いただき!トイレごはんっ

 便座に座ると、はぁ落ち着く。

 中学校舎の一階、水飲み場の脇にひっそり門戸を構えるトイレがある。ここはわたしの行きつけの店で、暖簾を潜るように立ち入れば白を基調とした壁紙と無臭が広がる。オーダーした席はもちろん一番奥の指定席。この便座に座れば出席扱いにならないかなぁと願うくらいわたしの絶対的な居場所だ。

 自習時間をトイレで過ごす優越感。何十人もの人口を誇ってわたしの神経を食べる教室と違い、ここにはわたし一人。ただでさえ人の往来が少ないのに、教室のない階は人気がなくて素晴らしい。一人の時間が好きなんだ。

 という訳で懐に抱えた風呂敷を、長期連載で設定を練り過ぎたがために休載を多用し始める作家のように広げた。こんなこともあろうかとというかこれを狙ってお弁当を導入してきた。それでは手を合わせて、いただきまぁす。しっかりと心中号令する。うっかり消化管を通さずそのままトイレに流さないよう、膝の上でバランスを取りながら鶏肉を取る。ジューシーな肉汁が口の中で溢れた。やはり時代はトイレ飯ですな。皆もよく考えてみたまえ。栄養の新参者を迎え入れ古参を追い出せる、これほど理に適った生活の仕方はないだろう。唯一の難点として匂いで怪しまれるんじゃないかとのお便りが寄せられるけど消臭剤の力を過信しているためわたしは気にしてない。悪臭は教室で散布する方がわたしだと判明した瞬間に縮小する声量によって母への恨みと申し訳なさが心を痛めるのだ。実際、個室から離れると案外匂わないと証明済み。カレーの類だったらスパイスが越境して告発されるは愚かカレー味のどうたらかこうたら味のカレーかというイベントさえ発生するかもしれないけど。

 個人の一廓を確保できるトイレは長居さえできれば漫喫より余程満喫できる場所だ。ここ特に今はそれに値する。学校にこんな静地があることを知っているのはわたしくらいだろうかと思うと禁秘の豪雨に降られて金肥を掘り当てそうだ。臆病者なので不適切な想到は土葬するとして二個目のチキンを頬張る。もぐもぐ、わたしはまるで人間火力発電所だ。孤独にグルメしていても舞台がトイレならばぼっちを煽る言葉の被害に遭うことがない。自分をターゲットしない糾弾さえヒットする教室とは違ってエリア外で浮遊するわたしの身体は弾丸を透過する。このまま地縛霊として定住してもいい。少なくとも学校では誰も近寄らない無の存在になっていたいものですね。

 覗かれない限り誰の目も届かないトイレでは構造とは裏腹にお腹の覆い布を裏返せるほど開放的になれる。だからわたしは便座と一体化する際に間に布を挟まない。つまりスカーレットのスカートを下ろす。習慣的にそうしないと不慣れに思うとかいつでも排出できるようにだとか説明しようとすればできるけど、最たる理由は教室じゃできないことをする特別感が好きだから。抑圧された教室で席を便座に見立てて一糸纏わなくなったところで色々と曝し者になってしまうから脱げる時に脱いでおかないと勿体無い。下半身くらいは生まれたままの姿でいさせてほしいものだ。うちの衛生設備は優秀なので冬場に腰以下が裸の半裸であっても寒がらずに暖を取れる。お尻からじわじわと伝わってくるカロリーが閑散した一畳間を快適に彩る。代謝が活性化されてヘルシーなランチタイムを送れる。ほんとにこれ以上のスペースないよ。無料だし。駅のトイレに行列ができるのも納得がいく。膀胱がピンチの時はかなりむかつくんだけど、あれ。

 トイレのメリットはまだ腐臭がする程ある。嘔吐もできるし手鏡の前で変顔してもばれない。防犯カメラがないから無音で無人なら何でもできる。トイレで不可能なことなんてあるのかね。トイレは自由の象徴だね。但し隣の個室に人がいるとおしっこが出なくなるパターンの人体なのでその場合は一気に不自由となるけど。むしゃむしゃ。孤独がどうとか言う小説家は一度学生に戻ってトイレに篭ってみればいい。世界が狭まるぞ。それにトイレにはトイレットペーパーたる有難い資源がある。鼻をかむ、口を拭く、生きてく上で否応無く湧昇するものを処理するなど多岐に渡って活躍する日用品が。最後尾の代物は初めての時は流石に勇気を滲ませたけど今では何の気兼ねもなくできるよう成長した。隠し撮りされていたら、それはそれで興奮するかも。有り得ないけど。

