むげん物語
梛月るな
序章
1
「ヒナ!ヒーナっ!」
すぐそばで、わたしを呼ぶ声がする。
「…ん」
ぬるま湯のような空気。優しくて安堵できるものに包みこまれている感覚。夢か現かの微睡みほど心地よいものはない。
「朝だよ、起きてー!」
少女の明るくて元気な声が、狭間の世界からの覚醒を促す。鬱陶しさを隠さず目をうっすら開けると、肩より少し高いところで切りそろえられた赤毛の髪の少女が、『家』の外から私を覗き込んでいた。
「寝坊助だなー」
「おまえが無駄に早いだけだろ…」
「あはは、グノにもおんなじこと言われた」
赤毛の少女―ペレはにひっとイタズラっぽく笑う。観念したわたしはゆっくり上半身を起こした。
「…で、そのグノは?」
「起きたよ。でもあっち行けって」
よっと彼女は背を向けて、わたしの『家』から飛び降りた。
「よし!次はユルでも起こしに行こっかなー♪」
そう言いながら、次の獲物を求めてペレはその場を去った。
「まったく…」
自然とため息が溢れる。別に早く起きる必要なんてないのだ。
わたしは『家』である大きな木の幹からずるずると出た。見上げると、空が濃い藍色をした空が、東から少しずつ白んでいく。
でも、早朝のこの空気は嫌いじゃない。一日のうちで、一番空気が澄んでいるこの瞬間。すぅっと口から吸い込むそれは、ひんやりしてて、からだが内側から清められるように清々しい。自然と、気持ちよく目が覚めていく。
わたしは、うーん…っと伸びをして、いつも通り東の泉へ出かけた。
「おはよう、テポ」
池と呼ぶにはやや小さく、水溜まりと呼ぶには大きすぎる泉に、先に来ていた黒髪の少女の背中に声をかけた。
「おはよう」
少女は振り返ると、濡れた顔を布で拭きながら、優しい笑顔で挨拶を返した。いつもおろしている長くて艶やかな波打つ黒髪は、今日は頭の上で綺麗にまとめられている。
「テポもペレに起こされたのか?」
わたしは黒髪の少女―テポの隣に座り、泉の水で両の手のひらで掬う。地下から湧き出る、どこまでも透明な水は、きんと冷たい。
「うん」
「あいつの無駄に人を叩き起こす癖、どうにかなんないのかな」
テポはくすくすと笑う。その様子を感じながら、わたしは手のひらの水を顔にパシャリとかけた。
「テポ、朝飯は?」
テポが渡してくれた布で顔を拭う。彼女が織ったその布は、いつも通り柔らかくて心地いい。
「これから南の森に行こうかなって」
布を首にかけ、もう一度てのひらに水を溜め、今度は口に運ぶ。澄んだ水が、からだの中から隅々まで染み渡る。
「じゃあ一緒に行こ!」
わたしは口をぐいっと手の甲でぬぐい立ち上がった。
「あ、グノー!」
南の森に向かってテポと二人で歩いていると、暗い赤毛の髪が肩の下まで伸びている少年の後ろ姿が見えてきた。
「グノもこれから朝食?」
振り返った少年―グノに駆け寄り尋ねる。
「ああ」
グノはあまり表情を変えず、でも返事はきちんと返してくれる。
「おまえたちもペレに起こされたクチか?」
「まあねー」
やれやれ…と言わんばかりにグノはため息をついた。その様子が何となくおかしくて、わたしもテポもくすっと笑った。
他愛のない会話をしながら、とくに示し合わせたわけでもなく、当たり前に三人で南の森へと向かった。
「テポは今日なんにする?」
目の前にたくさんなっている木の実や果物を吟味しながら、同じく隣で自分の頬に手をあてながらどれにしようかと悩んでいるテポに尋ねる。
「わたしは…葡萄にしようかな」
テポは、んーっと悩みつつも、目の前で大粒の実が溢れんばかりに実っている葡萄に手を伸ばす。
「ヒナは?」
「んー、やっぱり朝はバナナかなー」
これだけたくさんの選択肢があると、つい定番に落ち着いてしまう。
ここは南の森。わたしたちが住むこの地で、一番太陽の光が降り注ぐ場所。東の泉からの水が川となって流れこみ、豊かな土と、やかましい…もとい、太陽のように明るい、赤毛の少女がもつ『豊穣』の力で、常に色とりどりの花が咲き、数多の種類の木の実や果物が実っている。
