2. ブラックコーヒーと、蕾
メニュー表に真新しいものは書かれていない。むしろ、東京に住んでいた私にとって、レトロな雰囲気を醸し出しているメニューの数々は、かえって珍しく感じてしまう。
「ホットケーキをお願いします」
たまごサンドという選択肢もあった。けれども、強いて言うなら、体は甘いものを欲していた。
「お飲みものは?」
「コーヒーで」
「はい。しばらくお待ちを」
しばらくの間、店内には調理音が響いた。卵と牛乳、ホットケーキミックスを泡立て器で混ぜている音、キャノーラ油の入ったプラスチック製の容器のキャップを開ける音――三月の下旬といえどもまだ外には冷たい風が吹いている。
三十年選手とおぼしき見た目のルームエアコン。
野暮ったいけれど、長い年月が刻まれたような、老木みたいな木目調。それがどこか人の目みたいに見える。温風は息を切らさず、ただ見守っているようで、私はその暖かさに優しく包まれていた。
シルバーのエスプレッソマシンからは、若干の騒々しい音とともに、黒褐色の液体が抽出される。それと共に店内に芳ばしい香りが広がり始めた。
リラが運んできた。
「先にコーヒーね。うちはエスプレッソをお湯で割ったウィーク――まあ、めんどくさいから簡単に言うと、アメリカーノを出してるよ。だから、苦味がなくて、スッキリしてる。そう美雪さんは言ってた」
私は白いカップを手に取り、まだ湯気の出ているコーヒーにちびちびと口を付け始めた。
「エリカ、コーヒーにミルク入れないの?」
「うん」
「すごいね。私、ブラックを飲むとなんだか酔っちゃうの……分かる?」
コーヒーで酔う、というのは不思議なことだ。快楽的な意味で発しているならまだしも、バス酔いや船酔いと同じような意味合いで、コーヒー酔いという言葉があるのだろうか。
私はブラックコーヒーの色が好きだ。
それは一見すると濃い泥水のようだけど、本当はそのような汚れた濁りはない。ゆらゆらと揺れる水面のように、私の顔を映していく。でも、その中に少量のミルクを入れただけでも色味が変わる。本来の色はもう取り戻せなくなってしまう。
だからこそ、何も入れたくなかったのだ。
純粋で美しいものはそのままの姿にしておきたい――要するに、私は変化というものが嫌いだった。
「はーい、おまたせ。ホットケーキ」
そこから数分待って薄手の二枚重ねで提供されたそれは、均一な薄茶色の焼き目が全体に付いている。中心に添えられたホイップバターは、食べてもいないのにもう少しづつ溶け始めていた。
付属のメープルシロップをかける。溶けたバターと混ざり合い、生地の側面をつたって皿に垂れていく。私はそれをナイフで切った面にたっぷりと絡ませて、口の中へいれる。素朴な甘さは、刺激も麻痺もさせず、味蕾にすっと染み渡っていっては溶けていった。
「美味しい?」
「はい。とても」
「そう、よかった」
「ここ、何でも美味しいから。オススメはシフォンケーキかな。上に生クリームがたくさんのっててすっごいフワフワなの」
リラがわたしたちの会話を割って入る。
「いや、一番美味しいのはナポリタン。これさえ頼んどけば間違いないよ」
すぐさま深川さんが異論を唱える。
東京、私と芒さんの会話みたい。
あのときの、何も始まらない会話。
「――食べてる顔、かわいい」
深川さんが顎に両手を添え、私を見ながら、そう告げる。やっぱりそう言われると、何だか恥ずかしい。
「エリカの食べてるところ見てると、わたしもお腹すいちゃった。美雪さん、なんか作って」
「あなたに作る暇なんてあったら、もうとっくに私が食べてる」
「美雪さん、相変わらずそういうところあるよね」
「……リッ……お姉ちゃん、ちょっと食べる?」
「えー、そんないいよー、別に」
そう言いながらも口を大きく開けている。
「じゃあ、えっと……はい、あーん」
リラはもぐもぐと口を動かす。その行動は、清楚な見た目とは対照的な、あどけない子どものよう。
愛おしいけど、時には憎たらしい。芒さんが幾何学模様の時計を好きになるのがなんとなくわかる。
「……お姉ちゃん、意外とお茶目なんだね」
「……そう?これが平常運転だけど、家では」
すると深川さんがニヤニヤしながらこちらを見てきた。
「あなたたち、お似合いなんじゃないの?」
