3. ハイリー・センシティブ・パーソン
「ここは基本自由だから。ご飯も、食べたい人が食べてる」
「じゃあ、ちょっとだけ食べる」
朝食を準備するために、店内の調理場へ移動した。私たちだけが突っ立っている、ただ静かな室内。まだ誰も降りてきておらず、二人の足音だけが、ただ静かに響いた。
「よしっ、始めよう」
赤色のポップアップトースター。その中に、私は二枚の食パンを入れていく。リラはポットの並々まで入れた水を沸かすと同時に、それらが丁度いい頃合いになるまで、おかずのベーコンエッグを作り終えようとしている。
会話のない作業。二人だけで黙々とするのも何だか気まずい。
どちらが早く終わるだろう、早く終わったら何をしよう。
――私には、何ができるだろう。
何も手伝わないのは申し訳ないと思い、みんなでつつきあう副菜のサラダを作ることにした。
「飲み物何にする?」
「今手元にあるやつでいいよ」
「じゃあ、これかな」
そんな意味のない会話。だけど、静寂のもどかしさを途切らせてくれるから、足元を掬われるみたいに、いつも安心感を覚える。黙々と目前の作業に取り組んでいるうちに、朝食はあっという間に完成した。
心配なんて、元からいらなかった。
理想と現実がかけ離れてるみたいに、不安と現実も、ちょうどよく離れる。良くも悪くもがこの世界。そうやって誤魔化して、私はいつもの朝を過ごす。
「はい、完成。バターはもう塗ってあるよ。付け合わせは冷蔵庫に色々入ってるから、好きなの選んでって」
そう言って彼女はストロベリージャムのビンを取り出す。
――何にしようか? とりあえず冷蔵庫を開けてみる。ブルーベリージャム、マーマレード、蜂蜜、メープルシロップ、小倉――さすが喫茶店、種類はたくさんある。口に合わなさそうなものはなかったので、とりあえずいつも付けているブルーベリージャムをパンに塗ることにする。
こだわりがないわけじゃない。
むしろこだわっていたい。
だけど迷いすぎて疲れて、結局どうでもよくなる。だからいつも変わらない。
変わらないから、いつもつまらないのだ。
半分崩れた果肉のかたまりを潰すと、全体には濃く鮮やかな紫が広がり、トーストの焼き目を隠した。
それをかじってみると、やっぱりいつもの、ただ甘ったるい味が口の中に広がっていた。
「これ、何?」
「ほうれん草のポタージュ、粉末の。手元にあったから」
薄緑でドロっとした見た目。最初は若干飲むのに抵抗があったが、いざ飲んでみるなると体がポカポカ温まる感じがしてきて、割と美味しかった。丁度半分ほど食べ終えてきたそのとき、見たことのない顔の女性がドアを開けてきた。
「ふぁーあ」
大きなアクビをしている。誰だろう、この人。
「それ、私の姉よ」
「『それ』とはなんだ、それとは」
お姉ちゃんのお姉ちゃん、って感じ。似ているようで、似てないような。いや、似てないように見えて、細かい所は似てる。例えば、瞼が二重なところとか、肌が色白なところとか。あと、身長が高いところも似ている。
違うところは、右頬のほくろと、胸の大きさと――色々あるけど、一番違ったのは、隣にいると感じる、煙草とアルコールの匂いだった。
「……わぁー、ポカン、とした顔見てるぅ……まぁ、初対面なんだし、そりゃそうか……。『はじめまして』って言った方がいい?」
その人は、トースターに、食パンの端切れを入れた。
「あっ、はい」
「改めまして、あたしの名前は
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
しかし、髪のボサボサ具合や、いかにも寝起きという感じの顔、ズレたパジャマとすらも、それは色気と呼ばれるものに相応しい。それが、リラとの明確な違いだった。
