想うということ

1. 「お姉ちゃん」、って呼んでもいいですか?

 離れた土地に着くと真っ先に驚いたのは、東京とはかけ離れた空気だった。

 今まで感じたことのない空気。言葉が出てこなくなる空気。何もかもを冷たくするようが身体さえも包み込む、そんな空気。

 ケーブル編みのミトン手袋を擦り合わせてみたものの、効果は今一つ。

 けれど、今はそれが、私にとっての数少ない頼み綱。

 不安だらけだけど、どこかに例えようのない期待が隠れている、そんな心の中。


 北海道 咲友さゆ町。北海道北西部、海と山の丘陵に囲まれた小さな港町。

 赤屋根の観光案内所、廃校となった小学校の木造校舎、ひどく錆ついた廃線跡――いつかの時代にタイムスリップしたかのような、懐旧的な街並みが広がっている。


 曇り空で覆われた海岸線からは潮風の香り。四月からこの町の高校に進学することとなった私は、大きめのリュックサックを背負う。

 小石だらけの粗いアスファルトの道の上でキャリーバッグを転がしながら、芒さんの知り合いの家―― トワイライトという喫茶店に向かっていた。

 

「ここで、合ってる……?」


 行き着いた目的地。そこには掲げられた古びた木造の建物がポツンと佇んでいた。色褪せた赤レンガ調の外壁には蔦蔓が建物全体を覆うように這っている。

 そんな光景は良く言うとレトロとも表現できるものの、悪くいってしまえば廃墟そのものだった。


 そんな「廃墟喫茶」の前の花壇には、同じ種類であろう草木が今にも花を咲かせたいと言わんばかりに、たくさんの蕾を膨らませている。

 植物に詳しくない私は、その木がどんな名前なのか分からなかった。それでもそれが丁寧に手入れされていることから、中に人がいるということを悟った。


 一度は入るのに戸惑ったものの、なけなしの勇気を出して店の中へ入ることを決めた。

 緊張した面持ちでドアを開ける。真鍮製のドアチャイムがカランコロンと愛らしい音を鳴らした。

 店内は思いのほか綺麗で、ガラスカバーを付けたペンダントライトが琥珀色の優しい光を放っている。ただ、客は誰一人としていない。

 がらんとした雰囲気の店内には一人の若い見た目の女性が、悪気のない笑みを浮かべてカウンターに佇んでいた。その女性は、若干脱色した金茶色のショートボブが印象的で、顔にかかった前髪を右手でかきあげ、あくびをする。その後、少し低めの大人びた声で口を開いた。


「いらっしゃーい。待ってたよ、エリカちゃん。話は聞いてる。私は深川美雪ふかがわみゆき。ここで店長やってる。まぁ店員なんて二人しかいないんだけど……んなわけで、これからよろしく」


 自己紹介、したことない。

 どうやってすればいいのか分からない。


「こちらこそ初めまして。今日からお世話になる小牧こまきエリカと申します。ふつつかものですがよろしくお願いします」


「そんなかしこまった挨拶なんてせずに、気軽に話してくれればいいよ。あはは」

 

 いつも、初対面の人に「気軽に話して」といわれると、かえって話しづらくなる。

 これから住まわしてくれる部屋の説明をすると言われ、二階に上がる。階段は急で、心が落ち着かず、すぐに上り終えたい気分になった。

 一段一段心の中で数えながら進んでいくと、美雪さんは204と番号が振られているドアの前で立ち止まった。


「この204号室がエリカちゃんの部屋ね。それで隣の203が私の部屋。ちなみに201、202号室にも一応住居人はいるから。でもみんな悪いではない人じゃないから。馴染めないことはないよ」


 「今日はサービス。好きなもの食べさせてあげる」


 部屋に関する一連の説明が終わったあと、そう言われたので、その言葉に甘えることにした。


 階段を降り、一階の店舗部分へと戻る。ダークブラウンを基調としたアンティーク調の内装。正面の窓はステンドグラスが張られ、赤・青・黄・緑の色彩をもたらしている。

 その四色の光の前方には、一人の少女がいた。

 その少女は私の前に立ち、物珍しそうな目でじっと見ながら、頬をゆっくりと撫でる。その手は少し冷たかった。

 