ふと我に返る。どうしよう、フォーク。 ――間接キス、しちゃった。紙ナプキンで拭き取ろうか?でも、気にし過ぎちゃってるのかな?どうしよう……
「なんでフォークじーっと見てるの?……もしかして、そういうの、気にしてる?……フフッ」
――ヤバい、バレてた。リラもニヤニヤと笑みを浮かべ、こちらを見ている。思わずドキドキしてしまう。
「べっ、別にそんなこと……気にしてなんか……」
私は強引にホットケーキの最後の一切れを口の中に入れる。
「でもほっぺた、すっごい赤くなってるよ。……かわいいね」
そう言って私の口が動かすのを止めた後、リラは両手で頬を挟む。
私の薄汚れたスニーカーのつま先の上に乗っかっていたのは、彼女のローファーの底。とりあえず、私は弄られているのが分かった。それら諸々を誤魔化すように、何とか見せかけの苦笑いを作った。
❀
「お姉ちゃん、お姉ちゃん?お姉ちゃん……」
自分の部屋、ドアの前。異なる声のトーンで三回繰り返す。
世間一般で根暗と評される私には、なんともハードルが高い。
「ん?どうしたの?エリカ?」
「わっ!はいすいませんゆるしてください」
後ろからいきなり声を掛けられる。恥ずかしいところを見られてしまった。あんまり驚かさないでほしいけど、驚かれることを驚かずにしていた私も大概なのかもしれない。正直、今日初めて来た他人の家の廊下で「お姉ちゃん」を連呼しているなんて、我ながら血の気が引く行為だ。
「……まだ慣れない?よし、私の目を見て。「お姉ちゃん」って言って?」
「……私、あんまり人の目を見れなくて」
「……じゃあ、三秒だけ。それだけでいいから」
はあ、何やってるんだろ、私。
彼女は私の両肩に手をやる。緊張が解れたのか、それとも高まったのかは、自分でも分からない。だけど、私自身に対する呆れは降り積もる。
一度深呼吸をする。知らない土地の空気は冷たくて。冷たいのに、お姉ちゃんを見てしまうと、身体は熱くなっていく。
「お姉ちゃん」
視線が合うと、やっぱり恥ずかしくなる。
「よし。よく出来ました」
見つめられながら、リラに頭を撫でられる。何故か悔しい。
私は今日、頬を赤くすること以外、何もしていない気がする――脳内を辿っても、それ以外の記憶は見つからなかった。
❀
翌朝、いつもより早く目が覚めた。昨日の夜、すぐに寝てしまったからだろう。美雪さんの作ったシチューの味や、初めて入るお風呂の匂い――それすらもあまり記憶にない。
勿体ないことをしたという後悔が、今になって私の胸を焦がしている。
外に出てみて、その第一声。
やはり「寒い」だった。道の両隅にある雪、遠くから響いている鳥の鳴き声とさざ波の音。平然とただそこにあるその全てが、今まで生きてきた中で見たことのないものだ。
地平線の彼方にはビーナスベルトが広がっている。二色のグラデーション――薄ピンクに染まった雲と淡く青みがかった空。昨日残ったままの記憶を浄化するみたいに、私の心をほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
この時間帯の東京は、どうなっているだろうか。
午前5時50分。高くそびえ立つガラス窓に朝もやがかかっていた、あの朝。それに連れられるかのように、多くの人が鬱々とした顔で今日を過ごしていく、そんな風景。今日も、ただ繰り返されているのだろうか。
今。逃げてきたこの場所。見ることのできる景色。私は、その「今」だけ。それだけ、考えられればいい。
だけど、心はすぐに曲がってしまうから、明日と昨日に惑わされていく。
冷たい空気が、ふわりと残っていた眠気を覚ましてくれた途端、私はそんなことを考えていた。
「エリカ、早起きなのね」
外には私より先にリラが立っていた。
「お姉ちゃん、何してるの?」
彼女は早朝というのにも関わらず、眠気を感じさせない、はっきりといた口調でこう言った。
「リラを見ているの」
言っていることの意味がわからない。
「……寝ぼけてる?」
「……エリカ、この木の名前、知らないの?」
「私、植物には詳しくなくて……」
「ライラック。フランス語ではリラって呼ぶの」
「ライラックって言ったほうが伝わるでしょ、それ」
「リラの花。それが私の名前の由来なの」
「へぇ、なんで花の名前にしたんだろうね。」
「……さあ、お母さんは遠い世界にいるから、分からない」
