第7話
「それじゃあ、また学校でね」
コハクは少しだけ戻ってきた表情筋を動かして、僕らに言った。
「ああ、無理だけはするなよ」
レイはそう言うと、コハクの隣から立ち上がった。
「ありがとう、レイくん」
僕もコハクを気遣って、声をかける。
「今日のことは全然気にしていないから、ゆっくり休んで。喫茶店も美術館も近場だから、またいつでもいけるし」
「うん、ヒカリくんもありがとう」
コハクは僕の言葉を嬉しそうに受け取った。僕は少し安心する。
「じゃあ」
「うん、またね」
僕とレイはコハクのお母さんにも軽く挨拶をして、彼女の家をあとにした。
夕方が近づいても、雨は止まない。
じめじめとした匂いが、ふと鼻をつついた。コハクの部屋が女子特有の甘い匂いにつつまれていたことを、僕は思い出す。
レイとは猪島公園駅まで一緒に帰った。彼はなぜか少し足早で、電車に乗るまで僕らは一言も喋らなかった。
「雨、やまないね」
「あ、ああ」
レイは一息おいてから、面倒くさそうに返した。
「このあと、どうするの?」
それは沈黙を埋めるための些細な質問だった。しかし、レイの返答は思いもよらないものだった。
「美術館へ行く。ミュシャの企画展が今日までだから」
「えっ」
電車が揺れる音だけがした。僕は思わず、
「なんで?」
と聞いていた。
「なんでって、ずっと行きたかったから」
その回答に僕は電車のなかにも関わらず、大声をあげた。
「コハクは、コハクはまだ動けずにいるんだよ! どうして自分だけ、美術館に行けるのさ。コハクがどれだけ、今日を楽しみにしていたか……」
「彼女は可哀想だけど、それと俺の都合は関係ないだろ」
「関係なくないよ!」
レイは冷めた目で僕をみた。電車の中がざわつき始める。
「……これ以上うるさく喋るなら、俺はもう何も言わない」
レイはそう言って、トートバッグから文庫本を取り出した。
「僕は帰るからな」
レイは文字を追ったまま、答えなかった。
そのまま「さようなら」も言わずに、僕らは駅で別れる。
一人になった僕は、レイと一緒にコハクを待っていた噴水の前を抜け、3人で行くはずだった喫茶店の前を通りかかった。
『喫茶 まどろみ』
アンティーク調の看板に、小さな字でそう書かれていた。お店の壁一面にアイビーが繁茂している。
僕は先日、父とした約束を思い出した。
「ねえ、父さん。猪島公園の近くの喫茶店って行ったことある」
「『まどろみ』のことか。メニューが変わってから、しばらく行ってないな」
「そうなんだ」
「そこがどうかしたのか?」
「いや、日曜日に友達と行くからさ」
「そうか。なら、ついでに偵察をしてきてくれないか? 同業者として豆の取り揃えを知りたいんだ」
「いいよ。任せて」
そう言ってしまった手前、僕はこのまま帰れないなと思った。
ちょうど4時頃だ。このまま帰るには早すぎる。
レイに言ったように、コハクに申し訳ないと思いながら、僕は「次にくるときの下見だ」と自分に言い聞かせて、『喫茶 まどろみ』のドアを開いた。
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