8 捌 ~ そうだ、京都へ行こう ~
自分の長湯に付き合うことになったヨリは、すっかりのぼせてしまった。子供のキャパシティーを考慮せず、余計な負担をかけてしまった事に胸が痛む。
「えへへぇ~。大きな鏡で御座いまふねぇ~」
まだ残るのぼせに上半身を揺らしながら、ヨリは大きな鏡に感嘆の声を漏らした。
「うん、これはちょっと見ない大きさだね。にしてもヨリちゃん真っ赤だね。大丈夫かい?」
「はい……なんとかだいじょうぶでふ」
右手で手うちわをパタパタしながら、ヨリは言うほど大丈夫には見えない様子で脱力している。何かいい手はないものかと思い脱衣場を見回すと、部屋の中程に並ぶ棚の間にスリムな縦長の扇風機がある事に気づく。自分はこれ幸いと扇風機を確保し、電源を投入しながらヨリの横へ設置した。
「ふぁ。世の中には便利なものがあるので御座いますね~」
風が心地よいのか、ヨリは
「申し訳ありません神様。お手数をおかけいたします」
「ううん、全然申し訳なくないよ~。それにこういう場合は、ありがとうだよ?」
「はっ、左様で御座いますね。ありがとう御座います……神様」
「いいんやで」
「……やで?」
「せやで」
似非関西弁を炸裂させる神おじは、タオルを忙しく動かして動かして、横や前髪の水分を念入りに拭き取ってゆく。長い髪を拭く場合は、先端の部分から拭いてもすぐに上の方から水がおりてきてしまう。なのでそちらは後回しにして、頭頂部に近いところから先に対処して行くと効率がいい。髪を拭いている最中ヨリの細い
「懐かしい……」
かつての情景を思い出していると、感想が自然と口をつく。
「懐かしい、で御座いますか?」
「ああ、うん。家では姪ともよくお風呂に入っていたからさ」
「そうなので御座いますね……」
まだ
「神様、やはりお帰りになりたいですか?」
ふと彼の女の発したストレートな質問にドキッとさせられる。自分の気持ちはとうに見透かされていたようで、悲しげな顔をしたのも気のせいではなかったようだ。この子は人の気持ちを汲むのが本当に上手だ。
「んー、まぁ……そうしたいのはやまやまだけどねぇ」
「そう……ですか。もし、お帰りになる事ができるとしたら、その際は私もお供してよろしいでしょうか……?」
至極遠慮ある調子で発せられたその言葉からは、小さくない期待と、大きいと言わざるを得ない不安とに板挟みにされた悲痛な願いのようなものが垣間見えた。
そこで自分はしきたりのことを思いだす。もちろん、彼女を日本へ連れて帰ることになったとしても、それについて全く異論はない。むしろ積極的にお持ち帰りしたいくらいだ。しかし、人一人の人生を預かるという事には重大な責任が伴う。情だけで生きて行けるほど現実も甘くはない。現代日本の社会システムも、主に法的な面で障害となるだろう。もちろん、そういったことが難しいのは日本だけに限らず、地球上のほとんどの国はそうであるはずだ。突然現れた素性のわからない人間に国籍をあたえ、社会に組み込むというのは容易な事ではない。それでも、もし仮にそうなった場合には、自分は命がけで彼女に対する責務を果たそうとするだろう。これだけは断言できる。
沈痛な面持ちで俯くヨリの姿を、鏡越しに見る形となったこの構図には、皮肉にも社会的立場という目に見えない隔たりを、まじまじと見せ付けられているように思える。
「そうだね。その時は絶対に連れて行くよ。ヨリちゃんが嫌だって言ってもお構いなしで!」
すっかり重たくなってしまった空気をごまかすために、ヨリの頭を乱暴に拭く。
「あわわわわ」
「くだらねぇこと心配するねぃ! まるっと引き受けてやっからよぅ!」
なぜか唐突な江戸っ子。
鏡の手前と向こうでは、共におっさんと少女がじゃれあい仲良く笑っている。考えることややらなければならない事が山ほどあるのは、今いるこの場所だろうと母国だろうと、きっとそう変わりはしない。ならば今は、この女の子ができるだけ笑顔でいられるように尽力して行くべきだ。
