精神と肉のスペアリブ
「いい加減死になさい」
恋人の隣に立っていたら言われた。
「死になさいってわたしが死んだらどうするの?」
「いいからその手を退けて半歩下がれ。額に肉って書いてやろうか」
強情な恋人の消極的な押しに渋々、内股に擦り付けた手を離してあげる。ただし素直に従うのは癪なのでピアノを演奏するようにくすぐりの刑に処した。
「余計なことすんな。気色悪い」
「悪いことはないでしょう。わたしもあなたも気持ち良くさせようとしているんだから」
「単なる下心の込められた手つきに触れられても嬉しくねぇよ」
「下心の何が悪いのさ。性欲だって立派な気持ちだと思わないのかね」
「思わない。不純な動機で近付かれても不快になるだけだろ。ここのところお前は性に支配され過ぎだ」
「それ言ったらあなただって最近神経質になり過ぎではなくて?いいじゃん脚くらい揉ませてよ」
「お前は神経の概念が無い分頭の容量が軽そうだな。羨ましくはないけど。そんなに欲情しているなら誰か他のを拝借しろよ」
「それは嫌。わたしはあなたが好きだもん。あなただからこそ得られる快感というものがあるでしょうに」
「だからと言ってお前の下心を認める訳がない」
「別に下心で弄ったとは言ってないよ?」
「じゃあ何」
「最早心すら入り込む余地のない、体内から燃え上がるリビドー的な衝動」
「それ同内容だろ。どっちにしろ最低だし。お前の色呆けっぷりはどう矯正したらいいのか」
「手厳しいなぁ。わたしと付き合って、同居して十何年経つのに。昔の輝夜姫の故郷クラスに満丸かったあなたは何処へ行ったの」
「月に帰ったんじゃね。というか一番変わったのはお前だ。何時からかお前が身体のことばかりに興味を湧かせたのが発端だろ。それがなければあたしも今より鷹揚だったかもな」
「思春期の癖に肉欲がない方が正に身分不相応だと思わない?」
「脳味噌掻き混ぜて考えれば思春期が文字通り思考の育つ時期だということくらい解釈できるだろ。お前には縁遠い話かもしれないけど」
「だとしても何事も身体が資本じゃん。死んだら終わりじゃん。あなたもわたしも健康第一だよ」
「おい話を摩り替えるな。確かにそれは一理あるけどお前の性的な目論見は三流以下の優先度だろ。加えて終わりかどうかは死んでみて初めてはっきりすることだろ」
「死者の霊魂を信じてるの?オカルトの類は勘弁」
「あたしが言ってるのは可能性。ただ死ぬことは主体が必ず肉体ということだ。全てが肉体頼りとは限らない」
「でもそんなあやふやなものを考えたところで生産的じゃないでしょ。愉快でもないよね。ぐだぐだ煩わしく考えて悩むより、わたしとえっちしようよ」
潜めていた指の関節を曲げながら近寄る。胸まであと僅かという時、早打ちで叩かれてしまった。
「もぅ釣れないなぁ」
「お前は死ぬ気で禁欲しろ。あたしと恋愛したいなら、もう少し情趣を汲め」
恋人は意固地になって精神的な繋がりを尊重する。
「心が大事なら身体なんて気にしない、すなわちえっち大好き、っていう発想になったりはしないの?」
「それは結果的に二重の心を歪めているだけだろ。首尾一貫していない言葉には効力がない。まぁ元々お前と会話する時は例外だけど、あたしは心のことしか考えていないし」
「うーむ、価値観が相違しますな」
「お前が猥褻しなければ平穏だったけどな」
「わたしがやりたかったから仕方ないじゃん……って言っても仕方ないよねぇ」
「まぁお前はそういう存在だからな」
「む、その言い草」
反撥したい気に駆られるけど、わたしの目的はあくまで恋人との性交渉なので譲歩してわたしから歩み寄る。
「……あなたがそこまで精神を推すなら、試しにキャラ変してあげようか?」
「永遠にそうして欲しいけど、やれるものならやってみれば」
恋人が賛成したので、咳払いして声を斜に構えてみる。顔に真剣のパックを被験させ手を伸ばす。そして膝の皿にディナーを添えた。
「お前それ、さっきと変わら」
「あなたのことが好き」言うより先に輪郭をもう一つで包む。屈んで、恋人の脚に乗っかる形になる。
「あなたの考え方が好き。理知的な発想が好き。確固とした芯が好き。冷静な対応が好き。冷淡な性格が好き。あなたの深層心理が好き」
「………………」
「こう言うと黙っちゃう部分が好き。言葉に弱いところが好き。わたしの言葉を純に受取るあなたが好き」
「…………演技って分かっているんだけど」
「それでも蜂の巣に誘われるのは、わたしに甘い蜜を感じるからでしょ?」
「お前が脱色してさえいれば、まぁ」
「何だかんだあなたは恋愛脳なんだね」
「恋愛を否定した覚えは一応ないけど」
「そうだったね。わたしの恋人だし」
優位な姿勢から、油断を縫うように告げる。
「過去に触れ合った回数も数え切れないし」
言うと恋人の顔が甘酸っぱい顰め面になる。繕っていた精神のガードが柔らかく煮えてきた。この濃厚なムードを使って溜まり溜まった堰を切る。
「ほら、こんな風に」
「あうぁっ」
突っ込んだことをしたら、恋人が仰け反った。どたどた後退してわたしと間を空ける。
「お前本気で殺すぞ」
奥の隅に屈み込んで、真っ赤な皮膚と涙を浮かべながら睨んできた。言葉通りに盛った意思が見て取れる。恋人が本気と言う時は本当に本気だ。だけど恋人の心理を気にする暇はない。
「身体は喜んでいる癖に。触らせろよもっと」