だけど、それ以上に不自然なところは、二人が顔を一秒すら合わせないことだった。
「いやー、昨日はさ。夜中の十一時まで学校で残業しててー。エリカの顔、見れなかったのよねー」
「嘘。仕事終わったら、ストゼロでも飲んでたんでしょ。部屋の前、お酒臭かったし」
「うわー、勘が鋭いなー、リラは。でも、スト缶は薬品の味がするからあんま飲まんよ。もし飲むなら、七パーくらいの缶酎ハイかなー」
桜さんは、トーストを、指の先で摘んで、皿に移す。
「どっちにしろお酒だよ。お酒の時点で論外だよ」
そして、トーストの上にベーコンエッグを手で載っけて、つまんだ指をペロッと舐めた後、黒胡椒をふりかける。それを横目に、リラが溜め息を吐きながら、私にこう言った。
「これ、こんなので大学出て高校の教師やってるの。信じられないでしょ」
「おーーい。こんなのとはなんだ、こんなのとは。一応これでも一家の大黒柱なんだぞ」
「支えるならそれらしくタバコとお酒くらい、やめてから言ってよね」
「あたしの血は酒とタバコ出できてるんだ。だから、その二つがないと生きていけない」
「あなた、ほんとに二十代の女性だよね?今の、アル中でヤニカスでニートの中年が言う台詞だよ」
「かわいいJKがアル中とかヤニカスとか中年とか、そんな物騒な言葉使うんじゃない」
「……じゃあ言い換えてあげる。将来お先真っ暗な、スタイルだけ良い反面教師」
「あっそ。ご忠告どうも、容姿だけは淡麗な毒舌JKさん」
「……あの、その。二人とも、料理、冷めるよ……」
「……あっ、ごめん」
本当の姉妹は、本当に仲良くなくて。だけど、そのギスギスした心の溝が、逆に二人を繋いでいるみたいだった。
❀
「バスに乗り遅れちゃう。急がないと」
そう言いながら、リラはブラウスのボタンを下から順に止めている。
「ねえ、深川さん、起こさなくていいの?」
「……あぁ、美雪さん?大丈夫。喫茶店は大体十時くらいに開店だから。九時くらいに起きてると思うよ」
「店のこと、しなくていいの?ほら、料理の仕込みとか……」
「ああ、ほら、うちってさ、簡単に作れる軽食しか提供してないじゃん。昔はさ、カツサンドとか、コロッケサンドとか、その他にも色々あったんだけど。わざわざ衣揚げるのが面倒だから、やめちゃったって」
端的に言うなら、この店は自分勝手ということだ。
「お姉ちゃん、リボンちょっとズレてるよ。直してあげる」
青色の生地に、水色の双柱線と白の三本線。それらが混じったストライプ柄のリボン。紺色のブレザーと、同色のスカート。シンプル、だけどかわいい。おしゃれ、と言うよりも田舎の港町らしい、その素朴な感じが好きだ。
来週から、私もこれを着るんだと思うとちょっぴりワクワクする。でも、それとは裏腹に、似合うんだろうかという不安が入り交じっている。
「私にこの制服、似合うかな?」
「エリカなら似合うよ。絶対」
「私が着ると地味な感じになると思うんだけど……」
「確かにこの制服は地味だよ。だけど、その派手さのない普通な見た目が、誰にでも似合う感じがするの」
「まあ、そう言われればそうかも」
「それに、そんなに億劫になる必要なんてないよ。だって、エリカはとってもかわいいから、何着ても似合うよ。だから、もっと自信持っていようよ」
「でも、お姉ちゃんみたいに、スタイルよくないし」
「そう言うのじゃなくて。おしゃれとか地味とか、そういうことでもないの。制服でも私服でも、エリカが着ているだけで、それだけで愛おしくて、お姉ちゃんは納得がいく。そんな感じがするの」
リラはわたしの髪に優しく触れる。でも、その手はいつもにまして冷たい。
どうやって、可愛くあればいいんだろう?どうやって――何をどうすれば、自信というものが手に入れられるんだろう?
