アンナバレンタイン

 転校生の後島杏奈は左前の席に凭れていた。転校初日は端の席にいたわたしの隣に組み込まれ、運任せの席替えを挟んで尚わたしの近隣住民を保持している。幸か不幸かについては不幸なんて思わないけど偶然の積み重なりは奇妙に覚える。

 この小学校の教室は班毎に分割され、寝癖がすごいと評判のわたしは最後尾の列に、「あっはっは」と頬を引き攣らせよく笑う小櫛ひよりがその隣、わたしの前にはえーと、誰だか忘れた男の子、そしてその隣に、小さい背丈と色白の肌に葡萄大の眼球を入れ、異国情緒を感じさせる杏奈の四人で一班となる。そうだ、男の子の名前は高畠遊、クラスのムードメーカーで、給食の時間になる度に彼によるパフォーマンスが催される人気者。だけどこの物語には関係ないのでカットします。

 ひよりと杏奈は気が合うらしく、通学の往復路や掃除当番中に一緒に縮こまってにやにや話している。二人専用の空間かなと思ってそこに割り込むことはないけど、三年生の開幕に転入した時から手取り足取り学校案内しただけあって、一年も経っていないが、杏奈にとっての親密度はクラスの中でも多分ひよりと良い勝負をすると思う。何処に住んでるかといった個人情報には詳しくないけれど。もちろんひよりとも遊君とも仲は良いし仲の悪い人なんていない。給食の際も話とスプーンが弾んでお気に入りの服に新たなデザインが入る程、あの班は仲良いねーと周りの班から噂される。こちとら普通に話しているだけなんだけど、健全なことには違いない。

 わたしが適当な話を提供した時の反応が、ひよりが全力笑顔のあっはっはだとしたら、杏奈はくすくすと身長に比例して小さく笑う。両者コントラストが効いていて趣深い。そこで振り返った男子のさっぱりとした声調がスパイスになる。ちなみにわたしは皺と目元がくしゃっと折り畳まれてあまり好きにはなれない。わたしは語られて調子づいた感想を述べるよりも語る側なのであると自己分析する。

 そして今日は朝からひより杏奈ペアが教室の隅で腕を寄せ合い、こそこそと会合を開いている。あの密着具合にやはりひよりには負けるかぁと潔く認めた敗北を目線で合図すると、体育はまだなのに却って小刻みな縄跳びを始め、縄がないことに気付いて止まって何処か消えた。始業のベルがなるまでには戻ってきても、他人をおちょくるようにも捉えられる態度は通常に戻りそうもない。わたしったら何か変なことしたかしら。もしかしてスカートのファスナー…………は開いてないから身なりの問題ではない。ひよりに限ってはやたらめったらみたらし団子みたいに顔を膨らませ「ふふ」を時折漏らしている。「何か良いことあったの?」訊いても「んー別にぃー」窓から吹き入れる風に流して答えてもらえない。二人の秘密は構わないんだが、明らかにこちらを見ていたし、蔑ろにされている感じ。ここから世に聞く虐めの火蓋が切られてしまうのか。恐れに声も掛けにくいまま授業が消化されていった。

 みなさんさようならと言う先生を残して皆と適当に帰ろうかと席を立ったら、ひよりと杏奈に呼び止められた。皆がまだいる中で二人対一人の対面になり何だこれは、少し焦る。「杏奈ちゃんが渡したいものがあるんだって!」ひよりがこの状況の趣旨を伝え、「これ貰って」杏奈はいつもの落ち着いた物腰とは裏腹に明るく彩った声でわたしの手元に差し出した。ひよりは相変わらずのしたり顔、杏奈は不安を数パーセント混ぜた燥ぎ顔を作りながら、もう終わったから行こうっ、といった調子でそそくさと先に駆け抜けていった。渡されたのは青い袋。ここで見るのは周囲の目が気になるので背中に収納し取り敢えず学校を出た。

 ……そうか。今日は発酵したカカオに糖分を加えた嗜好品を買うようメーカーが煽動する日だった。朝から空気に色気が混じり、前の男子も多少物静かだったのは意識してのことか。バレンタインなんて心底興味ないから授受共に用意していなかった。皆も本心では菓子に執着はなくてただ騒ぎたいだけだろうけど。一方的に貰っちゃって何か悪い気がする。でも期待しちゃいけない。仰々しく渡されたからといって特殊な感情を伝えるものとは限らない。それこそ商業的な、義理的な、友チョコだろうよ。

