リラの蕾を芽吹かせて

見春

0. 籠の中に雫

 

「なんでこの問題も分からないの?」


「……えっと、ごめんなさい」


「なんでそんなに不器用なの?」


「……はい、すいません」


「なんでそんなこともできないの?」


「それは――」


「なんであなたって、いつもそんなんなの?」


「――私。こんな私で、ごめんなさい」


 ――夢の中、私は水になりたいと願った。


 静かに波紋を作り、静かで心地の良い音を鳴らす、そんな水の雫のように。

 誰からも求められず、気に掛けられない。だから、大きな苦しみに縛られることがない。

 馬鹿だと言われても、意味不明だと言われても構わない。私はその通りの馬鹿で、意味不明だから。そしてこれが、私の目指す理想の「私」だから。


 何にも縛られず、どこへだって逃げることの出来る。すっと気楽に深呼吸することが出来る、透き通った場所。

 これが、理想の「居場所」なんだ。


 ――遠く離れたところに行きたい。


 実際、場所なんてどこでも良かった。そこでの目的なんてものも何一つなかった。要するに、「逃げ」みたいなもの。

 進路とか勉強とか人間関係とか、そんなうまく形状化できないものがどんどん積み重なって、もう何も考えたくないし、耳にしたくもない。そんな悩みを誰かに相談してもらうほど正直ではないし、したところで解決するとは到底思えなかった。


 学業、身体能力、ルックス。大体全部中の中の下あたり。要するに、平均的。何をどれくらいやっても中途半端で終わりなのが私のスペック。

 なんてことない風景をぼんやりと眺めていたのを思い出す。風は冬の匂いがするものの、日差しは早くも春のようで、街中には、大勢の人で溢れかえっていた。駆け足な人の移動と季節の変化に、なんだか私も一緒になって急かされているみたい。

 その人達一人一人が、どこで、どんな風に日々を過ごしているのか、何を見て何を感じ、どんな風に生きているのか。みんなが私のように、妬みや後悔を隠して、この場所に立っているのか。私のように、こんなちっぽけなことを考えている人はいるのだろうか。


 他人から見ると「人並み」なんだろうけど。私には何かが欠けているんだろう、自分自身そう思うことがあった。例えば、私が授業で当てられ起立させられたら、クスクスと笑い声が聞こえるとき。決してイジメではない。本当はクラスのみんな、誰も言ってないのかもしれない。だけど笑われてる気がして、すごく怖い。私が悪いわけじゃないのに、先生が怒鳴っているとき。


 私が下校の準備をするのと同時に、楽しそうに談笑しながら部活の準備をしている子たちを見るとき。


 私にだけ、分かるもの。


 そういうものを考え初めると、朝起床した瞬間、お腹が痛くなった。

 そして思い続ける度、苦しさは増していった。

 

「――なんで私って、いつもこんなんなんだ」


  理由なんて分からないのに、自分で自分自身を責めてしまう。

 そんな時に、勉強机の下でうずくまり、目を瞑って、耳を塞ぐという癖がある。暗くて音の無い所は、無心でいられて、行き場のない気持ち達を何とか鎮めさせてくれるから。根暗とか情弱とか、そんなありふれた単語で表せることが出来る私。だけどそんな簡単な言葉で自分を表してしまう、私自身に悩まされているんだろう。

