8. こころの
北海道咲友町。道端のコンクリートの割れ目に群がったシロツメクサのような、小さな街並みが広がっている。そんなちっぽけな町の、古ぼけた小さな喫茶店。
週末になると、トワイライトには、多いとも少ないとも言えない、ほどほどの人数の客が訪れる。
午前10時。開店と同時に、ある一人の女の子が店内に入ってきた。
「いらっしゃいませー、
「おはよう、リラ」
グレーの起毛したトレンチコート、その下にはオフホワイトのタートルネックセーターを着ている。ホワイトパールのペンダントから見える、鈍くて淡い白色の光。
白銀色の長髪は初雪のようにふわふわしていそうで、でも絹糸みたいにさらさら靡いている。どっちつかずというより、どっちでもある。
美しい、可愛い、かっこいい――全ての言葉が、彼女の前ではすっと様になるのだ。
「今日も小倉トーストとカフェモカ?」
「うん。やっぱりそのセットが一番なんだね」
「もう『いつもの』で、分かっちゃうよ」
「そんな常連ぶって気張ってみても、からかうだけでしょ」
「まあね」
「まあ、そうなるよね……美雪さん、本借ります」
私の身長よりも少し大きいくらいの、縦長のブックシェルフ。ピンク色の砂が入った砂時計、赤くペイントされたブリキ缶のアンティーク雑貨などが、僅かにホコリを被っている状態で飾られている。
白菊はその中から、一冊の文庫本を取り出した。
「こうやってコーヒーを片手にゆっくりと本を読むのが、やっぱり一番いいと思うの」
彼女はカフェモカに口をつける。
カップの端にいくにつれて薄茶色に変化している白いふわふわと、刻刻と描かれたチョコレートソースが、シルバースプーンで混じりあっていく。
風貌も、行動も、その全てが。ただの常連客と呼ぶに相応しかった。
「白菊。来てたのか」
「ああ、桜姉さん。ちょっと数学の問題、分からないんですけど、質問いいですか?」
「どこの問題?何ページ?」
「教科書じゃなくて。私大の過去問なんです」
「……まだ二年生でしょ。まだ勉強なんてしなくていいよ」
「今勉強しておかないと、リラと差がついちゃうから」
「っていいながら、前回の期末、六時間かけて対策した私を押さえて満点だったじゃん」
「でもたった二点だよ」
「真面目すぎるんだよ、二人とも。もっとパーッと楽しいことすればいいのに」
ただずっと、会話が流れている。それに合わせて、私も会話に混ざっていく。
だけど、ずっと、エリカが不安そうな顔をしている。
「目前のものの全ては、意味がある」
――そんなことは分かっていても。誰かが納得しなければ、その答えは、意味がないものになってしまう。だから私はその隅っこで、意味を探し続けるのだ。
私の視界に入るもの以外にも、心の奥で想うべきものは、きっとあるから。
❀
「……あの子、誰?」
リラの友達と思わしきその女性は、私の方をチラッと見た。
目線が鋭くて怖い。どうやらファーストコンタクトには失敗したようだ。
「……エリカのこと?この子は……私の妹、かな?」
「嘘」
「本当ではないけど、きっと嘘でもないよ」
「……でも、実の妹ではないんでしょ?馬鹿なこと言わないでよ。……えっと、エリカちゃん、だっけ。
「……はい、姫野さん。こちらこそ」
もうこの町に来てから飽きるほどやってきたたわいない返事を、今日もまた繰り返す。
「先輩呼びの方がいいかな」
「じゃあ、姫野先輩で」
「いや、苗字呼びもちょっと肩苦しいかな」
「……白菊先輩」
この流れに、他人と親しくなる過程が全て詰まっているような気がする。
だから、私は、どうでもよくなった。
「うん、ばっちり。よろしくね、妹さん」
「……それで、何の話だっけ?」
「……ああ、それがね――」
「……わー、すごいね」
ただずっと、会話が続いていた。
ここにいる人たちは頭もいいし、かわいいし、かっこいいし、頼りがいがあるし、明るいし、優しいし。「すごい」以外の言葉で表せないくらい、すごい。
「捕られた」なんて、思わなかった。
ただ、「置いてけぼり」にされた気がした。
頭に入ってこない内容。
私が今考えているものと、その理由。
何も分からなかったから、きっとそれは、私にとっては、意味のないものだった。
ただ、眩しいのだ。
ありふれた光。その全てに嫌気が刺すほど、ただ眩しいのだ。
ありふれた全ての光みたいに――全てが、輪になって、私を置いていく。
どんなに人と接するのを頑張っても。
その場成り行きで、新しい友達を作っても。
どうして私は、こんなにも、「私」なんだろう?