「……お父さんは?」
「産まれる前にどこかへ消えていってしまった」
私は両親を知らない。父親の方は名前さえ分からないし、戸籍上にも記載されていない。
母は、おそらく亡くなっている。とはいえ誰の口からも真実は告げられていないままだから、もしかしたら私を置き去りにして惨めな生活を送っているのかもしれないし、それとも遠い異国の離れた地で働き続けているのかもしれない。
何かしらの思い出が一つくらいあればよかったのに、どれほど考えても何一つ浮かんでこない。母の写真を見ると、妙に懐かしい感じと、生きづらい私と似たような惨めな想像が込み上げてくる。
「あっ、ごめんなさい。私のせいで……なんか空気、重くなっちゃった」
「うんん……こんな話、聞きたくなかったよね……」
「……でも、私だって。家族、いないから」
「えっ?」
「3才とか4才――覚えているころから、もう父も母も、親族も分からなくて。みんな失踪したのか、私だけが捨てられたのか、今でも分かんないまま」
「ああ、それって……私と」
「でもね、二人いるってことは、必然的に一人じゃないってことになる。だからそれが、二人の中の普通になる」
「そうか。そうだよね。一人じゃない。だって、あなたも同じだから」
「……うん。私たちは一人じゃない。じゃあこれから、二人だけのルールを決めていこうよ。一つ目、『家族がいない』。そのことは、あんまり会話に持ち出さない。これを、私たちだけの普通にしていかない?」
一人じゃないから、頑張ろう。頑張るから、お互いに寄り添っていよう。
なんて言うのも、できないわけじゃない。
だけど、言いたくない。
言葉に頼ると、その思いに縛られる気がして、言えないのだ。
私はただ普通に、普通の生活がしたい――水になりたいだけ。
「そうだね。普通が一番だ。それに、家族なんていなくたって、また探す必要もない。だって、ここに似たようなのがいるから」
「そうかもね。美雪さんは、見た感じお母さんみたいだもんね。じゃあ、そんなことを考えてしまうあなたは、やっぱりお姉ちゃんだ」
「なら、『お姉ちゃん』って言うエリカは、絶対に妹だ」
「そう言うお姉ちゃんは、すごく優しい」
すると、リラは顔を赤らめて、そのまま、笑い続ける。
それが可愛くて。その笑顔を、信じてしまいたくなりそうで。
私を、苦しくさせる。
逃げてきた私が、家族なんて。
家族が分からない私が、その一員なんて。
優しい。言葉に頼ると、その思いに縛られる。
その一言が怖さに変わる。
言ってしまえば、変わってしまうことに気付く。
私は、優しさが、どうしようもなく、怖いのだ。
だから、変化が――純粋な何かが、ただ変わってしまうのが、嫌いなのだ。
「お姉ちゃん、忘れて。ただの冗談だよ。ごめんね」
❀
しばらく、沈黙が続く。
冷たい空気。冷たさが肌を刺激する、ただそれだけの空気。
何を考えていいか分からない。焦りと、不安と、焦燥感。私の心は、いつものように緊張していた。
「――ねえ。私、蕾が好きなの」
暫くの沈黙を破ったのは、彼女からだった。
「……蕾?なんで?」
「蕾ってね、なんだかすごく悲しんでいるように見えるの。まだ花を咲かせることができないって。でもそれを開かせようと、自分を変えようと、今を必死に生きている。そんな姿が弱々しくて、すっごく美しくて」
リラはそう言って一つの蕾に触れる。
その蕾は、リラの瞳だけをじっと見つめている。
その蕾は、私の視線をずっと避け続けている。
「……私には、分からない、かな」
ただ、彼女が綺麗なのだ。
綺麗だから、私には理解できないのだ。
彼女の触れるその蕾が愛おしくて、私は傍で触れてみたい。だけど、それが綺麗すぎるから、嫉妬心でただ憎まなければいけない存在のようにも見える。
どっちつかずの私は、そんな好き嫌いの狭間で、いつも迷子になる。
理解力も思考力も判断力もない私。
だから、私は私が嫌いだ。
二人きり。家族であり、姉妹でもある。
そんな私たちの関係性。或いは、その境界線。
彼女との距離はすごく近い。でも、私は触れることが出来ない。それは距離を示す単位が意味を持たないくらい、遠く離れているように見えた。
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