「あ、みんないるいるー!」
弾けるように元気な声が、わたしたちの背後、森の入口の方から飛んできた。目をやると、ペレがぶんぶんと手を振りながらこちらに向かってくる。
「ずいぶんゆっくりだな」
声の主に叩き起こされたグノは、ほんの少し不機嫌そうな色をのせて声をかける。目つきが鋭いので、ちょっと睨まれるだけでもまあまあの威圧感がある。
「だってユノが全然起きてくれないんだもん!」
でもそんなことはまったく気にしない様子のペレは、ぷうっと頬を膨らませながら言う。
「てか、ユノまだ寝てない?」
言いながら、わたしはペレがずるずると引きずってきた、ゆるいウェーブのかかった明るい茶髪の少年―ユノを覗き込んだ。少年は力なくぐったりしているのだが、よくよく見ると顔は穏やかを通り超えて無防備で、耳を澄ますとすうすうと小さな寝息が聞こえてくる。
「うわっ、ほんとだ!もー起きてってばー!」
自分が引きずってきた少年がいまだに寝ていることを確認すると、ペレは彼の胸ぐらを掴んで大きく揺さぶり、大声で呼びかけいる。
「ここまでされて、よく寝てられるよね…」彼の睡眠力は、呆れるのを通り越してもはや感心する域に入っている。
「まあ放っておいたら昼を過ぎても寝てるからな」
同じく呆れた口調で言うグノ。ちなみにわたしたちは日が暮れると同時にみんな大体寝ているから、昼過ぎまでとなると一日のほとんどを寝て過ごしていることになる。
「さて、今日はどうやって起こす?」
すやすや眠るユノから目を離さぬまま、わたしはみんなに向けて尋ねる。
「顔に水でもかけるとか?」
さっき泉で汲んだ水があるの、とグノが作った美しい白磁の水差しを顔の横に持ちあげるテポ。いつも通りのにこにこ笑顔の穏やかな口調で、なかなか過激な提案をする。
「あはは!それおもしろそー!」
楽しいことが大好きなペレは当然それに乗っかるし、わたしとグノももちろん異存はない。
ペレはテポから水差しを受け取ると、眠っている少年の顔の上に、冷たい水をちろちろっと滴らせる。
「うわぁ!?冷たー!」
流石にこれには驚いたようで、明るい茶髪の少年は飛び起きた。
「おはよー、ユノ!」
眠た眼のまま驚いて、何とも間の抜けた顔のユノに、ペレはにーっと意地悪く笑ってみせる。ペレの後ろで、わたしはお腹をかかえて笑い、グノはにやにやと意地の悪い笑みを浮かべ、実は言い出しっぺのテポも面白そうに笑っている。
「もーみんなひどいよー!」
顔にかかった水を服の袖で拭いつつユノは抗議したが、その声は彼自身もちょっと楽しんでいるようだった。
賑やかな朝食もひと段落して、南の森のすぐそばにある小高い丘の上。辺りは若草色の短い芝生が広がり、足元には南の森のさまざまな色が広がっている、太陽はすっかりその姿を見せ、あたりは徐々に早朝のひんやりした空気を温めはじめる。ユノは少しからだを丸めて横向けに、ペレは大の字仰向けで、芝生の上に寝そべってふたりともうとうとしている。テポが入れてくれたお茶を、わたしとグノの三人、芝生に座ってゆっくり味わっている。
「今日もこれからお母様のところに行くのか?」
みんなそれぞれまったりくつろいでいる中、グノがわたしに聞いてきた。
「ああ、イオも腹を空かせているだろうしな」
わたしは自分の隣に置いている藤の蔦で編んだ籠に目をやった。中には色とりどりの採れたての果物や木の実がたっぷり入っている。みんなそれぞれ役目があるように、これがわたしの役割でもあるのだ。
「お母様とイオによろしくね」
テポは穏やかに微笑むと、いま飲んでいるのと同じお茶が入っているであろう小さめの水筒を、はいとわたしに手渡してくれた。
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