 そのとき、いつも思う。

 私は、きっとみんなとは根本的に違うんだなって。

 みんなが正解だとしたら、私は不正解なんだ。身体も心も知能も、普通に見えて異常なんだろうって。

 そう思い始めたときから、私は学校を休みがちになった。


 ❀


『小牧エリカ(15才)の一週間ごとの脳内予報』


 月曜日…何もかも憂鬱。死にたい

 火曜日…頑張って外に出て、ほっとする

 水曜日…やっぱり辛くて部屋に引きこもる

 木曜日…昼頃に起床して気持ち悪くなる

 金曜日…躊躇って登校したけど散々になる

 土曜日…小説を読んで救われた気になる

 日曜日…夕日を見て自己嫌悪をしてしまう


 私の日常は平坦で、だからこそ苦しい。

 悲しいとか辛い以上に、「私しか世界にいない」気がして、何を考えても諦めが来る。

 そんなとてつもなく軽い絶望を、心の中で繰り返している。

 そう。この場所では。


 「すすきさん。おはよう」


 二十数個の古時計が吊るされた、不思議な喫茶店、「オールドクロック」。このあまりにも捻りのない店に、私は住まわしてもらっている。

 時計を見ているときは、心が落ち着く。

 カチカチと鳴る秒針は、絶え間なく。所々鳴る鐘は、うるさ過ぎず。全てが調和しているみたいに。だけど、いつか止まると考えると、少し寂しい。

 産まれて、自我を持って、気付いた時にはここにいた。両親なんて、生まれたときからいなかった。

 言い換えると、家族なんてものが、分からないのだ。


「おはよう、エリカ」


 紺野芒こんの すすき。店のオーナー、兼、私の家族第一人者(仮)。

 彼女の表情はいつもぼんやりとしている。退屈、不満、空虚。あるいは、そのどれでもない、似て非なる虚無。そんな言葉を連想させる。


 怒ることもなく、褒めることもなく、泣くこともなく。料理は美味しいけど、美味しいと私が言っても顔色すら変えない。それでいて、時折見せる笑みは、例えようもなく綺麗。


 お客さんも、一日数人しか来ないから、キャパなんて二人で事足りる。

 だからいつも、話している。ただ話している。何も生まれず、何も失わず、盛大に何も始まらない、そんな話。


 止まってしまったもの、動き続けているもの、一定の時間毎に鐘を鳴らすもの、それに共鳴するもの。ただ静かに、動き続けていくもの。


「芒さん。変なこと、言っていい?」


「どうぞ」


「……私には、ここにある時計たちが、優しい人に見える。その優しさっていうのが、それぞれ違って見えてしまうから、その全てを否定したくないんだよ」


「面白いこと言うねぇ、中学生らしからぬ」

 芒さんはそう呟いた。そして続けて言った。


「ここには私の好きなものしか置いてないから、嫌いなものはないよ。ここにある動かなくなったヴェデットの時計は一番好きだな。一番好きだけど、すごく憎たらしくもある」


「なんで好きなのに嫌いなの?」


「歪な形をしてるから。ただ、それだけ」


 放射線状に広がった幾何学模様。たまには綺麗だと思い、時々どうしようもないほど複雑で、自分には理解できないものだと感じる。芒さんにとって「好き嫌い」の判断材料は、その日の気まぐれみたいなもの。


「なんだろう? 今思ったけど、芒さんって、怒ったりしないよね? 変な形の時計で、もしそれが動いてなくても、捨てたりせずに飾ってるから」


 言ってから気づく。

 物を大事にすることと、人に怒らないこと。

 この二つは果たしてリンクしているだろうか。


「私は人に怒れないんだ。というより、人に怒っていいような人じゃないんだ」


「じゃあ、ワガママ言っても怒らない?」


「うん。努力はするよ。舌打ちしない程度には」


 笑みこそなかったが、口は綻んだように見えた。


 「私、この街から離れたい」


 それでも芒さんは顔色を変えない。


「どうして、そう思ったの?」


「大した理由なんてないよ。私は、逃げたいの。どこか遠くへ。なんか、疲れちゃった」


 芒さんは、ある質問を投げかけてきた。前触れなく、唐突に。鋭く、それでいて包み込むような声で。


「あなたは、どこへ行きたいの?」


「……なるべく遠く。場所とかは、まだ」


「それは、すごく漠然としているね」


「……より細かに言ったら、人目を気にしなくていい、未来と過去に対する思考を最小限で抑えることのできる場所」


 私は逃げ場所を探していた。目前或いは、目後ろに存在しているものから、逃げるための場所。


「あなたは――と似ているね」


 上手く聞き取れなかった。


「もしあなたが望むなら、ここへ行きなよ」


 北海道 咲友町 花結衣町八丁目一番 

 店名 喫茶トワイライト

 渡された一枚の方眼紙には、ずっしりと重たい、無機質な黒インクでそう書かれていた。


「これ、どこ?」


「喫茶店。私の友達がやってるんだ」


「……芒さんは、ここに行ったことがあるの?」


「うん。まあね。私も行ってたから。そこは束縛がないんだ。まるで一種の『スクール』みたいなもの」


「『スクール』って、何? 」


「その名の通り。『スクール』。束縛も悪口もない、理想的な場所。エリカちゃん。今から話をしよう。きっとこれはあなたにとって重要なお話だから」


 秒針を鳴らす時計の音は、私たちの退屈な会話みたいだ。

 盛大に何も始まらない会話。ただ繰り返して、いつか途絶えて、そしてまた静かに繰り返していくだけの、単調な音。

 そんな音も、今日で変わる予感がした。


 籠の中に落ちた一滴の水粒が、そっと転がり落ちていくみたいに。

 少しずつではあるけれど、何かが、始まっていく。それは、何かの終わりを意味しているみたいだった。

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