皮膚かむ
爪を噛むより皮膚を齧る方が美味いと気付いたのは高校生になってから。親指の爪の横側の皮膚目掛けて歯を突き立てます。いただきます。食し食し食べ食べ食べる。むしゃむしゃぴりっぴりっぐぅっとぐぅっと。ぴりりっ。良い歯応えだ。病み付きになるのが納得の食感です。美味い食感だ。出っ張ってる皮膚もむしゃり。齧り付いてしまいます。これまた良い歯応え。上下の前歯が喜んでる。噛み尽くすといつの間にか飲み込んでいて、無意識に次の部位に臨むのだ。親指はまだまだ健全の範疇だから今度は逆サイドいってみよう。かぶ。ぱくぱくむっしゅむっしゅ。止められない中毒性だわこれ。美味しい。既に爪は切ってあるから、サイドからサイドへの元爪ゾーンを攻めよう。皮を咥える。前歯で挟む。皮が余る。引っ張る。千切れる。ほらね、簡単でしょう。それを隈無く右から左へ作業します。無意識の極み。美味い物は自然に存在するのだね。何も考えずに及べる行為の楽しさよ、楽しいです。グルメなので親指の第一関節もぺろりと一齧り。指先は指先で柔らかく食べやすいけど根本近くの硬い食感も癖になる所。これを食べずして食べたなんて言えないよ。そう言えば今は他の四本に向いた側面を頂いていたけど、反対側の肌は過疎気味でございます。あんまり食べたことないや。どんな感じだろう挑戦しても骨が近いのか食べられない。残念。新規開拓しようとしたのに。食を追う者は常に斬新さを求めているのですよ。人の細胞は数年で何とやらって言いますし。次は人差し指にいってみよう。むしゃっといきます。うん、美味い。指それぞれに味の個性があって素敵。親指が食事時間の中で横綱的な巨体を誇るのに比して、人差し指は奇怪な動きで人々を惑わす魔術師みたいだ。こちらの皮も余す所なく頂きました。さぁそして本命、中指。指界のトップスター、高身長かつバランスのとれた体型には全指が嫉妬すると思われる皆の憧れ中指。相変わらずいつ見ても美味な空気を醸し出しているぜ。ぷりっとした歯応え、口に入れた瞬間広がる無味無臭。その深みは一体何処まで続いているのだろう。深層まで吸い尽くしてしまいたい。駄目だ、想像するだけで興奮が収まらない。あー、食いてぇ。ではいざ出陣。右右左右真ん中左第一関節右第一関節右真ん中第一関節左右右左第一関節真ん中第一関節真ん中第一関節真ん中第一関節真ん中第一関節右右右左右。硬い固い堅い。柔らかい軟らかい。左右に上下に指と頭を振り回す。もっと早く、もっと次を食べたい。満たしたい。気持ちが積まれると先走って体が二の次になる。今その手と口先の神経が完全に同化している。あちらを立てればこちらも立つ。右へ倣えで意思を先導している。どんどん一つになるように思えて、身体が喜んでいるよう。成る程これ程とは。中指の中毒性は恐ろしい。自身の一部に一歩間違えれば麻薬的な機能美があったなんて。気付いちゃった。愉快のあまり歯がかちかち縦に震動してきた。最高のコンサート後に観客総立ちで盛大な拍手を捧げるのと同じだ。この演奏は視界中に広がりゆく規模。音が文字になってメロディが絵画となっていた。見て見て凄いでしょ。味覚も境地に及んだら美術作品の特別優秀賞だよ。この感覚を途切れないよう研ぎ澄ませて続けると、薬指はあっという間に処理し終えました。薬指はそのネーミングに反して自制心の助長には発展しなかったようです。どんな名前でも、如何なる部分も促進は煽られる一方。一方通行な人生を謳歌するのが乙というものだと思い知りました。