そろそろヨリの髪もいいころ合いなので、寄せておいたドライヤーを手に取り、ヨリへ声をかける。いきなり耳元で騒音がしだしたら、彼女も驚いてしまうだろうし。何かと怯えやすいヨリに対する配慮は挨拶の次くらいに大事なことだ。
「これからちょいとうるさくなるけど、心配しないでね」
「あ、はい。がんばります!」
両手でグーを作って胸の前でそろえて神妙な面持ちで構えるヨリは、どこをどう見てもかわいい。
腕を伸ばし、なるべく離れた位置でドライヤーの電源を入れてから、ゆっくりとヨリへ近づけて行く。温風を浴びたヨリは早速首をすくめ、肩にも力が入った。髪の下の方から、全体が程よくばらけるように温風を当て、表面積を稼ぐようにして水分を飛ばしてゆく。すると、しなやかで細い少女の髪はすぐ軽くなり、ドライヤーと扇風機の風になびいてふわりと舞い上がる。四、五分くらいで全体がしっとりする程度まで乾いてきたため、ドライヤーのブローを止め、後ろの髪をブラッシングで整える。それからヨリが普段使っている髪紐を、櫛とブラシの乗ったトレーと共に彼女の手元へ置いた。高密度に織られ、しなやかで光沢を湛えるヨリの紐は、まるで絹製のように軽やかで、自分でも初めて目にする素材だった。真の江戸時代ならば、こういった装飾品も当時の庶民では持ちえない物なのかもしれない。だが、設定にそぐわず端々で緩いこういった点には、首謀者のガバガバぶりがにじみ出ているような気がした。
「ではヨリ姫様。あとはご自身でお願いいたします」
「姫ぇっ!?」
「女の子は皆お姫様なのだぜ。ふふふ」
はしゃぐヨリの姿に癒しを得て、晴れ晴れしい気分になったおじさんも、自分の髪へドライヤーをかける。手櫛でバサバサと髪をかき回し、温風にさらして乾燥を促すと、抜けた髪が洗面台にはらはらと落下して行く。なぜか危機感のようなものを覚えた自分は、無言でドライヤーを止めて散っていったそれをまじまじと見る。割と気になるお年頃。手鏡を使った合わせ鏡で、入念に頭部のチェックを行う神様には、きっと哀愁が漂っていることだろう。そうして穴が開くほど頭部を見回し、特に問題ないことを確認できたため、大きなため息をついた。髪が気になる神様の隣には、櫛で丁寧に髪を梳くヨリの姿がある。彼女は少し心配そうにこちらを見ていた。
「うん、まだ全然大丈夫だぜ」
爽やかな笑顔と共に、サムズアップをヨリに向ける。けれど、状況が呑み込めない彼女は、髪紐を口にくわえてきょとんとなっていた。
やがて髪を結い終えたヨリが、床や流しに落ちた自分と自身の髪の毛をひろい集め、どこに捨てればいいかたずねてくる。洗面台の下を見ると、慣例通りにごみ箱があったので、そこへ入れればいいことを教えてあげた。
脱衣篭の前へ行き、また入浴前のようにバスタオルを広げて先にヨリを着替えさせる。ふと篭の方をのぞいてみれば、彼女の着物と自分のシャツとなどが、クリーニングでもされたようにぴしっとおりたたまれた状態でビニール袋へ収められているのに気づく。ヨリが浴衣を羽織り終えたことでタオルを広げる手が空いたため、自分のパンツが入った袋を開けて中を確認する。パンツからは、ほんのり柔軟剤のような香りがしており、明らかに洗濯されていることがわかる。
「ほげぇ」
ここでも理解が追い付かなくなった自分は、つい変な声を出してしまう。
「ほげ?」
浴衣姿になったヨリが聞き返してきたので、自部はパンツを広げたまま彼女へと向き直る。
「洗濯されてる……」
「ええーっ!?」
ヨリは、また可愛く『えーっ』と言った。
盛大に驚いたヨリは、自分がもっているパンツの裏側へ手のひらを当て、大胆にも手鏡のようにして匂いを嗅ぎはじめる。何という事だ。これではまるきり少女に自分の下着の臭いを嗅がせて喜び勇む下劣な変態野郎ではないか。はいお巡りさん私がやりました。
