会いたいと願う心の中

 二人でドライブしていると私のいる助手席側の窓近くに大きなカラスが横切った。視界に入ったのは一瞬だったが、黒く尖った槍が飛んで来たのかと思って過剰に驚いた。だが本心に驚きが宿るのも束の間、驚愕は好奇心へと代わって運転席の主に尋ねる。

「今、カラスがいたよ」

 その私の呼びかけには応じる素振りを見せない彼女だが、その表情からは柔軟な心地が伺える。微笑みと安心の交錯した表層が全てで、深層は感知の及ばない世界に隠れている。そんな彼女の上澄みを見るだけでも私は癒される。張り詰めていた心が緩やかな下り坂を車椅子で走るみたいに、和やかな気分になれる。

 運転されている車も平坦な高地から下り坂へと道を選んだ。車一台通るのがやっとの幅狭な道路は左右を雑草に囲まれていて、緑の発光が目に優しい。春のそよ風が草木をしなやかに震えさせ、私の心の機微を象徴しているようだ。

 その様子を眺めていると、私の目から一滴の水の欠片が落ちてきた。その微量の涙が座席に着地するやいなや、堰を切ったように次なる涙達が押し寄せてくる。理由も分からずそのまま目の欲望に任せていると、いつの間にか座席と私の腰までの間が涙の川になっていた。私の洪水は流れ止まず、ただ泣いて、ひたすら泣いて、心臓を絞るように泣くことしか私はできなかった。

 瞼が削れるほど泣いた後、充血しているだろう眼球を彼女に向けた。彼女は相変わらず感情の落胆というものを知らない様相を表すだけだった。慌てず騒がず、偏に落ち着いた挙動でハンドルに両手を添える限りだ。その光景に、私は何度目か数え切れない安堵を得る。彼女の運転さばき、運転席の座り方、ナビを操作する所作、全てが私の感受性を掻き立てる。いつだってこの姿に救済された。

 まだ霞んで安定をなさない私の視野は、下り坂の終わりを確かに捉える。そこで坂道の最中脇に広がっていた青々しさは一度途切れた。何となく物寂しいと感じながら、舗装されたコンクリートの道へ出る。凹凸のない長距離を走行していると、二人で車に乗って旅をしてきた過去を振り返ってみても類を見ないほどの安定した走行をしている感覚に覆われる。絶対に揺るがない未来を保証するような、そんな慈愛に満ちた時間だ。障害物も横槍も入らない広々とした道路は、私達に穏やかに語りかけてくるみたいに車輪と音楽を奏でる。

 徐々に乾いてきた目元を喚起させるために数回拭って、フロントガラスを真っ直ぐ見つめる。そうすると晴れた空から日光が図々しく顔を出し私の視線を遮ってくるので、地平線から目先の地面までを映すことにした。光を放つ色は、人工的な灰色の塗装ばかり。同じものを見ていても飽きるため振り子の要領で目線を往復させていると、下り坂付近と似ている植物達の茂みに先ほど一瞥したカラスが立ち止まっていた。車体の右側の窓から覗けるそのカラスは微動だにしない佇まいでこちらを見ている。黒々と固定された身体と背景で揺らめく薄緑が日常の不安定感を醸し出しているようで、少し私の心が焦らされる。あまり凝視していると頭が参ってしまいそうだから程々なところで捻った首を元の位置まで復帰させた。

 戻す過程で彼女を目に入れると、彼女はやはり変化のない顔立ちに映った。我が道を行くといった様子で、簡単には他人からの影響を受けない。彼女は昔からそうだった。学生時代も、新社会人になっても、常に堂々とした態度で自分の意見を発信して、周りからの信頼や好意を集めていた。そのように他人から好かれても尚、毅然としているのが彼女だ。

 そんな彼女が、私は好きだった。彼女が私の人生における憧れであり、私の生命を捧げたいと思える唯一の人だった。好きだという気持ちを届けるのも遠慮してしまうくらい、彼女の凛とした容貌を愛していた。それでも強欲に、自己満足に、ある日私は彼女へ思いを告げた。そして有難いことに彼女は私を受け入れてくれ、私達二人は縁を結ぶこととなった。