さぁ勢いよく持続させましょうと言いたい所ですがここで残念なお知らせ。何と右手の未加工な本数が残り一となってしまいました。終演を彩るのは小指選手。そのスケールの小ささ故に日常において存在感を発揮しないことで有名ですが、ここでは貴重な獲物です。精々大匙二杯並な体積だと思っても満足度は過密になっていきますよ。密度に期待して最後の号令。いただきます。むむ、左右は攻められるが真ん中が難しい。しかし小振り特有の長所もあります。それは食べやすいこと。調整して切り刻む手間が省けて、そのまま一直線に食すのに向いていますね。やはり見捨てられない存在です。身体ってのは良く出来てますよ本当に。よし、むっしゃー、ごっくん。ぷはぁ。どうも、ご馳走様でした。あー美味しかった。これで和気藹々とした食事はお開きとなるのか。寂しいな。なんて。ごめんなさい。嘘吐きました。最後ではありません。まだまだ食べます。だって少なくとも左手は行かなきゃ。という訳で左側へ食指を伸ばす。
「こらこらそんなに焦らない」
関心の対象が手元から腕四本分奥へ飛ぶ。扉をがらがら開けたのは長髪で、自分だったら常に咥えていないと済まないような一人の女だった。
「もぅー来るの遅いよぉ!」
「悪い悪い、なぐ……補習押し付けられていてさ。あの体育教師本当うざいわ」
「待ち切れなくて先に食べ始めちゃったよ!ほら」
「いつものことだろ。あたしは気にしない」
「
自覚ある痴話喧嘩を挟みながらワイシャツを食べやすい形状に調整する。自慰行為から一転、放課後教室の机に跨ってこの制服を着崩した校則違反女と青春の汗を流すことになる。授業より重要度を増しつつある最近の日課だ。
彼女とは出会ってまだ日が冬場の早朝並みに浅い。新学期早々、体育祭の発案で指を摘みにプレゼンしたり、試験中に鉛筆どころか皮膚削りに心酔したりしていた私の周囲の顔は何故か愉快なものではなかった。彼女はそんな私を見て好きだと告げ、あわよくば私の身体に齧り付きたいとまで伝えてくれた。それを拒絶する程自分の器に骨董蒐集家以上の拘りは無かったのだ。勿論味は国宝級だけど。
「はいはい、じゃいただきまーす」
唾の飛ばし合いは後に回し、鰐川は早速私の左腕に歯を挿し込んでくる。じんわり血管を訪れる刺激と唾液に、口寂しさは感じながら自意識から独立した危うさみたいな感覚を得られる。何処まで掘削するのだろう。あぁっ、そんなに!いや、この程度か。いやいややっぱり!ほらぁ滲んできた。半透明なエナメル層が血色にデコレーションされて、著名人との握手同様歯磨きしないで欲しい慾望と私なんかで汚れて欲しくない自傷の念が衝突した。
伸ばした下り坂に従って工事が進行する。ほほぉ少し鳥肌が立っちゃった。鰐川には分かったらしくにやりと私を睨んだ。肌の重なりには積極的だけど心の接触に慣れ親しみを感じにくいのは私が物性に偏っているからかね。食感に特化した厚皮を丁寧に剥がしたら、爪の間まで垢を舐め取った後、肉を抉る一口手前まで貪る。
「左手気持ち良い……右手も愛してくれてもいいよ」
「了解」
左手の美味しそうな箇所は親離れしていったので、残り物ですが、と予め調理しておいた皮を差し入れる。共有していないからって私の痛覚は蚊帳の外に鰐川の顎が新たな手相を刻んだ。下処理の甲斐あって非常識な痛みと踊ることが出来た。これで明るい未来が占えると思うと唾液腺から感謝の汁が溢れてくる。あぁ感謝感謝!
