6 陸 ~ 宇宙の海は星の海 ~

「部長、昨日来てた修正作業依頼の件、どうなりました?」

「あっ! 忘れてた。つつみんに言うの」

「ちょ……。酷くないですか?」


 二日前に自分が仕上げて出荷した製品に不具合があり、返送するので直してほしいとの依頼が、発注元からメールで届いたのが昨日。自分が直接担当していた事もあって、やらかしたーと凹んでいたのだが……。今日届く予定のソレが午後になってもまったく届かないため、部長のとこに確認に来てみればこんな感じだった。もう。


「つつみんのじゃなかったってよ、あれ」

「ええ~。じゃあ他所で受けたやつですか?」

「そう。ロット確認したら違ったって。さっき担当さんからごめんなさいメール来てたよ」

「じゃあ今日はもう?」

「うん、増えないね」

「あ~よかった。今組んでるやつもカツカツだから正直どうしようかと思ってたんですよねぇ」

「あ、ほんと? そりゃよかったねぇ」


 いや、決して良くはないのだけど。


 どうやら、別の外注さんが受けたロットの方で見つかった不具合らしく、担当さんもあわてて運送屋さんを呼び戻したりと、バタバタしていて連絡が遅れたらしい。とはいえ、自分はただ荷物を待ちながら仕事をしていただけだから何も問題なかった。それからしばらくすると、定時頃にメールの担当さんがやって来て、お詫びと言いつつ干芋を箱で置いて行った。干芋は自分も結構好きだが、事務の女子社員にはもっと評判が良かった。それはそれはとても幅広い年齢層で。


「つつみんさあ、今の仕事が終わったら少し俺の方手伝ってくれないかな?」

「いいですけど。いまどこやってるんですか?」

「L技研」

「ああ。はいわかりました」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 翌日。過酷な環境では、高耐久な業務用機材であってもせいぜい五年程度で寿命を迎えるため、ここL技研では大体そのくらいのスパンで、設備改修が入るのだ。午前中の作業もひと段落ついて少し片づけをしていると、部下の一人がブースに入ってくる。


「課長~。お昼どうします?」

「あれ? ぶっちょさんは?」

「なんか技研の人と行くらしいですよ」

「なんだ~。誘ってくれりゃいいのに」


 どうせ行くなら一緒に行けばいいのにと、非難の言葉が自然と漏れる。


「いや~行かなくて正解だと思いますよ? 一緒に行くの深谷ふかやさんとですもん」

「あ~そうなんだ。まあ、言ったら俺もあの人苦手だからなあ。悪い人じゃないんだけど」

「そうそう圧がすごいですよね、圧が。あとなんか偉そうだし」

「お前はまた。そゆこと他で言うんじゃないよ?」

「そりゃ他所では流石に言いませんて~」


 怪しいもんだぞ。


「あ~、じゃあ部長も気を使ってくれたのか。後でお礼言っとかなきゃな」

「え? ああ、なるほど。んじゃ、昼は寿司でいいですか?」

「いっつも軽いよねぇお前。まぁいいよ、お前の奢りなら」

「えーっ? じゃあうどんで……」

「冗談だよ。いや本当何でもいいよ。今回は領収書切れるし」

「まじですか? やったぜ!」


 間違いなくタダ飯タダ酒は誰でも嬉しい。


 出張初日の昼食は、団地からほど近い近所の定食屋になった。自分はカキフライ定食を頼み、部下はミックスフライでいろいろ試していた。昼食を終えて店を出ると、「揚げ物なら大体何でも外れはない」と結論付けてご満悦の様子だったが、何よりもタダというのが最高のスパイスだと思う。帰り掛けにコンビニへ寄って、五百ミリペットのお茶を買い、近くにある緑地公園の駐車場に車を止めて昼寝をする。こういう時、社用車での出張は気楽でいい。日中の直射日光を避けるため、できるだけすみっこの木陰に車を寄せてシートを倒して横になると、隣でも部下が同じような恰好で窓から足を突き出し、帽子を顔に載せて横になった。


(定年までこんな感じでもいいのかもしれないな……少なくとも住宅ローンは返せるし)


 ぼんやりとそんなことを考えつつ、自分も帽子を顔にかけ眠りにつこうとした。しかし、しばらくすると横にいた部下が何やらもぞもぞと音立てはじめ、いきなり自分の腕を掴んだかと思うと身を寄せてくるではないか。


「なんだよ? え? ちょ冗談だろお前? おいやめろ! どこさわ!」


 部下は股間に自分の腕を挟み込み、荒い息遣いで腰をもぞもぞと動かす。ここは背徳の町ソドムだろうか。こちらは男の体になど興味はないというのに。


「まじでやめて! 僕の心を汚さないで! ああ汚れちゃう僕のピュアマインドが! 汚されちゃうー!」


 振り絞るようにして、盛りのついた犬のように腰を動かしている部下へ声をかける。だが、部下は行為を止めることはなく、やつの腰はますます勢いを増してゆく。なにこれ怖い……。


「おい、ほんとにやめろつってんだろ! やめろやぁぁっ!!」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 何かを叫んだ自分の声で目が覚めた。なんだか物凄く嫌な夢を見たような気がして首を浮かせると、首周りにはじっとりと嫌な汗をかいていた。すでに夢の内容は思い出せないが、思い出さない方がいいと本能が警鐘を鳴らしているような気がした。気が付けば、どこかで見たことのある木目の天井が目に入り、和風な感じのシーリングライトが煌々こうこうと灯っている。こりゃあまぶしい。


