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7 漆 ~ ヨリとお風呂と変態神士 ~

 気づけばすっかり夜は明け、部屋の中には外の光が差し込んできていた。ハッとして横向きのまま縁側を見ると、どういうわけか間仕切りの障子戸が明るくなっている。急いで跳び起きて間仕切りを乱暴に開き、向こう側は壁であるはずの擬装窓のような障子を開くと、そこは壁ではなく海の見える丸窓になっていた。一瞬「え?」となったが、毎時毎分イベントが起きるようなこの地では、驚くだけ損をすることが何となく分かってきている。この異変もこういうものだと割り切り、軽くため息をつきながらトランスフォームした丸窓の障子を閉めた。

 伸びをしてバスルームの方へ行き仕切り襖を開けると、すぐ足元には新しい新聞が数誌と、ポットや茶櫃といった茶器類が置かれていた。それと、昨日まではなかった大小の雪駄と、館内見取り図も添えられている。はいはいといった具合で新聞とお茶類を回収し、座卓に置いた。ついでに引き寄せたリモコンで、テレビをつける。いつものぶぃんという音がして明るくなった画面では、六時台の朝生番組がやかましく始まっていた。テレビの音で目が覚めたのか、布団の中のヨリがもそもそと這い出し、寝ぼけた顔とボサボサの髪でへなへなの挨拶をしてくる。


「おぁようごふぁいもふ」


 寝起きのヨリが発した言葉は日本語ですらなかった。


「おはようございますヨリちゃん。よく眠れたかな?」


 自分も挨拶を返し、どこぞの特務の青二才のような口調とセリフを添える。


「ふぁい……」


 寝ぼけ眼で返事を返すヨリだが、布団の上で女の子座りをし、しばらく頭をゆらゆらさせていた。一方テレビでは、相変わらずL技研で起きた事故のニュースが流れており、行方不明者もいまだ発見には至っていない様子だ。


「早く見つかるといいなぁ」


 全国ニュースで名を告げられている行方不明のおじさんはここにいた。


 家族や会社の人も心配してるだろうとは思うのだが、帰る方法が判らないのではどうしようもない。なにせここは、地球とは別の惑星と思しき場所である。明らかに地球ではないのも確かだが、それとは別にしてとても気がかりなことが一つある。その気がかりな部分を布団の上で寝ぼけ顔をしているヨリに聞いてみた。


「ねぇヨリちゃん、いまの将軍様って誰だかわかる?」


 ヨリの言動や行動あるいは服装などから、何となく昔の人を連想していたため、適当に質問をしてはみたが。年代の方をたずねるべきだっただろうか。ヨリは手櫛で髪を大雑把に整えている最中で、やっと覚醒してきたと言った感じだったが、一瞬考えた後返答してくれた。


「はい、存じております」

「なら名前とか分かる?」

「はい。お名前は徳川様です。ええとなんていうお名前だったかな……」


 きたきた。これでこの場所の時代設定は江戸時代の日本だということが確定した。いや確定したのか? なにゆえ江戸時代? 一体どういうことだってばよ。


【今、宇宙は江戸時代】


 疑問がふつふつと沸き上がる一方、脳内では有名コピーライターも噴飯物のキャッチコピーが爆誕していた。おっとどっこい過去。おっとどっこい未来である。それにしたってどうして江戸時代なのだ……。


「確か、徳川家斉様ですね」

「徳川家斉……。確か十一代目の絶倫将軍だったか」

「ぜつりん、とはなんでしょうか?」


 言ってから一瞬あかんと思ったが、すでにヨリが強い興味を持ってしまった。自分は少しだけ誤魔化し方を考えてから、遠からず適当な答えを返す。


「お、男の刀で何十人も斬ったてことかな~? 多分……」


 純粋な興味を湛えたヨリの瞳から視線を外し、そっぽを向いたまま適当な言葉で補足をする。これなら嘘は言っていないし、きっと後ろめたさも感じる事もないだろう。多分。


「刀で何十人も!? そんなに恐ろしい方なのですか!?」


 まあ当然誤解されてしまい、また騙したようで胸が痛むが、大体合ってはいるので良しとしよう。十人以上の妾に種をばら蒔いて、五十人程の子を成したというのだから、そりゃ間違いなく恐ろしい。こういった歴史上の人物などは、面白サイドストーリーの方も教えた方が確実に覚えやすいはずなのに。教科書はそういうとこにはあまり触れてくれない。徳川・スタローン・家斉ってミドルネームでも付けようものならば、知名度も鰻登りなはずだ。いや、家斉に関して言えば十分有名ではあるか。