「あたしは噛まないでよ」
占い師を離職すると前置きを設置して、私の顔面に迫ってきた。その合図を酌み取るや否やキスした。期待と通例通り入口で停止することなく、口内環境を食い散らかす。内向的な皮膚がぴりりと剥がれて身体が更新される気分だ。美味しいだろうなぁ。柔らかくて肉厚だから。食べ辛いのが難点だろうから口を広げて序でに抱き寄せて「あひあっへ」クイズを兼ねて自作言語を提供した。誤って彼女の唇を噛まないよう慎重に。
鰐川は私の破損具合に心躍らせる割に自己に裂傷が及ぶことは嫌う。歪んだ鏡合わせとして私は自傷が癖付いている一方で他人を傷付けたりは絶対にしない。つまり鰐川が私を夏場の西瓜の如く齧るのはメリットしかない。高校生になってこんな関係が築けるとは想像していなかった。皆身体性より精神性を重宝し始める年頃だもの。それはそうと涙と不快感混じりの液体が頬を垂れて止まない。鰐川はそれを飲んで悦に浸る。だが流石に一度切りのタン塩まで頂かれることは無かった。
ぱぁっと運命の透明な糸を延ばして、目の前の唇に言う。
「脚も腰も腹も胸も首も瞼も、全部愛してぇ」
鰐川は分かり切ったことを、と私を隅に追い詰めて食事会は続く。部活終わりの健康な肉体共が五月蝿く廊下を走る。誰かに見られたらなんて私達は気にしない。皆には関係ないから。
翌朝は一面真っ赤に爛れ、歯型という愛の証拠に呻いた。無理に噛むと自前のソースが食後のデザートになった。だから大人しく回復を待った。
半日経てば動けるようになったので授業中の態度からして優等生の私は五時間目から登校した。周りに私の復活を心待ちにしていた様子は伺えなかったけど。皆恥ずかしがり屋で商売しているから。
今日は死なないよう耳朶の通気性を高めるくらいに控えようか、相手が無理に求めてくるならそれはそれで受け入れようか逡巡するが、時間になっても呆れた挨拶を備えた鰐川はやって来ない。昨日に引き続き遅刻かぁ?補習って言ってたけどグラウンドを眺める限りそれらしき姿は確認出来ないぞ。長針が対極に寝返っても扉が揺れる気配がない。午前時点で欠席と踏み帰路に消えたのだろうか。
念の為校舎の不良が屯する隅から根暗が集まる隅まで調査していく。餌の私に釣られないことから家でクッキーでも包装ごと齧っているのかなと推定すると、希み薄と踏んだ屋上前の階段にて、鰐川は別の女と口付けしていた。頬を膨張させて壁に力強く押さえ付ける様が、私以上にロマンティックに映ってしまった。
茫然は愕然に転遷して急いで教室に戻る。何だよ、私だけにしてくれるんじゃなかったのかよ!約束はしてなかったけど、鰐川のこと知り尽くしてはいなかったけどあんまりだ。親指を咥えて激しく噛む。そのまま筋肉を全て剥ぎ落とした。
足りない!こんなもんじゃ。もっと血を取り出さないと。左手首に齧り付く。血が出ない出ない出ない出ない出ない出た。出たいっぱい。痛い痛い、これ、これ!痛くないとやってけない。というか痛くない。よく分からないが続けたい。血が足りないこんなに要らない美味い美味い。啜って掻き出せば早いかな。ちゅるちゅる垂らして回りくどい血液循環を実験していると、慌て姿の希少な鰐川が私に追い付いた。律儀に切迫した顔付きで謝罪を申し立ててくる。
「ごめんって!謝るから!」
今更私の自虐に口出しするけど知らない止めない私はしたくてしているから。そちらもしたくてしたいことをしていたら良いんじゃないの。放ったらかしにした相方の巣に帰って自分好みに味付けすれば。私は自己完結の味に盲従出来れば満足だから。無念だけど君の分はそろそろ失くなりそうだ。
貧血を悟った浮気女は腕を締め付けてきた。この期に及んで旺盛な食欲を主張はしないだろうけど、止血しようという算段が無駄なことくらい分かってるよね。散々禁じていた舌を捌けば終わるから。
「あがぁ」
最期の味はよく分からなかった。確かなのは食感が良いことだけ。脱け殻はぐねりと倒れた。
あぁ、悔しいなぁ。
あたしは
確実な証拠隠滅にはそれしか思い浮かばなかった。歯型の意匠を凝らした遺体の助けを呼ぶのは自殺行為と判断し他殺行為に及んだ。正直、今までしてきたことの延長線上という感じで、殺害特有の悔悟は降り注がない。ただ刑務所に世話になる確率は上がったなと感じた。性根からの犯罪者気質なのだろうか。
他者を傷付ける傍迷惑と訴えられる癖は親や妹に比喩でも反抗期でもなく咬みつく所から始まった。段々と男の肉は硬質で趣味に合わず、かと言って子供を狙えば問題になる危険性が高いことを学び、同年代で私の食い気に惹かれるような兎達に標的を絞ることにした。高校入学後、兎らしく痙攣しながら指を齧る彼女は癖の域を越えていると思い誘ってみたら大当たりだった。当たりは一人に限らなかった訳だが。
二股は露呈すれば怒られるかもしれないなと予想はしていた。でも仕方ないだろ。需要が多い割に供給はあたしかそこら辺の犬しかいないんだから。衛生を考慮してかあたしを選んだ菜々井が悪い。あの時は保身から謝ったけど本心は面倒臭いの一言。日頃死の方向に歩みを進めているならお望み通りの筋書きだろう。
全く自傷したがる奴の気持ちは理解出来ない。不安定な精神は壁紙や他人に押し付ければいいだろうに。自分が弱いと思うなら更に弱い存在に当たり散らせばよかろう。菜々井がそういうタイプかは知らず終いだったけど。
しかし立場変わって南雲の到着が遅れている。食べる側が早入りするのは如何なものか。前身のように焦らせた方が効果的だったろうか。中々来ないので口がむず痒くなり飴を舐めて紛らわす。噛み砕いて失くなった。仕方ないから試しに指の皮を食んだ。落ち着かないな。あたしは他人を噛む側だってのに。生育不良なことは間違い無いから煙草の一本二本蓄えておけば良かった。今なら持ち手ごと咥えそうだ。事実口に運ぶ熱量が収まらない。食い千切るのが止まらない。苛々が腕まで波及して私の大事な身体から傷が生えてくる。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
遅れて登場する脇役は出会って間のないあたしの異常に気付く。思慮の分配は鰐川より優れているなと思った。それより自分を食べたくて仕方ない。腕なら、肩なら下半身なら喰らい付けるけど心臓までは届かない。急にどうしたって、どうもこうもあたしの性質が変わったとしか思えないんだよ。そうだ、目の前の人に頼もう!