壁際の恋人に迫り、恋人以上に溢れる意志で命じる。身体を震わせた弱い恋人にわたしという現実が叩きつく。頭で考えたことが如何に儚く散るか思い知らせてあげる。恋人の精神を壊してあげよう。
脚を踏める位置まで至り、手始めに恋人の両腕を磔にする。やめろと請われて死ねと叫ばれて、わたしは傷心を流産させながら抑制する。持ち前の握力で非力な恋人を吊るし上げ、幼さ満点の万歳を取らせる。安定させたら腕を腹に寄せ、礼儀正しい格好にしてみせる。そのままその手を腹の下へ持ってゆく。下から下へ下の端へと運び切り、微かに触れた時、わたしは天井が見えた。
恋人の脚がわたしの顎を蹴り抜いた。
「こんなお前は好きでも何でもねぇ!」
押さえていた手を振り解き、恋人は逃げ出した。恋人の断面だけが集まる目の中、恋人が去った。自慢の骨格に思った以上の負傷が滲む。追いかけるのは断念して、回復を待って思いを馳せた。
恋人は脆い。以前より恋人は脆くなった。精神を基盤とするようになったのは、恋人とわたしの二人にとって大きな誤算だった。何せ精神は一旦崩壊すると元に戻りにくい。二度と戻らないことだってあり、恋人が精神に固執するのはそれと似ている。だからわたしが恋人を直して強くせねばならない。自ら英断することが最良だが、肉体に言い聞かせない限り頷かないやつだから。何よりはわたしが恋人を触りたいからなんだけど。昔はよく恋人から誘ってきた。初めての時はあんなに興味津々だった。あの頃の恋人とまた楽しみたい。下手なこと考える前の恋人に出会って再教育したい。考えることよりシンプルで気持ちの良いことだと教えてあげたい。今は無理そうだから手段は選ばないけど。
しかし結局、ノルマ達成ならず。
「キャラ作りは難しいなぁ」
目に蓋をして眠ってみた。
精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する。
痛めた脚を走らせた後、絨毯に寝そべる。水平な眼差しで恋人が来ないことに息をする。精魂尽き果てた体力に何故か打撲まで負い理不尽だ。日頃使役しない部位がじんわり痺れて怒りが垂れる。暴行は然ることながら十把一絡げにして精神を理解しない恋人の考えなしが怒れ過ぎる。恋人は肉体的な繋がりでしか繋がろうとしない。精神の方が絶対高位であることを覚えてくれない。あたしがそれに気付いてから幾度となく伝えてきたのに節制してくれない。恋人は何処まで親しくなろうと恋人に尽き相容れない存在と知っていたけどまた知った。あたしの核を無残に扱った。何で。何で何で何でそんなことするんだよ。あたしの考えに逆らうなよ。あたしの考えることが恋人を動かすはずだろ。恋人は恋人らしく側で大人しくしておけよ。こんな思いは通じない。恋人はあたしに耳を傾けない。幼少の頃、一緒に暮らすことを信じて疑わなかった恋人との齟齬は成長期を迎えて激増した。ただの喧嘩より根が深くて黴臭い。同じだと思っていたからこそ分化が進むにつれ悔しく思った。あたしは恋人とお揃いが良かった。だからさっきみたく恋人があたしに合わせてくれるとあたしは精神的に良好で、そうとなれば肉体の接触も多少は許せて、手を繋ぐとか、脚を撫でるくらいなら赦免してやろうと思えた。だがあたしの上限は恋人にとって序盤だったらしい。許容できない場所に軽々と軽々しく立ち入ってきて、最後には笑いながら力に任せて、恋人の白々しく汚い本性を浮き彫りにした。身体が愛を偽造しようとした。特に今回のは酷かった。努力してくれる素振りからの裏切りが恋人の正体だ。
精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する精神が疾患する。
胸に手を当てて聴診器の代わりをする。嫌気と吐き気は治癒されずだらしなく床と睨み合う。精神衛生周りに溜まった肉片が苛つく。肉体と調和しなければ不安定なあたし自身にも殺気立つ。いい加減にしないと。いい加減恋人を止めさせないと。いっそ恋人と縁を切らないと。
恋人に初潮が訪れていなかったらと理想を描く。恋人に性欲がなかったら。恋人に性別がなかったら。理性からあたしを見ていたら。
生殖期の発達した今となっては遅い。だがあたしには知恵があるから、全てを解決しよう。可能性に期待した一手を指そう。疾患を疾走させた精神が行き着く先へ。
精神が疾患する肉体に治療する精神が疾患する肉体に治療する精神が疾患する肉体に治療する精神が疾患する肉体に治療する精神が疾患する。
肉体に再会する。
もたれかかった壁の前、騒ぎの代償として眠っている。安らかな顔で休んでいる。
年中無休のあたしは恋人にライターから火を撒いた。
「いい加減死になさい」
恋人を囚人だと思わせるよう、檻の絵を着火する。燃え始めを確かめてあたしはその場を離れる。体温とは比にならない火の部屋が恋人を焼く。途中、恋人の声が聞こえた。
あたしは宛先がなくなって路頭に迷う。純粋になれて自由なはずが、何処に向かっていいか分からない。この瞬間になって恋人の居ない日はなかったと振り返る。好意も嫌悪も恋人と隣り合わせだった。精神が次々と昔を語り出す。あたしは頭を殴って自爆する。だが丁度良いことに、眩暈がしてきてくれた。肉の焼ける懐かしい香りがやって来た。大きく息を吸って吐いて、それを味わい尽くす。段々とあたしの精神が灰になってゆく。
あたしはやはり、恋人無しには存命できなかったようだ。
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