「これは……いたたまれないな」
混沌とした絵面を前に、さしものおじさんもドン引きだ。
「本当! いい匂いがします!」
この世の終わりだろうか。正直もう駄目だと思った。
気まずいおじさんはパンツを取り上げ、「女の子がそういうことしちゃいけません!」と軽率な行動を
「えへへ。神様とおそろいの匂いがしますね~」
ご満悦といった様子で向けられたヨリの笑顔は、輝くほどに眩しかった。一人で慌てているのがばかばかしくなるほどに。
着慣れたTシャツとパンツを身に着けて、その上から浴衣を着込むと、ヨリが「良くお似合いですよ」と、こぼれるような笑みで褒めてくれる。少し照れくさいが彼女へ謝辞を述べ、共に脱衣場を出る。ここへ来てドタバタの二日目だが、一日ぶりに風呂に入る事ができたので身も心もリフレッシュした気分だ。
脱衣場の出口は、長い廊下の途中に面しているため、来た方とは反対にもまだ通路が伸びている。よく見るとその先には“休憩室”と書かれた
スリッパをはいて中に入ると室内は空調が効いており、湿度の低い空気も相まって、湯上りの火照った体から汗が引いて行くのを感じた。入口から見える対面は、しっかりとした木枠に
庭園の通路には玉砂利が敷かれ、飛び石も埋め込まれている。通路周囲の盛り土には、場所によって異なる種類の木が植えてあり、季節に合わせて趣に変化が出るよう工夫がなされているようだ。ヨリの話では、四季の概念すらない様子だったにもかかわらずである。しかしそれらの疑問など些細なものだった。ありえないことに、庭園を走る通路の果てが見えないのだ。さらに驚くべきことに、上空には当然のように青空が広がっており、雲さえ流れている。白い玉砂利が敷かれ、無数の飛び石が点々と奥へと続く果ての見えない通路と植樹の連なりに目を奪われ、流されるように庭へ降りようとしてしまう。ところが、足元には立て看板が置かれてあり、“雪駄をご利用ください”と丁寧に記されていた。
「あ~……」
今朝方部屋に置かれていた雪駄の意味は、ここを散策するための物だったのか。庭園の広さにばかり気を取られていたが、よく見れば濡れ縁自体も左右へ長く伸びている。左手方向は壁の終わりと共に途切れていたが、右手方向は、百メートルくらい先で更に右へ折れているようだった。
もうここが外なのか、あるいは建物の中なのか判断がつかない。謎が過ぎる状況におじさんは頭を抱えるしかない。そんなとき、室内のヨリからお呼びがかかる。返事を返して室内へ戻り、ヨリの元へ行くと、彼女は興奮気味に目の前の冷蔵棚を指さしていた。
「はいなんじゃらほい?」
「神様、この色とりどりの物はなんでしょうか?」
ヨリが指示していたのは、コンビニにあるような飲料が並ぶ壁内冷蔵庫だった。よく見れば、ペットボトルの隙間からバックヤードも見え、在庫の箱が積まれているのがわかる。ヨリの目線に合わせるように置かれた大量のジュースは、彼女の目を釘付けにしていた。加えて左端のガラス面には張り紙がしてあり、休憩所を使用するにあたっての注意書きが掲示されている。
“平素は、当旅館おやしろ(さき島本館)をお引き立てにあずかりまして、誠にありがとうございます。休憩室の各設備、及び飲食物等はすべて無料サービスとなっておりますので、ご自由にご利用いただけます。また、飲食の際に出たごみは、備え付けのごみ箱へお願いいたします。環境美化にご協力いただき誠にありがとうございます。尚、外からの飲食物の持ち込み等はご遠慮ください――”
「あーあ。とうとう旅館て言っちゃったよ……。なんだよこれふざけてるの? 人様をこんな所に拉致して来て。さんざん翻弄した挙句至れり尽くせりか!」