 トイレの魅惑を波及したい一心で便座と共に温熱を高めてしまった。波風立て過ぎて皆トイレに殺到したらしたで非常に困るから一人きりの秘密にしようと両手で指切りする。どっちしろ伝える相手なんていないけど。リアーと記されたボタンを押してその寂寥感を洗い流す。そして授業中という後ろめたい背徳感、むしろ尾に徳を感じて痺れる。閉め切った一室の中で一人新しい扉が開きそう。この温もりが快感。擬人化したら良い妻になりそうだ。わたしの身体に照れて温水噴いちゃったのかなって。可愛いトイレ。やっぱりわたしは洋式派だね。和式の方が衛生的とか何とか言うけど別に潔癖症じゃないし。ごめんね浮気じゃないから嫉妬しないでねと前置きとして言うと、学校のこれはもう常連の尻馴染みだけど未開の地で綺麗なトイレを見つけるとそれだけでわたしの気持ちは昂る。籠城する戦略がなくてもついリラックスしてしまう。最も快適と書いて最適なのは多目的トイレだけど。あと特徴的でレアなトイレと言ったら中に入ると川のせせらぎが流れ出るやつ。内側で鳴る音のお茶を濁すことが本意なのだろうけど周囲の雑音が気になるわたしとしては一人の時間により集中できて大助かり。アロマセラピー恐るべし。清掃員さんにも頭が上がらないよ。こういう仕事も評価されるべきだよね。何かの料理漫画に社長が率先してトイレ掃除するシーンがあった気がする。最期はトイレで迎えたいわたしだけど清掃員さんのことを加味すると第一発見者にさせるのは気の毒かなと思い返した。刑事物でよくある序章だ。

 他にこれほど腰を落ち着けるスポットがあるだろうか。図書室も教室よりはましだけど来賓と稀に野次馬が集うからここまでのことはできないでしょう。加えて文字に色香を嗜められないし窘められるはずのことにも思わないから。家庭で肩身の狭い思いをする配偶者がトイレに憩いを求める心理を身に染みて感じるね。わたしは未婚でとっくに知ってるけど。ただ無人と思ってなのか隣の個室に突撃してくる空気の読めない子が襲来することがそれなりの頻度である。悪戯心から冷やかされたり親切心から安否を確認されたりはしないので差し迫った当惑じゃないけど。流石にそこまで他人に興味はないみたい。皆の無関心とわたしの孤立に感謝感激雨霰、は誇張だとしても小雨くらいは降らせてやろうか。

 コックを引いてこっくりと料理人の作った全品を飲み干す。ごちそうさまでした。欠かさぬ感謝を地の文で明記する。すると「たんたんたん」わたしを惨憺な面持ちにさせる誰かの足音が響き、「かんかんかん」閑散としたこの空間においてわたしの眼前のドアだけがノックされた。突然のことに叩き返すという作法を忘れたわたしは慌てて衣食を整頓してドアの鍵を開けっぴらかす。そうして徐々に頭角を現した期待の大物新人は後ろで髪を纏めてマスクの上からも知れる若い新顔の清掃員さんだった。女子大生であっても不思議ない二十代っぷりはこの場に似合わず幽かな色香を彩る。わたしは四方を壁に囲われながらの年代と間隔の近さを以て追い詰められたようにたじろぐ。確か前までの担当は年季の入ったおばちゃんだったはず。おばちゃんの周回ルートは完全に掌握してたけどこの人は予想外だ。

「大丈夫ですか?……随分長い間篭っておったけど」

 手提げを膝枕して固まったわたしに小顔が高い位置から見下ろす。緊張の糸を本返し縫いさせるのに足りる透き通っていて綺麗な声だ。

「……ここでお弁当食べてたんか?」

 無防備に心身を采配するわたしに心配を超えた質問が突く。この短距離でフローラルな臭気を隠して逃げ切るのはいくら何でも無理があったか。個室が玉手箱仕様だったら瞬時に高齢化させて煙に巻くことができたのに。そうはならずとも相手が相手だったら上記が最後に聞いた言葉になるところだけど、何せ美人なので思わず返事した。

