第8話
『喫茶 まどろみ』のドアを開けると、ドア鈴が「カランカラン」と鳴った。
「いらっしゃいませー」
20代前半くらいの眼鏡をかけた女の人が、カウンターでコーヒーを淹れている。栗色のカーディガンに、黒いエプロン。僕はどこかでみたことある人だなと思った。
「お一人様ですか?」
彼女は僕を見て言った。雨のためか、日曜日の夕方でもお客さんは疎らだ。
「はい」
「それじゃあ、こちらへどうぞ」
僕はそのままカウンターへ通された。喫茶店というより、まるでバーのようだ。
「こちらがメニューになります」
女の人はそう言うと、B4サイズのメニューブックを僕に渡した。「本日のスペシャルブレンド」に、キリマンジャロ、モカ、ジャワなど、豆の産地ごとにコーヒーのメニューが並ぶ。
正直に言うと、僕はあまりコーヒーが得意ではなかった。父がよく練習で淹れてくれたが、味の違いがよく分からない。
二枚目にはコーヒー以外のドリンクと、ケーキやタルトが並んでいた。
もしもコハクがいたら、何を頼むのだろう。
真剣そうに悩む僕を、女性は興味津々に見つめている。
「あの、おすすめってありますか?」
「コーヒーがお好きなら迷わずブレンドですけど、うちではソイラテも人気がありますよ。それから季節のフルーツを使ったタルトもおすすめです」
「じゃ、じゃあソイラテとタルトをお願いします」
「かしこまりました」
女性はそう言って、キッチンへ下がっていった。年上だとは思うけど、まだ若そうなのに一人で切り盛りしているのだろうか。
僕はソイラテを待っている間、お店のなかを見回した。
古い洋館を改築したような店内で、カウンターの向かい側に中庭があり、その前に座席とテーブルがいくつか置かれている。
ほとんどが空席だったが、一番景色の良い真ん中の席で、髭を生やした中年男性が新聞を片手にコーヒーを飲んでいた。
店の隅には螺旋階段があって、二階へと続いているようだった。ただし二階は使っていないらしく、『STAFF ONLY』の手書き看板が吊るされている。
「お待たせしました」
ちょうどいい時間になって、さっきの女性がソイラテとタルトを持ってきた。
ふんわりとした小豆色の長髪に、たれ目気味のまぶた。それに縁のない眼鏡をかけた姿は、やはり見覚えがある。
「あの、どこかで会ったことありますよね」
僕は勇気を出して聞いてみた。知らない人と話すのは、案外苦手ではない。
「えっ、どなたでしょう?」
女性は首を傾げて、怪訝そうな目を僕にむけた。
指を胸のまえであわせ、困った顔をしている。新手のナンパか何かかと思われたかもしれない。
「気のせいではありませんか?」
女性は優しく諭すように、僕に言った。本当に知らなくて、困っている様子だ。
どうやら僕は勘違いをしたようだった。恥ずかしくなって、耳が熱くなる。
「あっ、そうですよね。すみません」
僕は何度も頭をさげて、顔をそのまま隠した。窓際の中年男性も不審そうに僕を見つめている。
ソイラテの甘い香りだけが、居心地の悪さを緩和してくれた。
女性が僕のもとを離れて仕事に戻ったとき、ドア鈴が鳴った。少しだけ雨音が店に入る。
「いらっしゃ……、あら、おかえりなさい」
女性はお客さんをみて、そう言いなおした。
気になって僕が振り向くと、彼女とそっくりな少女が傘のしずくを払っていた。そうして、
「ただいま」
と言って、僕と目があう。
「「あ……」」
そして僕らは思い出したかのように、口から同じ言葉をそうこぼした。
お店に「帰ってきた」のは、同じクラスの秀才女子、鯨川ミナミだった。
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