頭の中で、何か細い糸のようなものがプツリと切れたような音がする。それは私以外の誰にも聞こえない、私しか聞こえない、音のない音。
痛みはないのに、それが生んだぼやけた苦しさで思考が鈍る。
そんな脳内によぎるのは、劣等感と無力感と自己嫌悪と馬鹿らしさ、そして孤独。
一人じゃないのに、なんでこんなにも寂しく感じるんだろう。
こんなことを気にせずにいられたら、どれだけ気楽なんだろう。いや、そんな自分は、最早自分ではないのだろう。ありふれた日常に背を向けるように、私は、「私」を嫌う。
何も出来ない。だから、自ら身体を引きちぎってでも逃げたい。逃げたいと思って、ここに逃げてきて。そして今、ここにいる私も、またどこかへ逃げたくなっている。
光のある場所が怖いから。私だけが馴染めずにいるのが不自然で、かといって一人で行動しても余計歪に見えて。
周りに誰もいない時よりも、暗い部屋で一人きりで引きこもるよりも、独りぼっちを感じてしまう。
孤独は綺麗だった。
孤独は優しかった。
孤独は暖かかった。
そしてその孤独は、その生温い温度のまま、私を苛んだ。
❀
月曜日、朝、雨。
わしゃわしゃと外壁に茂った深緑色の蔦は雨に濡れて、ひんやりとした冷気を放っているように見える。
ポツポツとなる灰に似た雨は、全ての風景を暈していく。眺めていくと、心さえも滲んで消えていく、そんな感覚に陥ってしまう。
この日は前期生徒会の選挙が行われる。
体育館の鉄屋根からは、雨粒が落ちている。鳴っているのは、単調で無機質な音。その音を聞く度、何故か心拍が早くなっていく気がした。
「――こほん、えー、第四十二回前期生徒会に立候補した――」
発言が続く。全員の興味をわかせようと、大袈裟なジェスチャーを使ったり、先生のモノマネをしたり。少し緊張して、でも誇らしげに。
馬鹿じゃないの?
何の意味があるっていうんだよ。
何で無意味なことに意味を込めるんだよ。
結局、みんなより偉くなって、ちょっとだけ見栄を張りたいだけなんでしょ?無駄に意識高いの、気持ち悪いんだよ。
そして、生徒の多くがその試行錯誤にクスクスと笑いあったり、隣の友だちと喋ったりしている。
あいつヤバくない?
誰に投票する?
めんどくさー。
そんな声が先々から延々と聞こえてくる。
何の意味があるんだよ。
何で無意味なことだと分かっていながら、偉そうに意味を求めてるんだよ。
結局、自分が集団に馴染んでいたいから、そこからズレてる人間を馬鹿にしたいんでしょ?
声が聞こえる。
それは、心の中で放つ、呂律の回らない言葉たち。
うるさい黙れ口閉じろ気持ち悪い怖い。
根暗人間。弱メンタル。生きてる意味なんてない精神欠陥。
みんなが私を嘲笑っている聞こえる。みんなの言葉が、脳内と耳に入り込んで、いつしか「誰か」の言葉に変換される。
キモイ死ね消えろこっち見んなゴミ。
何で私はこんなに?――緊張、してるの?
何に対して?私はこんなに怯えているの?
心が、震えている。
震えの原因が分からない。分からない私が、怖い。そんな自分が怖いから、何もかもが分からなくなる。
気持ち悪すぎて吐き気がする。息苦しさで、胃とお腹が針を突き刺したみたいに痛い。冷や汗、過剰心拍数、過呼吸。
誰からも嫌われないように、相手の気持ちを壊さないように、ルールを踏み外さないように、正しい行動をしてきたはずなのに。
……なんでみんなは、私を嫌っているの?