 家路から少し外れた公園にて、周りにクラスメイトや家族がいないことを確認して、リボンを外し開けてみた。中には予想通りの焦茶色、しかし手作りらしくはない、手作りだとしたらやけに手の込んだ綺麗なチョコと、予想の狭間を縫っていた青い手紙が一枚入っていた。「これからも友達としてよろしくね」の文字が頭の中に作り上げられていく中、ゆっくり、慎重に、落ち込まないように取り出す。

「好きです」と一言書かれていた。斜体で連なるたった四字の手書き文字に、かぁぁっと声が出た。どうやら正真正銘告白みたいだ。「おい本気か、本気ですか」誰もいないだろうことを良いことに、嬉しさとプレッシャーが腹部から湧いてくる。もちろん嬉しい、張りのある頬が正月に帰省して食べた餅みたいに伸びるくらい嬉しい。ただでさえあんな可愛い転校生に転校一年目にして好かれるなんて舞い上がっちゃう。けど明日、杏奈にどんな顔をして会えばいいのだ。幸せな花畑がそこにありながら闇雲に飛び込むことはできない。

 実はわたしは一年生時代もこの類の物を貰ったことがある。クラスで一番可愛いとされる活発な女子から「〇〇ちゃんのことが好きです。大きくなったら結婚しようね」定番が故の透き通った熱意を紙ベースで受け取り、しばらく取っておいた。家族に見られたくなくてベッドの下の玩具箱に隠したけど、共用部屋だからバレているかもしれない。こうして引き摺る程の一年生ながらじわじわと込み上げる思いがあったけど、どう返事を伝えたらいいのか分からず、席が離れていたのもあって風化してしまった。今ではクラスも違うただの友達関係に定着している。わたしにはその記憶が残る。

 だから柵を隔てたマンション居住者の利用も兼ねているのか、公園の端に置かれたゴミ箱に、わたしは袋の中身一式を捨てた。第一に親にバレたくないから。第二に軽い容器に添えられた気持ちの重圧に耐えられなかったから。ポジティブな出来事であるはずなのに、それを家まで持ち帰ることができなかったのだ。自分で理由付けしておきながら理路整然としている行動なのか確信が持てない。ペットボトルの残骸やら袋詰めの生ごみと混ざった贈り物を見てとんでもないことをしてしまった気がして、急いでその場を離れた。薄紫色の日差しがわたしを見送った。

 手ぶらで帰っても甘みが脳にこびりついているようで、杏奈のことを考えてしまう。言っておくけど杏奈をそういう目で見たことはない。ひよりにも男の子にも自発的な好意を抱いたことはない。そもそも手紙に綴るまでする「好き」という感情がわたしにはよく分からない。目と目を合わせ好きと呟く役者達にピントが合わない。あらゆるストーリーも恋愛色が足された途端に色褪せる。「好き」に意味なんてあるのか。生殖の動機付けとしか思えないけど、わたしに告げる場合正しく異なる訳だ。

 何故誰かを好きになるのか。皆の信じる恋人という存在はわたしには友達と相違なく映るから、杏奈のことを友達として好きとは言えるけど恋人にはなれない。要は特別かどうかだとしても、わたしは特別な思いを抱くことをしないしできない。感情ってそんなに大事かな。適当な話を繋ぐだけで、そのままでいたいよ。それとも運命的な出会いを果たせていないだけなのかな。杏奈も杏奈で放った「好き」の言葉に深い自覚はあるのだろうか。横の男子とのやり取りは特に無かったし、ほろ苦い弾丸を弾倉に詰めて連射している様子も無かったから、やはり特別なのか。だけどこの数ヶ月はわたしを好きだとしても十年後には別の誰かの隣を歩いているんじゃないのと疑ってしまう。これを愛が重いと言うならそんな軽い愛は告白するような代物ではないとも思う。

 確かにわたしは今杏奈を想像して身体が熱くなっている。でも好きと言われて好きになるのは空っぽな反応である気がする。わたしはそんなにふわふわした女じゃない。好いてくれるなら誰でもいいことになれば杏奈である必要はない。仮にひよりにも告白されてどちらを選ぶとなったら選べる自信はないもの。社会的には悪どい格好でも本音を言えばどちらも選びたいぐらいだ。付き合う意味は除いて。

 一方で誰かに好かれるのは本来の自分、トイレに行ったり姉妹と喧嘩したりする自分に他人から好かれる自分がグリッチしてしまって居心地が悪い。生きる感覚が変わってしまうんだ。明日からこれまでの挙動を保てるかどうか。それは杏奈に好かれる自分と関わる杏奈以外の人間に対しても。男子にも同じ班なのに内緒にするのはどうなんだ。尋ねられたら考えるようにするか。

