たその人が、私の名を呼ぶ。



「ほ…なみ」



「なんかっ、心配になっちゃって来たんだっ、けど」



膝に手をついてゼェ、ハァ、と息を吐く彼が先程追い抜いて行った時まるで異なっていて、私の方が心配になってしまう。



「ちょっと…大丈夫?」




「大丈夫はお前だろ!足捻ったん?」



真っ赤に染まった顔をあげて私の顔を覗き込む。

あれ、帆波ってこんなにかっこよかったっけ――



「乗って」



その顔がすぐに逸らされ、背中を向けられる。



「えっ、でも」



流石におぶられるのは恥ずかしい。

急速に体温が上がるのを感じた時、彼の耳が真っ赤に染まっているのを捉えた。

意を決したのに照れているのだろうその姿に断ってはいけない、と思いおずおずと乗る。

小さな背中は、しかし思ったよりも硬く男を感じさせた。



「しっかり掴まってろよ」




立ち上がった途端、彼は思いもよらないスピードで走り出す。

思わずぎゅっと彼にしがみつく。

彼の肩口から見える景色が早回しのように様変わりし、風と共にくすぶっていた感情が後ろに流れていく。



帆波のおかげで気づけた。私は私のペースがあるからそれでいい。

つまずいても諦めずに歩を進めれば、きっといつの間にか周りに追いついていくんだろう――





あっという間に校庭まで辿り着いてしまった。

ジャージをきて身を寄せ合っているクラスメイトが一斉にこちらを見やる。

そしてざわり、と音が聞こえた。


どうやら男女で反応が二分化されているらしい。

男子は茶化すように、女子は悲鳴をあげるように各々が奇声のようなものを発している。

帆波は女子に人気だしなぁと思いながら、彼の一番近くにいることがなぜか嬉しく感じる。もちろん気まずさも感じてはいるんだけれども。



キーンコーンカーンコーン




騒がしいのを遮るかのように、チャイムが鳴る。



「せんせー!セーフだよねー?丸山怪我したからこのまま保健室つれてくよー!」




なんだか楽しそうに帆波が叫んだ。

でも注目されているせいか耳は真っ赤に染まっている。

先生は呆気に取られたように何も言わなかったが、構わず彼は校庭を駆け抜けていく。



すごい。

ギリギリセーフだ。

私の為にあんなに全力で走ってくれたのだと嬉しくなって、彼に回した腕に力が籠る。

彼の体温が少し、高くなったのを感じた。





「わるい、すげー揺れたよね。」



「ううん大丈夫。ありがとね、帆波」



保健室の背もたれのない回る椅子に座らされた私が感謝しながら笑いかけると、帆波も破顔した。

そんな顔をずっと見ていたい――と思ったのも束の間、保健の先生呼んでくるね、と背を向ける。

私は咄嗟に彼の腕を捕まえてしまった。




「…どした?」



すっとしゃがんで俯いた私と目を合わせるように顔を覗き込まれる。

カァッと全身が熱くなるのを感じた。




他の男の子よりまだ幼く見える彼が、なんだか誰よりも男の子にみえる。



ねぇ。私、帆波のこと好きになっちゃったみたい。

そう言ったら彼はどんな顔をするんだろう。



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