幻想なんだ。幻覚なんだ。
だけど、聴こえるのだ。
みんなでもない、ここにいる私でもない、どこにもいない「誰か」というレッテルに当てはめられた、自分自身。
その時、あの日の言葉が、脳に蘇る。
私じゃない私が、今日も私を否定する。
「あなたには、何も無い。何も無いから、何者にもなれない。何者にもなれないから、誰も傍にいてくれない」
――結局、自分が一番愚かで、馬鹿げてて、救いようのない人間なんだ。
ある日の夢の言葉。夢のない、そんな夢の言葉。ただ胸を突き刺すように、鼓動の中で繰り返されていた。
❀
六限目のホームルームの時間は桜先生との面談が行われた。
「……特に、授業態度には問題なし、っと。……何か部活に入る予定は?」
「特にありません。トワイライトの手伝いでもしよっかな、とは思ってます」
「そう、それは良かった」
「……もう、終わりですか?」
「もう終わり、と言いたいとこなんだけど……」
「たまにさ、やるせないときってない?」
「どんな感じのですか?」
「小さいミスをしたとき。部屋の電気つけっぱなしにしたとか、教科書忘れちゃったとか、その他諸々」
「そんなの、割と起こると思いますけど」
「だからだよ。割と初歩的で、ついうっかりやっちゃったって感じなのに、『それすらできないなんて』みたいなこと、よくなくない?」
「……はい、まあ」
「それで、本題なんだけど……嫌なことでもあった?」
「え?」
「……なんか、つまらなさそうだから」
「……そういう風に見えますか?……気をつけます」
「……いや。単なる憶測に過ぎないんだけど。なんか、淋しい目をしてるからさ」
先生は続ける。
「せっかく遥々遠くから北海道に来たんだから、パーッと楽しむのがセオリーじゃない?」
「私、いつもこんな表情しか出せませんから。ごめんなさい。なんだか私、面倒くさい性格ですよね」
「……そう。先生の憶測だったわけね。謝るよ。あと、なんか困ったことがあればいつでも相談に乗るからね」
「はい。あんまり、気にしないでください」
一人だけの帰り道。
バスから見える雨空はどこまでも灰色で。
そんな空を見ると嫌な気持ちにはなるけど、それは何処と無く自分に似てるような気がした。
意味の無いような空に、私は意味を求めている。
東京から逃げてきても、何も変わってなんかいない。むしろ、ずっと弱くなった。
なんで、私だけが、変わらないのだろうか。
いつから私は、素直でいられなくなったのだろう。
そう思うと、今まで積み上げてきたものが崩れていった気がした。
――私は、変化が嫌いだったんじゃない。嫌いだったのは、変わろうと思っても変わらなくて、そんなどうしようもない気持ちを誤魔化すために、変化というものに嫌悪を押し付けた自分自身。
愛だとか、青春だとか、姉妹とか、友だちだとか。そんなもの全てがどうでもよくなる。くだらない、気持ち悪い、うっとおしい、うざったい、死にたくなる。
違ってみえるのは、周りの美しい花たち。繰り返されるのは、色褪せて意味のない日々。
拒絶嫌悪後悔嫉妬罪悪感劣等感絶望孤独無力感焦燥疑念自己嫌悪虚無失望不安不満憤り自己否定虚しさ苛立ちその他諸々。
脳内で組み合わさる、尖っただけの言葉の羅列。もういっそ、その言葉が胸に刺さって、抜けないまま倒れてしまえばいい。そして、そのまま目覚めなければいい。そう願うのは、きっとこの場で倒れる勇気も無ければ、目を閉ざすことしかできないからだ。
そんなくだらないものに囚われている私は、ずっと独りぼっち。どうあがいても、どうもがいても、変わりはしないのだろう。
❀
雨は嫌いだが、雨を題材にした歌は好きだし、詩はその場いるような感じがして、もっと好きだ。
「……HPS。案外、教えがいのある子だなぁ」
桜の花。風と雨に邪魔されて、今年は少し速めに散ってしまいそう。
前に立っている桜並木も今はただ、雨の中に佇む人みたいだ。笠みたいに生えた何百枚もの若葉がそう思わせてくれる。
美しい花を咲かせる。これだけのために、暑い夏、寒い冬、毛虫がつく秋を越す。
彼らは、一体どんな気持ちで日々を生きているんだろう?