少しだけ考えても、やっぱり分からない。
トーストに塗るものは、ただ妥協した。
ただ身近にあったブルーベリージャムを塗って、ただ何も感じなかった。
だけど、彼女の「かわいい」は、私の思いとは程遠い。思いは、その答えから逃げていくように、否定的になる。
「かわいい」――私にはそれはお世辞にしか聞こえない。
「自信持っていよう」――そしてそれがいつの頃からか出来なくなっていて、今でも出来ないでいる。
それは、迷いからくる妥協ではない。言いたくても言えない――答えの出ることのない答え、声にならない声みたいなものだった。
「リボン、ありがと。じゃあ、行ってきまーす」
そう言って学校へと行ってしまう。
また、一人になっていた。
私はこの後、ずっと一人でラジオを聴いていた。でも、黒い機器から漏れ出る内容は何も頭に入って来ず、雑音にしか聞こえなかった。
だけど、そのことに対する悲しさとか怒りとか、そんな感情があまり湧くことはない。
一人になりたいと願ったから、独りになったんだ。だからその孤独は、自ら自分のために選んだもの。何も、間違っていない。
そう、思っている、なのに。
気づいたら、枕に顔を埋めていた。誰でもいいから、その誰かの肌に密着して、頭を撫でられたりしながら、ただ甘やかされていたい。なんて思いながら、視界が熔けていくような眠りについていた。
❀
「おはよう、みゆきち」
「ああ、桜。おはよう……っていうか、もうそろそろ行かないと、遅刻するよ」
「いやー、ちょっと、昨日はね、うまく眠れなくて」
「……昨日飲み切った缶と、溜まってる吸い殻、ちゃんと捨てといてね」
「あっ、ばれてた」
「もう匂いで分かる。ミストとか香水で誤魔化しても、もう私の体が、桜が近くにいるって反応する」
「うーん。でもぉ、今日寝坊した理由はそれだけじゃないんだ。私さ、来年、一年生の担当になっちゃってて」
「……それで、担当するクラスの中にエリカちゃんがいる、そう言いたかった?」
「ご名答。流石みゆきち、よーく分かってる」
「何となく、分かるのよ。ここにずっといたらね」
「アタシ、エリカちゃんのこと、あんまり分からなくて。ここに来るってことは、何かが、人とは違っているんでしょ?」
「芒が言ってたわ。エリカちゃんは、ただ、『逃げたい』そうよ」
芒。妙に、懐かしい名前。
もう十何年も会っていない。
だけど、ふとしたときに思い出してしまう。
かわいい、と言うよりも、すごく綺麗な少女だった記憶。
そんな記憶を隠すみたいに、あたしは言う。
「だからと言って、こんな辺鄙な極寒の地に来る?」
「『変わりたくないから、ただ逃げたい』って」
「……逃げることは、何かを変えたい――もしくは変わりたい、そんなふうに願っているからこそ起きる。そういうものじゃないかな? ……もしそう仮定するなら、その思いは、最初から矛盾している」
ここに逃げてしまったこと。その時点で、最初から何かが変わっているのだ。
だから、その少女の言葉は、最初から破綻している。
「多分、感情の差なんだよ。変わりたい、と、変わらない。その二つの奥底の願いや望みは同じ。だけど言葉だけが違うから、全てが離れているように見える」
電源のついたドリップマシン。ボタンを押すと、けたたましい機械の振動音と共に、豆の焙煎が始まる。その音と匂いが、眠気を刺激した。出来上がるのを見つめながら、美雪は続ける。
「その言葉の違いは、きっと人の性格とか、その感情の片隅にあるほんの少しの違いとか、そんなものから来るんだよ」
よく分からない。これは、あたしとエリカちゃんの比較だろうか。
だけど、性格も感情も願望も、そして、そこからの言葉も、全てがお互いにリンクし合っている。もしそのどれかが変化するのなら、その全てが共鳴する。
四つは、絶対に切り離せないもの。あたしにとっては、そういう認識だった。
「二人いるとして、それぞれの感情が違うなら、そこにある願いも違ってると思うけど」
「……何だか、問題が複雑になって、論点がずれちゃってるね。まあ、それはエリカちゃんと触れ合ってから、しっかりと考えるべきものだよ」
「……それもそうだね。今は、性格とか趣味とか、そう言うのを聞きたい。説明書――もとい、紹介文見せてよ」
「小牧エリカ。16歳。誕生日は9月17日。好きな食べ物はフルーツサンド。嫌いな食べ物は甘いコーヒー。得意教科は特になくて、苦手教科は数学。趣味は、特に書いてない」