 家斉公が当代という事は、ここの時代設定では西暦千八百年代初頭くらいだろうか。うろ覚え過ぎて怪しいもんだが、少なくとも十九世紀なのは間違いないだろう。こんなことになるなら日本史もちゃんと勉強しておくべきだった。せめてスマホがあればなどとも思ったが、ここで通信が確立できる保証もないので、あった所でどうにかなるかは分からない。それに、これ以上彼女へなぜなにと質問を投げかけても、自分が望む回答は得られないだろうし。この話はこのくらいにしておいた方がよさそうだ。

 考えごとをしながらテレビを眺めていると、テレビの横に据えられた固定電話が目に入る。よく観察してみれば、電話台の下の壁にモジュラージャックへ刺さった配線が見えたため、自分は電話機に近付いた。台の上に据え付けられた電話機の横には、パウチされた利用説明カードが添えられており、料金やルームサービスなどに関する文言が明示されている。

 “外線は〇〇番を押し、発信音が聞こえてから目的の番号を押してください。また料金は、チェックアウトの際、宿泊料と合算して別途請求させていただきます”

 目に留まった一文には宿でよく見る文言があり、その無駄にリアルな内容に心がざわつく。とりあえず受話器を取り耳に当ててはみるが、電話はまだ無音を返していた。そこから外線発信番号の〇〇番を押すと、受話器からはDTMF音が聞こえたため一応通電はされていることがわかる。そして間もなく、受話器からは待機音のツーが聞こえて来た。試しに一一七番を入力すると、聞きなれた時報音であるピッ・ピッ・ピッ・ポーンが鳴りはじめたので、回線が使えることもわかった。機能に不備のない電話機に気をよくし、続いて一七七へ掛けてみると、やや間を置いて天気予報を告げるアナウンスが受話器から流れてくる。


『気象庁予報部発表の、七月二十日、午前六時現在の気象情報を……』

「あれ、気象庁? 東京なのかこの回線……」


 いつの間にか隣に来ていたヨリが、電話機を見て不思議そうな顔をしている。受話器から漏れる天気予報は気象庁ということで、ここの回線は東京を起点にしているようだった。東京以外なら地方気象台の情報が流れるはずだ。宇宙でも東京は有名なのだろうか。ちなみに大阪管区気象台にかけると、新喜劇のBGMが流れてから、アナウンスが始まるとか始まらないとか。まあ嘘だけど。

 ならば自宅や会社にかけても通じるはず……。なのだが、今のところそれは避けなければならない。いまだ帰れる保証もないのに、生存報告なぞしようものなら、向こうがどれだけ面倒な事になるか想像もつかない。確か民法には失踪宣告というものがあって、平時なら七年間行方が分からない場合、戸籍の上では死亡扱いになるはずだ。しかし今回の場合は事故に巻き込まれて行方不明になっているので、失踪宣告ではなく死亡認定になるのかもしれない。とは言え、自分は法律に詳しいわけではないので、本当のところはどうなのかわからないが。

 何れにせよ神様の任期が十年だというのなら、日本では確実に死亡扱いになるだろう。仮に、絶対的に十年ここに拘束される可能性があるというならば、そういうことも考えておかないといけないはずだ。

 昨夜夜空を眺めた時点で自分なりに立ててみた仮説は、神様云々というファンタジックな事態などではなく、何者かの意思によって何らかのテクノロジーを用いて行われた、“誘拐行為”と考えるのが妥当だろう、というものだ。

 電話の前の自分はいやに冷静で、達観しているというか諦念というか、妙に落ち着いていた。そのせいで今後のことなどもいろいろと考えてしまうのだが、なににしても今の自分にはなすすべがない。

