7. 痛みの亀裂
「……えっと、エリカちゃんの家って……ここ?」
「うん。そうだよ」
「……ここって、トワイライトだよね」
「うーん。住み込みというかなんというか……まあ、そんなに深く考えないで」
「じゃあここに来れば、いつでもエリカちゃんに会えるってことだね」
「そだねー」
そんな他愛ない会話をしていた。
「トワイライトといえば、あの伝説の先輩が住んでるところでしょ?」
「えっ、伝説?」
「そう、小学校から成績がオール5で、容姿も淡麗。まさに才色兼備な方。全校生徒の憧れというか、聖母的存在なの」
「方」なのが、妙に不気味だ。
「その人って、ロングヘアーで、身長高い?」
「うん。声は透き通ってて、普通の言葉でも特別に感じてしまうというか。ふとしたときの手の動きや歩き方みたいな日常動作にも気品に満ち溢れているというか」
「ああいう人が、生徒会長になるんだろうな。文化祭とか体育祭を企画して、人間関係の立ち回りに優れていて、世渡り上手な勝ち組の人生を送ってくんだろうね」
「……ああ、すごいよね。うん、すごい」
「……私達、結構通ってて、その方とあんまりお話しする機会はないんだけど、顔は拝見させていただいてる」
「いいよ。そんな敬語使わなくても。結構お話好きで、割とフラットに話してくれるよ」
「エリカは自覚ないの。目の前にいる女の子が、みんなにとってのプリンセスだっていうこと」
「……私は、恋とか、憧れとか、よく分かんないし。分かるのは、リラさんと私は、すごく離れてるんだなぁってことだよ」
「シンデレラみたいなこと言うね、あなた」
そんな皆んなの憧れの人に向かって、「お姉ちゃん」と呼んでいるなんて、死んでも言えなかった。
私は、感情だけを頼りに、本当に無謀なことをしてるのかもしれない。ぷつり、と心の中に僅かな亀裂が入った気がした。
ドアを開ける。
コーヒー豆とレモングラスの香りがするアロマストーン。いい匂いだ。いつもの、「家」の匂い。そして、いつもと同じように、「普通」に美雪さんがカウンターに立っている。
向日葵さんが言った。
「喫茶店に住むのって、おしゃれで、憧れるー。っていうか、何で住んでるの?」
「……えっと、それは……」
「はいはい、これ、メニュー。学生はサービスで百円割引」
「わー」
たまたまタイミングがよかっただけか、それとも困っているのを察知してくれたのか。ともかく美雪さんは私のことを助けてくれた。
「……ひまひま、お待たせー」
「おー」
クリームソーダ。横長のグラスの中心には仕切りがある。左は赤色、右は緑色のサイダー。シュワシュワと泡を立て、上にはバニラアイスと、二つのストローと、持ち手がくるくる巻きのスプーンが乗っかっている。
美味しそうではあるけど、お腹冷えないのかと心配になる、
すみれさんはミルクティーを頼んだ。白とネイビーのコントラストが特徴的な水玉模様の可愛らしいカップ。上にはシナモンパウダーとはちみつ漬けされたリンゴが添えられている。二等分されたキッシュトーストを二人で頬張っている姿は、やっぱりどこか愛おしい。
カツサンドとか、コロッケサンドは出さないのに、キッシュトーストがあるのは、変わっている。手間とかではなく、単に美雪さんの好き嫌いの意向が反映されていて笑う。
「女子会!やったね!」
「やったぁ、なのかな?」
女子会って、こういうのなのだろうか。
これってただ友達を家にさそって、一緒に飲食してるんだと思ってたけど、違うだろうか。それが最早女子会なのか。
冗談抜きでほんとに分からない。悲しいけど、嬉しくもある。
「いいの?エリカちゃん、コーヒーだけで」
「……あーうん。私お腹空いてないから」
「……じゃあ、いただきまーす」
❀
「手、冷たい」
「外の風がひどかったもんね」
「ほら、手、貸して」
「あったかい」
「ごめん。変なこと言ってもいい?」
「是非是非」
「二人って、結構、似合ってるよね」
変なこと、とまでは言わないが、二秒ほど脳の思考が停止するくらいには衝撃的な言動だったみたいだ。
「まあ、『好き』ではあるかも」
「それなりに、ね」
語尾を伸ばした発声と、少し緩んだ口元は、諦めか、呆れか、それとも。
「それなりに『好き』って、面白いね」
「まあ、他人から見たら、普通じゃないんだけど。私たちにとっては、ありふれた普通だよ」