そんなことを考えながら、校舎の前、薄汚れた屋根の下で煙草を吹かす。最初は甘くて、後から感じるほんの少しの気だるい苦味が心地よい。気長に待ってようとしたそのとき、彼女が来た。
「気持ち悪い」
「……いきなり悪口」
「だって、煙草吸ってる人の横顔って。何だか自分に酔ってそうだから」
リラは私の実妹であり、エリカの仮の姉だ。
要するに、衣食住を共にする家族ではあるが、戸籍上の家族ではない。あたし達の住む「トワイライト」には、様々な理由から親がいない人間だけが集まって、居場所を作って戯れる。
「ご名答。ひゃくてんまんてん」
「……何、なんか用?わざわざ雨の中、校内放送で呼び出して」
ふてくされた顔で言う。可愛くはないしウザイけど、こういうところを見るとやっぱりコイツは私の妹だなーとは思う。
「……知ってる?エリカのこと。あの子、すごく優しい」
「そんなこと、言わなくても分かってるわよ」
「……でも、優しすぎるんだよ。あたし達が、分からないくらいに」
あたしは続けて言う。
「……心は、すごく脆い。誰かが傍にいてやらないと、それは閉ざされたまま。膨らんだ蕾は開かない。そんな子ほど変わりたいと思っているのに、変わりたくないと言う。エリカだけじゃない。誰だって、みんなそうだ」
人の心は、赤い風船のようなものだと思う。
その歪な球体の中に、空気を出来るだけ多く入れようとする。だけど、入れすぎるとすぐに割れる。もし頑張って空気を入れたとしても、風船は知らんぷりをして、上へ上へと、急いで進む。その姿は、どうしようもなく愛おしい。
だけど、少しの刺激を与えるだけで、すぐにわれる。赤い欠片が、ひらひらと落ちてくる。
繊細で、不安定で、不器用で、それでも優しい。
「『蕾』って言葉、好きだから、あなたには使ってほしくない」
「『あなた』じゃなくて、『先生』ね」
「……先生。具体的には、何をすればいいの?」
「エリカを、慰めてほしい」
「……は?そんなの、先生がやればいいじゃん?」
「あたしによしよしされてほしい人間なんてこの世にいると思う?」
「いや、いな……男子の何人かは」
「ファンクラブでもできて欲しいもんだよ、自分で言うのもなんだけど」
「なんか言葉だけで卑猥で不純だ」
「あーはいはい」
「エリカを慰めるって、どう?」
「抱きしめればいいんだ、単純に。それだけで、きっと全てが変わる」
「なんで私が……私がそんなことしたって、意味ないでしょ?」
「意味なんてなくても、あなたはやるでしょ?」
あなたは、どんなに無意味なことでも、意味を込めてしまうから。
「……何で、そう思うの?」
「心配でしょ、エリカのこと」
「別に、心配でも、そんなことはしない」
「嬉しいでしょ、お姉ちゃんって頼られて」
「別に、嬉しいけど。嬉しい、けど」
「好きでしょ、エリカのこと」
「……な?え?いや、は?」
「いや、見ればわかるよ。今だって、ほら」
私は妹の頬を触る。真っ赤な頬。
触れたその左手が、ペチン、と叩かれる。
「……一回死ねば?」
「ふふっ。顔赤くして、可愛くないなぁ」
「……あーウザ、大っ嫌い」
「あたしもよ。世界一可愛くない妹さん」
すたたた、と小走りで、私の前から立ち去る。
消えてしまった後、苦しさの反動で、ため息混じりの疑問符を翻す。
「こころの――何なんだろうな」
「あんまり、気にしないで」なんて言われたら、もっと気にしてしまう。
そんなあたしは――たった一つしかない彼女のこころの――何になれるだろうか?
きっと彼女も私も、無責任という名の責任を、お互い擦り付けている。醜いなぁ。きっとエリカは、こんなところ見たら、泣いちゃうだろうな。
そのエリカの必死な泣き顔を想像すると、可愛いすぎて泣きながら笑っちゃいそうになる。
でもきっと、大丈夫。
お姉ちゃん――あたしにとっては世界一可愛くない可愛い妹は、あたしよりも何倍も可愛くて、優しくて、いい子だから。
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