 実家の老朽化が激しかったため、五年前の建て替えのときに組んだ住宅ローンは、まだ三十年近く残っている。帰還の可能性が絶望的だと考えると、最低でも七年間は家族に返済を肩代わりしてもらう事になるだろう。七年が経過して自分の死亡が法的に決まりさえすれば、団体信用生命保険でローン残高がチャラになるからだ。そんなことを考えつつ電話機横のメモ帳を寄せ、それ迄の返済額を試算してみようとボールペンを手に取る。しかし思い直して手を止めた。それを今知った所でどうなるというのか。少なくともここにいる間はどうしようもない事なのだ。幸いなことに実家には妹も同居しているし、稼ぎも悪くはないので、返済や生活もなんとかなるだろう。母も倹約できる人だし、親父も退職金と企業年金が期待できる。きっと自分がいなくても大丈夫だ。しかし両親も若くはないため、この十年で病などに倒れる可能性も十分に有り得る。もしかしたら、それが元で二度と会えなくなるような事態になるかも知れないし、更に残念なのは姪っ子の高校生姿を見られない事だろうか。すでに老猫であるコガネザワ君とも、もう会う事はできないだろう。

 そこまで考えたところで自分は無性に悲しくなり、頬を伝った涙が電話機の上にこぼれ落ちる。二度と家族に会えなくなるかもしれないという酷な現実は自分には耐えがたいものだった。


「あぁ神様! どうなさいましたか!?」


 受話器を耳に当てたまま、いきなり涙を流しはじめた自分を見て、そばにいたヨリが自分のシャツの裾を握っておろおろしている。いかんいかん。あれだけヨリに泣くなと言っておきながら自分は一体何をしているんだ。


「いやー、あはは。うん、何でもないよ。ごめんね、またこんな体たらくで」


 涙を拭いながら、傍らで心配顔になっているヨリへ痩せ我慢のような苦笑を向け、丸い頭を優しく撫でながら自分は覚悟を決める。それから頬を叩いて気合を入れ直し、泣き顔を誤魔化すためバスルームへ向かう。洗面台の棚には、洗濯済みのハンドタオルとバスタオルが二組ずつ置いてあった。使い捨ての毛の密度が荒い歯ブラシで歯を磨いていると、ヨリがやってきてバスルームをそっと覗く。ヨリはユニットバスの様子に警戒しており、中に入ろうとはしなかった。自分は口をすすぎ、ハンドタオルで口元をぬぐってから恐々こわごわ覗いているヨリへ声をかける。


「別に怖いものとかいないから大丈夫だよ」


 笑いかけて言うと、ヨリはようやく警戒を解き、やや困惑した様子で中へ入ってきた。彼女はバスタブをのぞいたり、自動で跳ねあがる洋式便器の蓋にびくびくしている。


「ヨリちゃんも顔洗おうか」

「はい!」


 ひげをそりながら言うと、彼女は元気に返事を返し、どうすればいいのかたずねてくる。洗面台や歯ブラシの使い方を説明して、実演してみせると、彼女は目を輝かせ言われた通りに顔を洗いはじめた。そんな各設備を扱う彼女の姿は妙に堂に入ったように見えて、自分はまた小さな違和感を覚えた。浴槽の方へ視線を向け、軽くシャワーでも浴びようかと思ったとき。雪駄とともに置かれていた見取り図のことがふとよぎる。旅館であれば、ここには大浴場があるのではないか。そう思い、バスルームを出て見取り図を手に取った。はたして思惑通り。社には大浴場が存在し、部屋を出て右に二回折れれば、その一画へたどり着けることが案内されていた。


「よしきた。ヨリちゃん、お風呂に入ろう」

「お風呂ですか!!」


 風呂という言葉を聞いた彼女は、自分の元へやってきて遠慮がちに飛び跳ね、危険な愛らしさを振りまく。


部屋の中へ戻り、何か着替えはないものかと室内を見回す。もう案の定というべきか。積んである座布団の上には、いつの間にか四角い盆が置かれていた。中身は浴衣と帯のセットだったが、ご丁寧にサイズと人数分が揃っている。こんなもの先ほどまではなかったはずなのだが、一体いつ出現したのだろうか。自分たちの行動が逐一先読みされているような気がして、身震いしてしまう。

そういえば、昨夜寝るときに片づけていなかった座布団が、朝起きたらきれいに片付いていたっけ。ひょっとすると、ここは迷い家か何かなのだろうか。なんとも薄気味悪い事だが、ここに何かがあることは間違いないだろう。そんなちょっとしたサプライズのおかげで、取り留めのない考えがまたぞろ頭の中を駆け巡る。しかし、今は風呂へ入って頭を切り替え、そのあとで社内部の探索にでも出ればいいだろう。昨夜はできなかったからな。