 幸せ、その一言に尽きた。彼女と過ごす毎日がこんなにも嬉しくて楽しいものなのかと喜びの絶頂にいた。学生時代からの望みが叶って歓喜の沙汰だった。日常の中のどんなに些細なことでも彼女と共有して、幸福を実感していた。時には悲しいことや辛い出来事も起こったけど、お互いに分け合うことで乗り越えた。彼女と同じ時を過ごすことで、彼女の強い部分のみならず、弱い一面、脆いところも知った。何回か喧嘩もした。思いやりがボタンの掛け違いみたいに交差して、意思疎通に苦しむこともあった。でも結局最後には手と手を取り合って、仲直りの印をお互いの唇に刻んでいた。

 この生活が永遠に私の手の内にあると思い込んでいた。

 だが、それは零れた。

 ダンッ。

 とそこで車が弾んだ。何が起こったのか意識を前面に集中させると、どうやら荒れた土地に車体を踏み入れたらしい。あれだけ広大な道のりをもう走り終えたようだ。記憶の彼女に思いを馳せている間に相当な距離を紡いだということだ。肝心の彼女は少し笑顔が色濃くなった顔色でハンドルに接していた。それを見て、釣られた私も微笑を浮かべる。

 さぁ、もう少しだ。

 決心して二人の住んでいた家からここまで来るのに結構な時間を要したが、それまでの距離を考えれば残りは僅かだ。

 前とは打って変わった不安定な地形を頑強な車体を突き出して進んでいく。生えている草木は土手の方とは異なり枯れ果てたものが目立ち、人の手が加えられていないためか私の身長を優に超すであろう植物も多く茂っている。その群生の中に朽ちた鉄板の重なるホームレスの住居があり、奥の暗がりで放置された掃き溜めの上には三度目のカラスが居座っていた。カラスは暗色の瞳を再びこちらへ寄越して、私を急がせた。言われなくても、いや見られなくても分かっている。もう間もないから。

 そうして凸凹の道ならざる地帯を懸命に走らせる。

 移ろうフロントガラスと軋む車輪、永久に安穏な彼女を目に焼き付けるようにしながら、私の車が駆ける。

 途中、幾度と無く分厚い木々に阻まれつつも、目的の場所へとガソリンを消費する。

 コンクリートでは味わえない苦難を一身に浴びながら前へ、前へと行く。

 そしてついに視界が開けた。

 間髪入れず、視界が埋まる。

 埋まった感想としては、思ったより綺麗ではないなというあたりか。濁った質感が前後左右、あらゆる角度から車を侵食していく。涙に濡れるよりも圧倒的な速さで事態が進行する。その重さが積もるにつれて、車体もゆっくり底へと沈む。

 沈む、沈む。どこまでも沈む。

 空気から離れていく切なさを抱く一方、段々と落下するこの状況に安心感のようものを覚える。今まで努力を尽くして地上の重力に背いて生きてきたことを強く回想する。だが今は背負うものがない。ただ水の圧力に潰されて、川底を目指すだけだ。車の沈没具合から察するに、その奥底はまだまだ遠いようだ。その遠距離が嬉しい。正に深みにはまっていくという情景だ。全ての流れに身を任せて諦めることこそ、それが怠惰であるとしても正しい選択なのだと痛感する。

 生きる活力を失ってだらしなく開けた口元まで河川の水が浸水していることに気付くと、これはもう死ぬなと思った。むしろこれでやっと死ねる。

 私の人生から逃げられる。苦しい現実から道を外せられる。何よりも、死を以て私の願いは成就する。

 後悔はほとんど無い。強いて言うなら二人で愛用していた車を半壊させてしまったことだろうか。だがそれも死んだ後では関係ない話だ。

 とうとう車内全体が汚水で満たされる。視程の隅で重石がアクセルから外れるのも微かに捉えた。これで純粋に真下へ溺れるのかと感慨に耽る。その余裕も程無くして消え、ろくに光も差さない水中で呼吸困難が私を死滅の方角へと誘う。開けた口に水が留まりなく流入してきて、身体の空洞が塞がれていくように体感する。耳もどうやら壊れたようで、音を反響する機能を消失し、水分を右から左へと移送する仕事しかしない。

 外側も水、内側も水となるともはや私と水の違いが分からなくなってくる。私と水の境目は何処だろう。私が水ではないという根拠は何だろう。私が水で私は水に私へ水を水が水に水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水水。

 水、水、水、もう、これ、死ぬ。

 ……そうだ、彼女はどうしているのだろう。

 死ぬ前に、そのくらいは確かめよう。

 何とか意識を戻して、運転席を見る。

 そうして見た場所には、誰もいなかった。

 私は最期、ぼやけた目の前に涙を溶かしながら、

 とっくに死んだ彼女と心中した。


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