「……特に大きなきっかけっていうのはないかな。気づいたらすみれがいた。……誰かと一緒にいたかったから、すみれが傍にいるんだろうね」
「なんか良いように言ってるけど、結局のところ、一人でいることを諦めているだけなんだよ」
続けてすみれさんが頬に右手を添えながら言う。
「『好き』と『嫌い』も、ある意味気分的なもので、すごく理不尽。だけどそれに、私たちは、穏やかに狂わされているんだと思う」
「『穏やかに狂わされている』って、しっくりくる言葉やね」
「私にとってのひまは、かわいい、とかスタイルいいとか、それくらいの印象しか持っていなくて。そのほんの少しの印象が、『好き』を形作っていって。最初から特別な思いを抱いてたわけじゃなくて。少しの思いが、私にとっての――」
すみれさんは、言い淀んだ。
「ねえ、ひま」
「今、どこ見てた?」
「あっ、いやぁ、別に」
ひまわりさんがずっと目線を逸らしながら言った。
その視線を追うようにすみれさんがじーっと睨むように見つめる。
「正直に言って。しょーじきに」
「その、すいません……」
「ひまって、煩悩まみれな女なの。こういうのあるから、エリカちゃんも気をつけてね」
「……あっ、いや。向日葵さんの気持ち、分かります、かも……人の身体……胸、とか、ちょっと気になるですもんね」
「……ひま。何恥ずかしいこと言わせてんの?」
「……あっ、ごめん。エリカちゃん、すごい顔赤くなってる。あの、ソーダ飲んでいいよ。一回、ほっぺた冷まそう。それかほら、すみれの身体、いっぱい見ていいから」
「……あっ、いや。私、臆病なものですから、……あっ、あんまりそういうのできなくて……」
「いや、エリカちゃんは見てもいいけど……ひまはダメだよ」
「なんで?」
「ひまだから」
「……なんで私はダメなの?」
「ひまはひまだから。ひまはダメなの」
あれ、さっきまで、なんの話してたっけ。
ゆっくりと、それでも早く、時間が経過していく。それが充実していたのか、はたまた無駄な時間だったのかはよく分からない。
でも、楽しかった。人と会話することが。
こんな感覚は久しぶりだった。
喫茶店の持つ魔法。秘密の女子会とその秘密は、私の居場所になっていた。
「……エリカちゃん、一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「……私たちのこと、『さん』で呼ばないでほしい。さん付けは、違和感があって、なんかムズムズする」
「……分かった。うん、じゃあ、また明日ね」
「じゃあね、『エリカ』」
❀
友達という定義は、今でも明確には分かっていない。だから、毎日のように軽口を交わせる、あまり踏み込んで知ろうとしてこないという独自のルールを作って、友達だと思い込むようにした。そうすることで、友達と呼べる人間は、学校生活を楽しく過ごすにあたって困らない程度には作られると思うから。
「友達、出来たんだ」
美雪さんは、ポツリと呟いた。空が青いのにも関わらず、前触れもなく落ちてくる、そんな日照り雨のように。
「……まあ、友達と呼べるにはまだ浅いですけど」
「ふーん」
「……でも、何だか嬉しいです。人とすんなり話すことができるの」
「二人、付き合ってるの。見てて可愛いよね?」
「はい。すごく」
「エリカちゃんは?そういうの、好き?」
「それは、どういう意味ですか?」
「色んな意味で。色んなことについて」
私なりに解釈してみる。
好きな人のいない私が、何食わぬ顔で「好き」を分かち合う二人を見ていいのか。
そもそも私は、人を好きになっていいのか。
その時、思う。
ああ、きっと。こういうことは、すごく面倒なんだ。私が思っている以上に。
「……私は、その……恋愛とか……分からないから」
すると美雪さんは、突然私の頭を撫でた。他人に髪を触られるのは、悔しいけど気持ちいい。なんでか知らないけど目がウトウトして、眠くなる。
「蕾が開くのは、もうちょっと先かな?それまでは、私と一緒」
美雪さんは私を見ている。凝視、とまでは言わないが、深い溝を覗き込む感じに。
「エリカちゃんはこれからどんな子になるのかな。やっぱり、楽しみだよ」
「私は面白くないですよ。人間観察の餌には向きません」