「私、フルーツサンドより、チョコサンド派だ。ショックだー」
「性格に関しては、すごく繊細で優しい。言い換えると、微妙な変化の違いがもろに感情に現れる。頑張り屋さんだけど、行き詰まると、一人で溜め込んじゃう。宿題で分からない問題を見続けていると、鉛筆でぐしゃぐしゃに塗りつぶす。あと、辛いとき、何も言わずに、ただ勉強机の下に隠れる。こんな症状が日常生活でちらほら」
それを聴いた瞬間、私の中に一つの言葉が思い浮かんだ。
「――ねえ、みゆきち。HSPって、知ってる?」
「さあ?」
「ハイリー・センシティブ・パーソン。略して、HSP。五年前、北大の心理学の講義で学んだことがあってね」
「……あんまりそういうのには詳しくないの。学校なんて、あんまり行けなかったし」
「まあ、簡単に言ったら、生まれつき、非常に感受性が強く敏感な気質をもった人。症例としては、想像力が強いゆえに、感情の起伏反応や共感力が強い、つい深く考えすぎてしまって、過度な情報処理をしてしまう、色んなことが気になって落ち着かない、ちょっとしたことで落ち込みやすい、そのため自己否定が強い、なんかがよく挙げられる」
「症例」なんて、使うべきではなかった。まるでエリカちゃんを否定しているみたいで気持ちが悪い。自分の言葉選びの下手さに苛立つ。
「そういうのって、唐突に言われると、なんかキツいね」
「ねっ。メンタル的に落ち込んだ人は、絶対当てはまってるよねって、私も思った」
「そういう人、割といそうな気がするけどね。だから、病気や悪い症状みたいに略さなくても、と思っちゃう」
日本におけるHSPの割合は20%。つまり五人のうち一人はHSPということになる。正しいかどうかなんて確かめる筋合いはないけど、大学の講義で知ったから、その記憶は今でも変わっていない。
「だけど、HSPは心の問題だから、薬も治療法もない。傍にいる誰かが、適切に寄り添ってあげなきゃいけないそう。だから、それに具体的かつ明確な正解なんてないんだよ。正しさが分からないままだから、苦しんでる人もいるはず」
今すぐにでも寄り添ってほしい人。HSPだと分かって居ても、それを隠し続けていたい人。HSPだと言いたいけど、誰にも言えない人。「HSP」という単語そのものに吐き気がして、ただじっと一人でいさせてほしい人。そもそもHSPという言葉自体を知らない人。
人の抱える感情の種類、そしてその向き合い方。四秒の間だけ、脳内で考えても、大雑把にカテゴライズできる。そこからまたさらに項を増やして、分類を重ねると膨大な数だ。
美雪も、あたしとおんなじことを考えていたみたいだ。
「正しさは人それぞれなのに、それを一つの単語にして括ってしまうのは、やっぱり皮肉みたいに見えるよ」
「……教育者の観点から見ると、こういうむず痒い症状に、名前がついて一括りになっているのは、便利なんだけどね」
「――ねえ。桜。先に謝っておくよ」
「何?」
「もしエリカちゃんがHSPだとしても、私は何もできないよ」
「なんでそう思うの?」
「私は、ここにいるみんなをじっと見ることしかできないから。それに、私が行動しなくても、他の誰かがなんとかする。そうでしょ?」
「――無責任な発言だけど、あなたが言うと安心するわ」
二十秒程度沈黙が続く。何も言え出せない。それは心地よくて、どうしても目を瞑りたくなるくらい、ずっとここにいたくなる。
「桜。もう一つ、言いたいことがあるの」
「なんだろう?」
「――もう遅刻するんじゃない?」
「……ああ、やばっ。あー、もう、まあいいか、今日くらいは怒られても……えーっと、みゆきち、一つだけ、頼んでもいい?」
「なんだろう?」
「――今日、エリカちゃんを学校に連れてきて。あと、飲食物――適当に摘めるもの、なんでもいいから持たせてきて」
「相変わらず、反面教師だね」
「とりあえず、急ぐよ。じゃあね」
HSP。
ハイリー・センシティブ・パーソン。(仮)
あたしは、何を思うだろうか?
あたしは、あの子に、何を思えばいいのだろうか?
そんなことは分からない。
だけど、心のただ深く、その奥にある隅と隅がただ交わっているところ。それを、じっと探してみたい。探し出して、受け止めてみたい。
そう思いながら、柔らかな日向を遮る、ただ黒の滲んだ日影にじっくりと足を踏み入れた。
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