「ヨリちゃんいくよー?」

「はーい」


 お風呂から出たら着るようにと、ヨリへ小さい方の浴衣を手渡し、ふたりで大浴場へ向かう。廊下へ出ると、ヨリが手をつないでくるので、自分もそれに応えるように手を握り返す。彼女は返礼とでもいいように、嬉しそうな笑みを返してくれた。こうしてふたりで歩いていると、はたから見れば親子にでも見えたりするだろうか。仮に、こんなに可愛らしくてよくできた子が自分の娘であったなら、相当誇らしいことだろう。などと思いながら隣を見ると、ヨリはずっとにこにこと笑って嬉しそうにしている。

 部屋を出て右へ二回折れ、玄関ロビーと並行に走る長い廊下を歩いて行くと、左右の壁際には交互に立派な盆栽や調度品が飾られていた。豪華で華やかな畳敷きの廊下を歩いて行くと、自分の左側にいたヨリが何やら右側へ移動してくる。その時だ。前方の生け花の盆から飛び出したまきか何かの枝が、何かに接触したようにガサッと音を立てて揺れた。それは透明な何かとぶつかったような動きだった。 


(え? 何、怖っ! 絶対に何かいるだろ!)


 声を出しそうなくらい驚いたが、撚を驚かせていけないと思い心の中で驚愕の声を上げる。もしかして、幽霊とか座敷童の類でもいるのだろうか。不可解過ぎる現象に見舞われて平常心を失いかけたが、隣ではかわいい座敷童がにこにこしていたため、窮地へ陥った蚤の心臓は直ちに癒される。

不可解に揺れた生け花から距離を取り、びくびくしながら横を通り過ぎる。特にその後は何も起こらなかったので、こっそりと胸をなでおろす。そうこうしながらなんとか浴場の入り口へ到着した。入口には伝統の暖簾のれんが掛けられているが、幅の広い入り口が一つしかない。暖簾のれんには、染め抜きの白文字で“混”と大きく書かれていた。何だか嫌な予感がするけれど、多分中で男女を分けるやつだろう。

気を取り直して暖簾のれんをくぐると、予想通り通路は左右に分かれていた。間違いなく分かれてはいるのだが……。左右の突き当りにある入口にも、同じ暖簾のれんが掲げられているではないか。如何いかに。


「これさ……ヨリちゃんは左から入ってみてくれる? 神様は右から入ってみるから」

「はい!」


 元気のいい返事を返したヨリに手を振り、二手に分かれて同時にふたつの暖簾のれんをくぐる。

果たしてふたりは同じ脱衣場へと到り、すぐさま涙の再会と相成ったのであります。それはほんのつかの間の別れでございました。

つまりだ。これは否が応でも一緒に入れということか。この社には絶対混浴させるマンがいるのだろう。まったく。


「さてヨリちゃん。なんかお風呂一緒みたいなんだけど大丈夫?」


 何がどう大丈夫と聞いたのか、自分でも分からない。それでも意思確認くらいはしておかなければ、人として駄目だろうことはわかる。


「大丈夫です! しっかりとお背中をお流しいたしますね!」


 そういう大丈夫じゃあないんだけどなあ。


「え~……はい。お、お手柔らかにお願いします……」


 はり切った様子のヨリを見て、自分は即座に覚悟完了していた。大体風呂へ誘ったのはこちらなのだから、この期に及んでやっぱやめようなんて言えるもんか。

 脱衣場の床には茣蓙ござのようなものが敷かれ、濡れた足でも滑らないようにという配慮が感じられる。壁や部屋の中央にしつらえられている棚には、バスタオルが詰まった沢山の脱衣篭が並んでおり、どこを使って構わないようだ。

早速適当な選び、服を脱ぎはじめようとしたら、ヨリが隣についてくる。試しに横へふたつほどずれてみれば、彼女もふたつ詰めてくる。あるぇ。


「あのねヨリさん」

「はい、なんで御座いますか?」

「今から裸になるに当たり、一つ問題があると思うのですが」

「問題で御座いますか?」


 なかなかに大問題ですよ奥さん。


「うん。恥ずかしいとか、その、そういうのはないですか?」


 いい歳をしたおっさんがもじもじと聞いてみるが、その絵面がすでに大問題であり、自分でもきもい。


「は、恥ずかしくないわけではないです……。ですが、これも大切なお務めで御座いますので!」


 ふぅ。これも慣れてくしかないか。


「そっか。ならこれ広げてるからさ、着物を脱いでかごに入れたら言ってね」


 自分からはヨリの裸体が見えないようバスタオルを広げ、体がすっぽり隠れるようにする。備え付けのタオルが大き物で助かった。


「お、恐れ入ります……」


 赤面して礼を述べたヨリはそそくさと着物を脱ぎはじめ、几帳面に畳んで篭の中にしまいこむ。本当にしっかり者だよなぁなどと思っているとどうやら脱ぎ終わったようだ。自分はヨリをバンザイさせて、腋のラインに合わせてバスタオルを巻き付ける。最後に端の方を左の腋付近でねじり込み、タオルが落ちないように固定した。