「面白くないって言う人ほど、面白いんだよ」
「チェックリスト、もうとっくに入ってるからね」
意味が分からない。いや、言ってることはわかる。でも、その奥底にある感情が読み取れないような。
美雪さんは笑っていた。いつもの笑い方。いつもの、何を伝えたいのかよく分からない、ミステリアスな笑い方。大人の余裕を感じさせる笑い方。すみれとひまわりの、伝えたいものがはっきりと分かる笑顔とは、全くもって対称的な笑い方。
なんだか、それは妙に綺麗だった。
私が分かっているのは、美雪さんの笑みは綺麗だということ。それ以外、ベールに包まれていて私には分からない。分からないことを深く考えるのは、きっと時間を無駄にする。
もう、今日は寝ることにしよう。
長い欠伸で、夜の匂いを吸い込んだ。
❀
「あなたは、誰にもなれない」
ああ、また。
夢の中の私は、ただ何も話さない。話す気になれない。何かを、伝えるべき何かを、ただ伝えたくない。
「……痛いよね。言わなきゃいけないことが、言いたくないの」
「ほんとは、『私は私だ』って叫びたいのに」
違う。
私は、そんなこと言いたくない。
私は私以外の何者でもない。だけど、そんなことを強引に伝えたって、何も起こらないことも分かってる。
「痛いね、気持ち悪いね」
「こんなとき、『誰か』が、居ればね」
夜が明けて、夢が覚める。
朝の憂鬱なリズムが、繰り返されていく。
重い身体を起こすと、その「誰か」がいない。少し時間が経てば、すぐ会えるのに。だけどその近さに、少し寂しくなって。
その反動で、痛みの亀裂が入っていく。
❀
「おはよう」
可愛いのだ。要するに、可愛いのだ。
私の妹は。
眠たそうに目を擦りながら私を見る表情も、「熱い」と言いながら、スープを飲む表情も。毎日のようにお腹が痛くなって、トイレに籠るまで、その表情の変化さえも。
ただ愛おしいのだ。
愛おしいから、ずっと傍にいたいのだ。
そして、何かを伝えたいんだ。
その何かが分からくて――だけどその不明瞭を繰り返す毎日が、退屈しのぎみたいで、楽しみにもなっている。
「あっ、うん。おはよう」
「……今日は、ちょっと遅めだね」
「……あーごめん。なんか、疲れちゃって。それに、休みだし」
「……ちょっとお店の手伝い、してくれない?」
エリカに頼んだのは皿洗い。そこから乾拭きと整理。
オーダーを聞きに行くのは私。
料理を作るのは美雪さん。
やっぱり、エリカは話すことが苦手らしい。
苦手なことを、ただ苦しいままさせ続けるのも、それはそれで酷だ。
だけどエリカが慣れ始めれば、一緒に料理を作ったり、オーダーを聞きに行ったり、色んなことをすればいい。
「えーっと、この皿は、どこに置けばいいんだっけ」
「ああ、これは、あそこ。上の、真ん中の棚。開いて右側の方に、束になってるから、そこに入れといて」
「……分かった」
「……皿運ぶのちょっと退屈なら、今日、料理、運んでみる?」
「……あっ、うん。やってみる」
エリカは自分のことを「不器用」だって言っていたけれど、今のところは感じられない。むしろ、皿洗いや掃除をミスなく丁寧にこなしてくれる。
「じゃあ、まずは、皿を持ってみよう」
「……うん」
「……まずは、左手のひらを開いて。料理は左手、ドリンクは右手で運ぶのが基本」
「親指と小指をやや上向きに。中3本の指を下にして、挟んで持つの」
「……ちょっとごめん。もう一回言ってもらえると助かる」
「言って教えるよりも、実際にやったほうが分かるよね」
「……まあ」
「……手、触れていい?」
「……うん。いいよ」
「こうして、こうね」
「……そう。持ち方にも色々やり方があるから、それなりに持ちやすいと感じたやり方でやって貰えれば」
「……これを持って、運んで、そこから話すの、緊張する」
「まあまあ、初めてだから、そんなこともあるよ。じゃあ、私、お客さんの役やるから、エリカは、実際に店員になったつもりでやってみて」
嘘だ。本当は、店員になった体のエリカを独り占めしたいだけなのだ。
緊張しているエリカを見られるから、私は「いつまでもここにいたい」と思える。手は振らずに、言葉もかけずに、ただ彼女を見ていよう。
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