「あ、ちょっと、自習中だった、ので」

 けれど同級生さえ厳しいわたしが歳上女性のニーズに応えることは叶わず持病のパニックが出勤すると言葉尻と支離を滅裂させた。

「こら、自習中だったら教室居ないといかんでしょう…………もしかしなくても、あんた一人ぼっち?」

 会話の応用が効くこの人は何弁だか分からない訛りも効いた声を出す。清々しい失態を披露中のわたしは傷口への盛り塩に「すいません」塩対応で済ませる。意外と傷付かない代わりに久方振りの会話で角膜にしょっぱい水が浮かぶ。そのまま泳いでいると「……なら」と言って定置網を仕掛けてきた。

「よかったら、これからお昼一緒にしない?実はウチお昼時間が空いてて暇なんよ」

 急速過ぎる言葉の侵略にわたしの防御は手狭になる。

「悪い提案じゃないと思うで。あんたはぼっちを回避できてウチは暇潰しになる。大丈夫、誰にも言わないから。内緒にしてればばれないよ」

「……わたしここ、結構気に入ってるですけどっ」

 あくまで一人を好むわたしは軟らかい意固地で踏ん張り、文脈をトイレに注いで答える。純水な暮らしは濾過するまでなくわたしだけのものにしておきたいから。

「…………実は、ウチもあんたと同類なんよ」

 眼光をすとんと絶ちながら眼前にぽつんと立つ人は漏らす。

「ウチも学生時代、トイレに籠る系女子だったんよ。いいよなぁ、トイレ。だから新卒早々、この職選んだんだけどなぁ。親から猛反対されるわ友達に言えないわで大変だったわ」

 聞かざる自己プロモーションで思い出を着飾るこの人と同じ穴の狢に埋められてずけずけしく気持ちだけでも後退するわたしだが、沁み入る現在と今のわたしのように苦境に立たされていただろう過去を思うと見た目だけでも同情する。だけどいくらトイレ好きだからって卒業してまで古巣に帰らなくても現役で活躍できそうな顔立ちなのに。風貌は憐憫の極みだけど。とにかく消毒用アルコールで陶酔するらしく喋り続けるこの人の話は半分にスライスしてやり過ごすのが得策だろう。と踏んで会話文の進行を待った。

「…………だからあんたを誘ってみたんだけど、どうやら余計な世話焼きだったみたいな。ごめんねー邪魔しちゃって。ぼっち便所飯するその気持ち、ウチが一番理解してるのに」

 すると意外にも諦め良くこの人は残念そうにそう言って早々とこの場を去った……と思ったら双璧を成す隣の個室の掃除に取り掛かる。可動域の広がったわたしは一先ず出立して、便器の前、この人の屈んだ背中を見る。ふと胃を中継せず残飯を合法投棄していたことを思い返し不安になるのも束の間、一度迫られたら断れない性格が災いなのか幸いなのかは置いといて労働したがった。この人とは同級生よりは会話しやすいしその仲間内とは明るさの違う親近感も思わせる。この人だったら昼休みの四十分くらい、一緒に過ごしていいかもしれない。それに毎日トイレを利用してる者として清掃員さんには感謝しないといけない、かもしれないから。

「……いいですよ。そのお昼ご飯、付き合って、付き合わさせてくださいっ」

 決めた心をこの人の背後に投げかける。するとこの人は働いていた身体を静止させ、振り返る。

「やったー!」

 飛び跳ねて、抱きつこうとする寸前で自分の現職を追懐してくれたため斜めに刺さって立ち止まるこの人。近い近いと狼狽えながら引き剥がして尚、無邪気に微笑む。この人は複雑のようで単純で、年上だけど年下みたい。そのフランクさが居心地良い。

「どうせ、一人で居ても暇ですし……」

 わたしは捧げる一人の時間を照れ隠し、そう呟いた。

 こうしてわたし達はお昼を共にすることになった。

 もちろんトイレで。

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