怒っているのか喜んでいるのか。はたまた笑いながら怒る人か。頭がおかしくなりそうだが、まぁいいだろう。最後まで付き合う覚悟はもうできているんだし。とことんやってやろうじゃないか。
「神様?」
おかしな貼り紙の前でぶつぶつ言いながら、のけぞったり地団駄を踏んだりして暴れていたら、ヨリに心配の声を掛けられてしまった。少し取り乱してしまったらしい。
「だ、大丈夫大丈夫。なんとなく運動がしたかっただけだから……。それと、これだったね。これは飲み物だね~」
「飲み物ですか?」
ヨリは、カラフルな液体の詰まった透明な容器を怪訝な様子で眺める。そこで自分は冷蔵庫の扉を開けて、彼女の目の前にあったオレンジジュースを一つ手に取る。このまま渡そうと思ったが、恐らく開封に手こずってしまうだろうから、キャップを開けてから手渡した。
「その濃さがウェノレチ」
ウェノレチの百パーセントジュースはとても美味しい。もちろんお子ようにもお勧めだ。
「あの……よろしいのでしょうか?」
「どうぞどうぞ。なんかみんなタダみたいだし、多分一通り一口飲んで捨てても怒られないよ」
おじさんは悪い顔をしてあまりにもあんまりなことを言っちゃう。
「そ、そのような事してはいけません! もったいないです!」
当然、ヨリには
「そうだよね。もったいないよね。ヨリちゃんはえらいなぁ」
しっかり者でかわいい彼女の頭をくりくりとなでまわす。
棚の商品配置を見ると、ヨリの目線付近のラインには清涼飲料が集中して置かれている。それより上の手の届かないラインには、様々なアルコール類が陳列されていた。なんかもう、何だろうねコレ。
「こういう配慮はできるのに他が色々とおかしいだろ。あと俺は殆ど酒は飲まないのに」
毒づきながら下の方に目を移し、カロリーゼロのコーラを取る。
飲料棚の右隣には、サンドイッチなどが並ぶ冷蔵棚があって、そこにもぎっしり食べ物が置かれていた。飲食物の種類と、それらに印字されたロゴやパッケージに貼付されているシール類もすべて、日本国内で見かけるものばかりだ。更に背後には、大きなガラスシールドがついたアイスケースとスナック類の棚があり、休憩室というよりもコンビニの様相である。
入口から見て右手の壁際は自販機スペースのようで、缶ジュースの入った自販機二台ある。その向こう側には隣室への出入り口があって、また別のスペースが割り当てられているようだ。出入口を越えた先にも自販機が数台並べられ、即席の冷食うどんやバーガーなどが提供されている。こちら側だけを見れば、ちょっとしたオートスナックである。そして当然のように、各自販機の購入ボタンは赤く点灯しており、料金を支払わずとも利用が可能だ。ほかにもソファーやテーブル、マッサージチェア、各種瓶牛乳の入った四面ガラスの冷蔵庫。さらにお茶やコーヒーのディスペンサーと、とにかく何でも置いてある。
気になる隣の部屋だが、なんとそこはゲームコーナーになっていた。いや、規模的にいえばゲームセンターと呼ぶにふさわしい。入り口から見える範囲だけでも、プライズ、写真シール機、メダル機、ビデオゲームなどの姿が確認できる。
「うわ~、うわあどうしよう……。すんごく入りたい」
ゲームが好きである。目の前に広がる光景に嘆息すると同時に、年甲斐もなく気持ちが
ゲーセンの誘惑に後ろ髪をひかれ過ぎて、後頭部が禿げてしまいそうになるも、なんとか高ぶる気持ちをねじ伏せ、ヨリと連れ立ち休憩室を後にする。このさき自分たちがどうなるか全く予想がつかないため、このゲーセンを利用できる機会があるかどうかは分からない。それでも一度くらいは遊びたく思う。いや一度といわず二度三度。できれば四度五度……じゃなくてもっといっぱい遊びたい。むしろ店員をやってもいいくらいだ。昔取った杵柄だからな!
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