第6話
コハクが待ち合わせ場所に来なかった理由を知ったとき、僕はもうぼんやりとしか立っていられなかった。
全身の血の気が引くとは、まさにこんな状態なのだろう。
電話の主はコハクのお母さんだった。申し訳なさそうに状況を説明するその声に、僕とレイは居ても立っても居られなくなった。
猪島公園駅から電車に乗って、数駅。コハクの家は静かな住宅街に佇む、小さなマンションの一室だ。
もう二度とコハクの笑顔を見られないかもしれない。そう思うと胸が張り裂けそうだった。
僕は覚悟をきめて、彼女の家のインターホンを押す。
「あの、コハクさんの友達の、平川と邑朋です」
「ああ。ごめんなさいね、急にこんなことになってしまって」
コハクのお母さんが出た。彼女とは正反対の憂いある雰囲気だったが、それでも美人だった。
「コハクは……、娘さんは大丈夫ですか?!」
僕は開口一番、そう聞いた。お母さんは小さくうなずいて、コハクの部屋に通してくれた。
「コハク、入るよ……」
僕の知っている雨野コハクは、そこにはいなかった。
外出用に着飾った可愛らしいワンピースを着たまま、彼女はベッドのうえで仰向けになっていた。
「びっくりさせて、ごめんね」
コハクは僕らを見ないまま、寂しそうな声でそう言った。
「もう平気なのか?」
先にレイが口を開いた。コハクがベッドから起き上がることはない。
「うん。身体は動かせないけど、二人のことは分かるよ」
外国の研究者二人の名前がつけられた、長ったらしい病名。コハクのお母さんから電話で正式名称を聞かされたけど、僕は忘れてしまった。
何百億人に一人とも、何千億人に一人ともいわれる病。その厄介な病を、コハクは「冬眠病」と呼んでいた。
「発作がおこるとね、生きるために必要な最低限の活動以外が止まるの。まるで冬眠に入ったみたいに、すーっと意識を失って、しばらく眠ったあと、頭から順番に体の縛りが解けていく。その発作がいつやってくるのか、発作のあといつまで眠り続けるのかは、私にも分からない」
コハクの病気は、いわゆるナルコレプシーとは違う。まるで夕立のように突然、全身が仮死状態に入り、その場で意識を失う。そして氷が解けていくかのように、頭から下半身にかけて感覚が戻ってくる。
「眠り続ける時間は、今日みたいに10分くらいのときもあれば、一週間くらい長いときもある。お医者さんは、短い仮死状態の発作を繰り返しているうちに、いつか二度と目覚めないときがくるって言ってた。私はいつも発作が起こるたびに、死ぬかもしれないって思うの。最近、新しい薬を試して、しばらく安定していたから少し油断してたのかな……」
コハクは力なく、天井をみて言った。
彼女が岐阜から東京に引っ越してきた理由は、「冬眠病」の最先端治療をうけるためだったのだ。
僕はコハクの傍に駆け寄って、ベッドの横に座った。
「ヒカリくん?」
コハクは固まったまま、口だけ動かして言った。
「そうだよ。わかる?」
「うん。まだ目は見えないけど、匂いでわかる。柔軟剤の優しい匂いがするもん」
レイも隣にきた。静かな部屋に衣擦れの音が響く。
「あ、レイくんだ」
「ああ」
「レイくんはね、本の匂いがするよ。懐かしくて、落ち着く匂い」
元気はなかったが、コハクはいつもの調子に戻っていた。
僕は、どうしてコハクが退屈な日常生活の全てに感動し、学級委員や代表スピーチに挑戦を続けていたのかを理解した。
彼女にとって「当たり前の日々」は、二度とこないかもしれない日々だったのだ。
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