「ありがとう御座います」

「いえいえ、どういたしまして」


 赤さの残る顔でぺこっと頭を下げるヨリかわいい。


 彼女へ先に入っているように促し、自分も服を脱ぎ捨て、しっかり腰にタオルを巻いてから浴場に入る。用意されているボディタオルは厚さがあり面積も広いので、頼りない粗品タオルのように自分の粗品がボロンしてしまうこともなかろうって誰が粗品やねん。

 湯気がもうもうと立ち込めている浴場内は天然石が敷き詰められ、自然な凹凸を生かした作りの床となっている。浴槽は床に埋め込み式になっている木製の物で、真新しさを感じるヒノキの芳香が室内を満たしていた。壁際には鏡とプッシュボタン式の蛇口があり、シャンプーやボディソープも備え付けられている。蛇口のある壁の反対側には一面がガラス張りの窓があり、オレンジ色の雲海のような景色が広がっていた。風景だけを見れば、この浴場は数千メートル級の山の上にでもあるのかと思ってしまいそうだが、別段山などは見えなかった。あれは一体どこの風景なのだろう。


「……とにかく謎しかないな」


 あちこちを見て回っては、はしゃぐヨリを横目に、自分は手近な蛇口前に腰を下ろし、ボタンを操作する。蛇口からは少し熱めのお湯が出てきたので、一度洗面器にためてから掛け湯をした。熱い湯を浴びると、随分と久しぶりに風呂に入るような気がしてとても気分がいい。続いてボディソープをハンドタオルにとり、軽く泡立ててから胸や腕をゴシゴシやっていると、後ろの方からペタペタと足音を立ててヨリがやってくる。


「お背中お流しいたしますね」


 背中に立ったヨリがそう言うので、泡まみれのハンドタオルを手渡す。


「では、よろしくお願いします」

「はい! お任せくださいっ!」


 元気よく言うと、彼女は意外に強い力で背中をゴシゴシ擦りだす。誰かに背中を流してもらうのなんていつぶりのことだろうか。幼いころは、よく父親と風呂に入って背中の流し合いをしたものだったが……。ここでもまた懐かしい思い出がよみがえってきて、しんみりとした気持ちになってしまい泣けてくる。これではいけないと、それ以上考えるのを止めようと思ったとき、「力加減の方はいかがでしょうか?」と、ヨリがまるで三助さんのように気遣いの言葉を掛けてきた。なんて言っても、三助さんに洗って貰った事なんて一度もないんだけどね。


「うん、すごく気持ちいいよ~。上手だねヨリちゃん」

「えへへ。実はお父様のお背中もよくこうして洗っていたので御座いますよ」

「へぇ~。親孝行な娘さんを持ってヨリちゃんのお父さんは幸せ者だ~ね~」


 そういうと、ヨリは少しだけ黙ってしまった。そこで自分もまた父親のことを思い出してしまうが、その思い出は切ない気持ちと共にすぐ頭の隅へ追いやった。


「神様は……神様は幸せでしょうか? 私はきちんとお世話できているのでしょうか……」


 自信無さ気なヨリは、抑えたトーンで自分の現状を憂うような言葉を投げかけてくる。思えば、お互い家族と離れ離れになっている状況であることに改めて気づかされ、ハッとなった。この年で親元を離れるのは相当辛いはずなのに。岩山で出会ったときから、この子はずっと人の心配ばかりをしているのだ。


