2

南の森を後にして、わたしたちが住まう木々の『家』まで戻ると、そこからさらに森の奥深くへと、ひとり進んでいく。

わたしたちが住んでいるこの世界は、どこも空気は澄んでいるが、森の奥へ進めば進むほど、それはさらに凛として、厳かなものになっていく。

ここからさきは、わたしたちにとって一番大切な場所。『聖域』と呼ぶのが、おそらく一番ふさわしい。わたしは毎日ここに来ているが、いつも身が引き締まるような、背筋が伸びるような感覚がする。

突然、森の木々が開けた。温かい太陽の光が降り注ぐはずのそこに、ほかのどの森の木々よりもはるかに悠大な大樹がひとつ、静かに佇んでいた。それは両腕いっぱいに広げ、空からの恵みを吸収している。

彼女こそが、わたしたちの母なる大樹。わたしたちは皆、彼女から生まれ、やがて死する時も彼女の中へと帰っていく。

「おはようございます、お母さま」

見上げて、控えめに、でもはっきりと挨拶すると、木々がさやさやと風に揺れた。お母さまから返事をもらえたことがくすぐったくて、自然と笑みがこぼれる。

わたしは一度、手に持っていた籠を置くと、靴を脱ぎ、ズボンの裾を膝上まで捲りあげる。

お母さまとわたしの間には、大きい水溜まりのような池がある。籠と脱いだ靴を持ち、池の中を、お母さまの根に足を取られないよう気をつけながら進んだ。木の葉の隙間から零れ落ちる光がゆらゆらと映る水面は、わたしの侵入によってさらに大きく揺らめく。その水はわたしの膝下あたりまであって、一歩ごとにふわんと撒き上がる水底の土を、ひと粒ずつ目で確認できるくらいに透き通っていた。

お母さまの根元は中洲のように土が集まっていて、木の葉で太陽の光があまり届かないそこは、柔らかい苔が一面を覆っている。

その岸に上がると、わたしが何十人と手を繋いで、ようやくぐるりと一周できるであろうお母さまの幹の根元に、背を預けるように座っている少年が見えた。

「イオ!おはよー!」

瞳を閉じて、まるで眠りながら座っている少年―イオに、わたしは明るく挨拶をしながら歩み寄る。

色素が薄くて、ふわふわと柔らかそうな髪は、ゆるくウェーブをしながら肩までのびている。白くて綺麗な肌。閉じられた瞳の長い睫毛は、髪と同じく色素が薄い。儚く美しい印象をあたえるその姿は、どこか作りものじゃないかと思わせる。

――おはよう、ヒナ。

淡いピンク色の唇は動いていない。しかし確かに少年の声が、わたしの頭に直接響いてくる。

――木の葉の隙間から暖かい光が入ってきてるのを感じる…きっと今日も良い天気なんだね。

瞳は固く閉じられたまま、声だけがまた頭の中に響く。彼の唇が、この世界で音を発することはない。

「はい、今日も南の森はたくさん果物や木の実がなってたよ」

わたしは靴を置いて、イオの隣に当たり前のように座ると、開くことのない彼の瞳がさも開いているように話しかけながら、藤の籠を顔の横まで持ち上げて見せた。

傍から見たら、彼の様子は何も変わらないように見えるだろう。でもわたしの目には、確かに彼は嬉しそうに微笑んでいた。

「どれがいい?」

籠の中の色とりどりの果物を、イオに見えるようにそっと差しだす。

――ヒナは何食べたの?

「バナナ」

――じゃあ僕もおんなじのがいい。

可愛らしいことを言う彼の言葉が何だか嬉しくて、わたしはちょっと頬を赤らめながら、にひっと笑みを浮かべた。

彼の希望通り、房からバナナを一本もぎ取り、その皮を剥くと、薄黄色の中身をぱくっと自分の口にくわえた。もぐもぐと口の中で咀嚼してその身を柔らかくすると、そのまま瞳を閉じたイオの顎をつかんで少し上に持ち上げた。そして、躊躇うことなく彼の唇に自分の唇を重ねると、咀嚼したバナナを彼の口の中に流し込んだ。唇を離すと彼の喉元に目をやり、ごくりと喉仏が動いたことを確認する。

――甘いね。

ふふっと笑うイオの声が響く。

「そりゃあペレが育てたんだから、どれも濃厚で最高に美味しいよ」

わたしはにーっと笑いながら、次のひと口を自分の口に含んだ。


――ねえ、ヒナ。

食事も終わり、テポが入れてくれたお茶を口移しで飲ませ、口元を拭いてやったあと。イオがわたしの名をぽつりと呼んだ。

「んー?」

自分の口元は自分の服で拭いつつ、返事をしながら彼の方に目を向ける。優しい風が、彼の柔らかい髪をふわりと揺らした。

――いつもありがとう。

「…なんだよ、急に」

突拍子のない礼に、何とも言えない照れくささと同時に、居心地の悪さを感じた。

――言いたくなったんだ。自分の気持ちは、伝えられるときにちゃんと伝えないとね。

それ以上、イオは何も言わなかった。

「?」

なんとなく違和感を覚えた。けれど、この時のわたしは、まあそんな気分のときもあるだろうと、深く追求しなかった。何も言わず、眠っているようなイオの肩に、わたしは自分の頭をそっと乗せた。

あとから思うと、きっとこの瞬間、彼とちゃんと向き合うべきだったのだろう。でも、わたしがそれに気づくのは、まださきの話になる。

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