「南雲ぉ……私を、食べてぇ?」
主導権の受理を冀う。何言ってるんですか、私の体重を受けながら玩具らしさを手放さないので、あんたを殴ってあげるから、付け加えると「分かりました……」南雲は何とか壊れた天秤の下取引に応じてくれた。本当に分かっているのか、返事だけは立派な学生ではないか不安になったが、殴った後差し出した身体に「いただきます」ゆっくり手を合わせて食べ始めた。暴力はあたし程得意ではないはずだけど食べるイコール暴力ではないという発想かい。彼女の中にも多色刷りの信条があり、私を食べることは違反に値しないとか。何でもいいけど、南雲は私を残さず完食してくれた。
あぁそうそう、菜々井の味は臭みが漂ってイマイチだったな。南雲の方が美味かっただろうに。
うっぷ…………はわ、殴られたのが嬉しくてつい鰐川さんを食べてしまった。そんな、わたしは決して他人に迷惑を掛けない生き方をしようと心の隅で思うに留めていたのに。死人に口無し思念無しということで例外に思うしかないか。
「ご馳走様でした」
口の中に鰐川さんが残っている。筋肉質だからか味は首を肩側に傾げるものだけど、生来皮膚を齧られる側だったので新鮮味はある。骨や服は鞄に詰め込んで、非力なわたしはずるずる引き摺りながら持ち帰り庭に埋めた。綺麗な花が咲いてわたしの脚でも引っ掛けてくれれば良いよ。取り敢えず今はお腹を休めたい。
翌日夕方、わたしの歯が勝手に行った幇助とは言え犯罪者気分に怯えながら教室をやり過ごし、家に帰って庭を観察する。一日では変わらないか。デメリットは他にもあった。わたしを死の寸前まで追い詰めてくる主人が消えた。よく考えれば昨日のわたしに一つでもメリットあったのか?それもまた良い……とはならないよ。他人由来の物理的痛苦に執着しているんだから。
とぼとぼ居間に戻る。すると急に死にたくなってきた。孤独感とは別腹の生理的な欲求。正確に言えば私を食べて殺したい。誰かに襲ってもらいたいという他人任せは時間切れ、私の前歯で指をがつがつ抉ってみた。わたしの口を使うなんて烏滸がましいこと昨日までは考えられなかったよ。噛めば噛む程欲求は高まって、あたしは腕へと掘削範囲を広げた。うん、美味い美味い。鰐川さんと違って柔らかく、母親が作ってくれたような、いや正にそんな親しみある風味。いないけど。他人に爪を立てられることで自分の存在を証明してきたわたしが自己完結で満足出来ればこれ以上ない生き様だと思った。
現実は完璧主義で小手先の味だけでは物足らず、内臓の具合を探求してみたくなった。位置関係もさることながらわたしの弱い咬合力で腹を搔っ捌けるはずはなく台所の包丁を使ってみることにする。武器があれば百人力よとあたしの中からは大量出血を出囃子に桃色の胃腸が顔を出した。この時点で気は途絶えかけたが折角なら食べなきゃと赤子のように優しく掬い上げる。
一口噛んで、あぁやっぱりあたしのとは違う。それが分かればもうお腹いっぱいだ。わたしは残さず食べれなかったけど、今までにない満腹感を抱きながら、私の魂は漸く天に昇りましたとさ。
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