「ヨリちゃん。ゆうべさ、星空の話した時に神様の家族のこと聞いてたよね」

「はい……。あ、差し出がましいようで御座いましたら……」

「ううん、全然そんなことないよ」


 昨夜は時間的な事情もあって、適当に流してしまった話だったが。自分は改めて両親と妹のことや、姪や飼い猫の話を面白エピソードなども交えて話して聞かせた。また話をしながら、自分でも家族との関係を少し振り返ってみる。不仲でこそないものの、年齢を重ねるにつれて会話もめっきり減ってしまい、近頃では食事時以外に団欒の機会もなくなっていた。ルーチンワークのように、ただ出勤しては帰宅して、飯を食べて寝るの繰り返しだった日常に今更ながら後悔する。家族との触れ合いをもっと大事にするべきだったのだ。


「神様も人間も家族は大切で……。掛け替えのないものなのですね」


 離れ離れになってから、改めて大事な存在だと気づかされ、情けない気持ちでいっぱいになる。こんなことになるならば、もっとたくさん話をしておけばよかった。実に馬鹿げた話だ。


「ときに神様は奥方様はいらっしゃらないのですか?」

「プギッ!」


 とんでもないとこから飛んできたパンチに不意打ちを食らい、鼻水が噴出する。なんて恐ろしい子なのヨリちゃん……。


「あ~……まぁ、お嫁さんはいないけど。昔お付き合いしてた人はいたよ……うん」

「そうなのですか!? どのような方だったのでしょう? さぞや素敵な方だったのでしょうねぇ~」


 横合いから目をキラキラさせて、さらに強烈な二発目を容赦なくぶっ放すヨリ。この話止めませんか……?


「そうだね。素敵な人だったのは間違いないね……。それよりも、ヨリちゃんこそ村に好きな子とかいなかったの?」


 いい歳したおっさんがむきになったように、子供相手に全力でカウンターを放って距離をとる。


「私にはおりませんでした」


 なんてこったい、掠りもしないじゃないか。


「ああ、そう……。ま、まあそんなことよりも、ヨリちゃんの背中も流してあげるから」


 彼女の背後に後ろに回り込み、巻かれたバスタオルを毟り取って幼女を丸裸にする凶悪犯がいますよお巡りさん。


 奪い取ったボディタオルで背中を洗いはじめると、彼女はけたけた笑いだして身をよじってしまう。ヨリはくすぐったがりらしく、さらに追い打ちをかけるように腋とお腹もゴシゴシすると、前屈みになった彼女は「うひゃひゃ」と激しい抵抗をはじめた。


「もひぃぃひひやめてえひひひゃぁぁああい」


 笑い過ぎて、まともに言葉を発することもかなわず、彼女は身を捩りながらじたばたと暴れまわる。あまりくすぐったがりを弄り倒すのも良くないので、頃合いを見て洗面器にためておいたお湯を頭からザバっと浴びせ、おじさんの三助さーびすは終了となる。


「ひゃーっ」


 突如頭上からに湯が降ってきたためヨリはかわいい悲鳴を上げる。こうしてできた隙を見計らい、おじさんは浴槽へ逃げ込んだ。


 濡れて張り付いた髪をまとめ、ボディタオルで鉢巻き状に頭へ固定し、バスタオルを体に巻きなおしたヨリは、遠慮がちな抗議の言葉を発しつつ、浴槽へ浸かりにやって来る。頭に巻いたタオルのおかげで、彼女はすっかりいき鯔背いなせな感じになっている。本当はタオルを湯につけるのは良くないのだが、どうせふたりしか使わないから構わないだろうし、特に注意書きなどもないので、気にしない方向で行くことにした。浴槽のふちに両肘をかけて寄りかかっていると、そろりと寄ってきたヨリが背中を向けて胡坐あぐらの上に座り、体を預けてきた。無礼や不敬などといった行動に対し敏感な彼女にしては、随分と大胆だ。そう思っていると彼女が意外な言葉を口にする。


「神様……。私はこれからもちゃんとお世話を致しますので……たまにこうして甘えさせていただいてもよろしいでしょうか……?」


 彼女の顔がやけに紅潮して見えるのは、熱めの湯のせいだろうか。特に耳などは熟れたリンゴのように真っ赤になっている。


「うん、いいよ。たまにじゃなくて毎日でも。ヨリちゃんが甘えたいときはいつだってかまわないよ」

「ありがとう御座います」


 その後はゆっくりと湯に浸かり、満足のゆくまで風呂を堪能した。しかし、許容量の小さいヨリがのぼせてしまったため、彼女を抱えて慌ただしく浴場を出る羽目になった。こうして初めてのお風呂イベントはつつがなく終了を迎えた。

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