 だからわたしも好き、なんて言えないよ。言えないのに杏奈の小柄な体躯が浮かばれた。手を繋いだり抱き締めたり、キスしたりしてみた。唇が妙に突き出るわたしを俯瞰して見苦しい。うー、好きでもないのに。それでもドキドキしてしまうのはわたしの性質なのか。好きと言われて悩むとは糖分ましましの思考だなぁ。頭の中が前後、右往左往し続ける。明日、杏奈はこっちを見て何て言うかな。会話をシミュレーションして、数時間前の行動を今更勿体ないと悔やむ。捨てちゃったけど食べたことにして、杏奈や付き添い役のひよりを表面上は喜ばせよう。そう誓った。


 今日も杏奈は左前にいる。夜が明ければ昨日の盛り上がりも冷め、特にこちらを覗くことはない。かといって足をひたすら組み替えたり顎に手を滑らせたりと怪しい動きをする訳でもない。それはわたしに当てはまったらしく、たった今片肘ついて寝癖を抑え込む仕草も獲得した。とにかく普通でいられない。杏奈からこの距離しかないと意識すると上手く呼吸ができない。酸素と二酸化炭素のバランスが取れているか確かめられない。わたしの息がかかったら迷惑だからと右に傾いてしまう。そのせいか今日のわたしの周りは寡黙で、ひよりとも顔を合わせられない。

 給食の時間になっても遊君恒例の「いただきます」が響かない。食器の掠れる音が目立って嚥下するのも難しい。位置が右に変わった男子はこの空気と牛乳を不思議そうに吸っている。ごめんね、遊君は知らないところでちょっとした我慢比べが始まっているんだ。

「チョコ美味しかったよ」二人の間であまりに無言が続くのは不自然だと堰を切り、掃除中、わたしからまずはそれだけ伝えた。口を滑らせて平手打ちされる未来は避けられた。これを皮切りに復調するかなと思っていた杏奈の反応は意外と薄い。ありがと、と小声で一言。しまった、時間を空けすぎたか、挙動不審に幻滅したのか、それとも答えが早く欲しいのか。「好きじゃない」とは口が裂けない限り言えないからまだ言えそうにないけど。そっちもそっちで本当に好きなら実際に口に出して言ってくれれば、わたしも答えざるを得ない。勝手に好きと伝えてきてそのまま終わらないでよ。

 向こうは無言のままわたしの様々な思いが交錯して、話しかけ辛い。近寄り難い。ひよりも何処かわたしと距離を取る。告白は元来運命の歯車を回す潤滑油であるはずなのにどうして摩擦が生まれるのかな。わたしのせいかもな。結局事態が進展することはなくまた先生を残し、今日は呼び止められないまま教室を出た。去り際、杏奈とひよりが小さな会話を取り戻していた。二人の仲は健在であるようだ。


 一ヶ月後、杏奈は転校することになった。理由は来た時と同じ、ありがちな両親の都合。先生から初めて聞いた時、当然ながら悲しくなった。好きじゃなくても好かれていても友達がいなくなるのは心に穴が開く気分だ。最後に送迎会を開くことになり、お別れのプレゼントをクラス投票の結果、わたしが渡すことになった。あの日以来会話の節々に歪みを察知してきたが、皆からすればわたしがお似合いということなのだろう。責任感半分、今まで仲良くしてくれたことへの感謝半分で文句などない。

 お別れ会当日、寄せ書きと先生からのプレゼントが入った紙袋に駄菓子屋で買った袋詰めのチョコレートをこっそり入れて準備していた。物を貰っておいて返さないのは不誠実だというくらいの認識はあった。言葉の方は考えた挙句「ありがとう」と一文字だけ増えた手紙に落ち着いた。わたしも好きだよ、とは言えなかった。

 皆の前で伝えたのは「今までありがとね」という儀礼的な文字列だけで、個人的なことなんて言えやしなかった。杏奈も同じように一言二言の表明で終わり、杏奈と話すのはそれっきりだった。恋人でも友達でもなくなったわたしは校舎を出た。

 途中で杏奈とひよりが二人でいるのが見えた。まだ神様はわたしに何か見せたいのかとある種の運命を感じ、こっそり後をつけてみる。

 着いた先は公園。

 ゴミ箱にわたしのチョコが捨てられていた。

 嫌な気持ちは告白される手間もなく分かりやすかった。

 あーあ、ほらね。


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