「――すっごくかわいい」 


 唐突に口元で囁かれる。


「えっと……あの……その……」


 そんな言葉を言われ慣れてないので、思わず困惑してしまう。顔に少し熱を帯びているのが自分でも分かった。


「この子がエリカちゃん?」


 彼女は深川さんに視線を移す。


「そうだけど……リラ。あなた、初対面の女の子に挨拶もせずに『かわいい』だなんて……しかも店員が客席に座らない、まぁ誰も来ないけど……」 


「あっ、そういえば自己紹介がまだだったね」


 リラという名の少女は再び私に視線を戻した。ブレザーの胸元あたりまで伸ばされてある黒髪は、窓から漏れた西日の光を織り込んで、深く艶めいている。それは何度見ても、美しいという三文字以外では言い表せなかった。


「私、汐見莉羅しおみりら。四月から高校二年生になる十六歳。この店で家族兼店員として住んでるの。リラって呼んで」


「はい、分かりました。リラさん」


「アハハ、年上だからって別に呼び捨てでいいから」


「わっ、分かった。りっ……リラッ……?」


「フフッ、呼び捨ては気まずい?じゃあ慣れるまでは好きなふうに呼んでてくれても構わないよ」


「――じゃあ、『お姉ちゃん』って呼んでもいいですか?」


 10秒間ほど、店内に沈黙が流れた。


「お姉ちゃん」――なぜそう呼ぼうとしたのかは自分でも分からない、そんな突然出てきた言葉。口に出した瞬間、今までなかったほどの羞恥心と後悔の念が込み上げてきた。

 何言ってんだ、私。今日初めて会った人に「お姉ちゃん」だなんて……家族でもないのに、言えるわけない。絶対引かれてる。重度のシスコンだって思われてる。恥ずかしい。もう死にたい。


「い、今のは聞かなかったことにしてくださ――」


「お姉ちゃん。分かったよ、エリカ」


 それは一語一語言葉の持つ意味を確かめるように。或いは、私を優しく包み込むように――彼女は微笑みの眼差しをこちらに向ける。そんな表情を見せられたら、今更呼び方をどうこうする気にはなれなかった。


「あっ、そうだ。いつもはこれ、電気代高くて付けないんだけどさ……」


 そう言って深川さんは立ち上がり電気のスイッチを入れ直す。すると、天井の中心に吊り下げられたシャンデリアが光を放ち始めた。


「お祝い。入居記念として」


 照明から垂れ下げられたクリスタルガラスの数々は、まるで本物よりもそれらしく、キラキラと輝きを放っている。


 ――私とは真逆だ。そう思ってしまう。

 それに今どきシャンデリアって、なんか趣味悪い。


「見えてるよ、エリカちゃん」


「どういうこと、でしょうか?ふか……がわさん?」


「今どきシャンデリアなんて、趣味悪い、なんて思ってたでしょ?」


「……いや、そんなことは思ってもございませんっ」


「本気じゃないよ、じょーだん。さてとぉ、エリカちゃん、何食べよっか?」


 カウンター席のアンティーク調の木製の椅子に腰掛けたと同時に、深川さんから年期の入ったメニュー表を手渡される。


「お姉ちゃん」

 リラが姉なら――私はこれからは妹だ。

 つまり、姉妹関係ということになる。今日から当たり前のように、姉がいることになる。

 それは、家族なのだろうか。

 それとも――


 駄目だ。これ以上考えても仕方がない。

 一度考えてしまうと、止まらなくなってしまう。止まらなくなるから、疲れてしまう。

 食べ物のことだけ、見ていよう。思っていよう。


 そうやって、私は繰り返していくのだ。


 時刻は午後の四時三十分になろうとしている。間食にはやや遅めの時間。メニュー表を手に取った。



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