「ふぁ……。なんだっけ? ここどこだっけ?」


 あちこちごわつくと思ったら、作業着のまま畳の上で寝ていたらしい。布団はきちんと被っているものの、なぜか寝る前の事が思い出せない。硬い畳のせいで背中が痛いと思っていると、岩場で寝ていたときの記憶が不意によみがえってきた。嫌なことを全て思い出した自分は、浮かせていた頭をまた枕に落とし、またぼーっと天井を眺めた。夢ではなく、明晰夢でもなく。まぎれもない現実。にわかには受け入れがたいその事実に、陰鬱な気持ちになる。そういえば、あのニュースを見てからどのくらい時間が経ったのだろう。今は手持ちの時計がないから、ぜんぜん時間が分からない。思い起こせばスマホもセキュリティへ預けたままだった。


「どっきりか何かなのかな……。素人相手に? まずないよな」


 日本のテレビ番組が見られて、文化形態の一部を見る限りでも、高い確率でここが国内であるということは想像に難くないし、そうであるとしか思えない。だがそれだけしかわからない。何者かが自分に対してこんな状況を作り出していたとして、一体何が目的でどんな利益を得るというのか。色々と考えてはみるがなにもわからない。わかるわけがない。


「親切な誰かがヒントをくれるわけでもないし。こんな状態で考え込んでもエネルギーと時間の無駄でしかないか。まぁいいや。バカバカしい事はやめてふて寝しよ……」


 人間、あきらめが肝心である。

 

 畳の上に直に寝ているため腰や背中が辛く、あおむけの状態からゆっくり体を右に捻ろうした。そのとき布団の中の異変に気付く。右手の甲側に何やら暖かで柔らかいものが密着していて、自由が利かないのだ。つられて右を見ると、布団の隙間からは艶やかな黒髪の束が生えており、枕の上で広がっている。それにより状態は判明した。だが状況は全く理解できず、なぜこの子は一緒の布団で寝ているのかと疑問に思うばかりだ。

 黒髪の広がった枕元に目をやると、上品な茶染めの着物が奇麗に畳んで置いてある。そこで自分は、高台の上でヨリを初めて目撃した時のことを思い出し、状況を整理する。岩陰からこちらの様子を窺っていたときや、立て看板の所であほな冗談を言ったおかげで、この子が着物を脱ごうとしていたとき、着衣が一重の着物であることは確認していた。相変わらず布団の中では手の甲がふにふにと温かく、肘あたりにかかる圧力が周期的に増減している。恐らくこれは、呼吸に合わせて体積を変えるヨリの胸部が、腕を圧迫しているためだ。非常に困ってしまう。状況証拠からの判断ではあるものの、今のヨリがどういう状態なのかが確実にわかってしまったからだ。


「ヨリちゃん、起きてるかい?」


 声を掛けてしばらく待ったが、彼女からの返事はい。布団のふちに耳を傾けると、彼女は深くゆっくりとした寝息を立てていた。


「ありゃ~。これは熟睡モードだなぁ……」


 小声で呟き体勢をあおむけに戻す。

 

 まぁしかたがないだろう……。どうせふて寝するつもりだったのだから、このまま何も見なかったことにして二度寝してしまおう。うんそうしよう。朝になればヨリの方が先に起きるだろうし、そうしたら何も知らないふりをして、とりあえず二人で朝の散歩にでも出かけよう。そんなことを考えて、まんじりともぜずにうつらうつらしていると、右腕の辛さに意識を引きもどされ一気に覚醒してしまう。布団の中では、長らくヨリの体に伸し掛かられている右腕が、血流を阻害されて冷たくなっていた。その辛さに耐えかねてできるだけそっと位置をずらすと、徐々に腕の血行が戻り、それとともに猛烈な痺れがやってくる。この状態になってしまうと、少しでも腕を動かせば恐ろしく辛いしびれに襲われてしまうことだろう。実際は少しも動かさなくとも辛いのだが。


「ああ、これは寝違えたときのあかんやつだ……」


 長らく畳の上で横になっていたため、右腕以外もそこかしこ痛いし、全身がだるくてちっとも寝ている気がしない。また、彼女に遠慮をして寝返りを打てないことが辛さに追い打ちをかけていた。相変わらず時間の感覚も曖昧なままなので、時計を見ようと強引に首を曲げてあお向けで真上を向くような格好になり、床の間の方を覗きこむ。やっとのことでギリギリ見えた置時計の文字盤は、十時くらいを指していたが、それが午前なのか午後なのかまではわからなかった。

 安楽いすが置いてある広縁の窓を見ても、障子が閉じているため外の様子はわからない。それにここから見た限りでは、障子を通して外の光が入って来ているという事もなさそうである。業を煮やした自分は、布団を出て障子を開きに行くべくそっと身をひねるが、突然痺れた右腕をきゅっと掴まれたため、うっかり声を上げそうになる。そこで、布団を少しめくって中の様子を確認しようとすると、腕に抱き着いていた彼女が、小さく声を上げた。


「きゃ」


 腕にしがみ付きながら頭を奥へ引っ込めたヨリは、やはり全裸だった。


「あ、いや、ごめんよ」


 謝辞を述べつつ布団を元に戻して続ける。


「おはようヨリちゃん。お布団かけてくれてありがとう。畳痛かったでしょ? 神様も背中と腰が痛くってさー」


 それ以上に右腕が、ってこれはもういいか。


「お、おはよう御座います神様。お、御加減はいかが……でしょうか?」


 布団の中からは、自分を気遣うヨリのくぐもった声がしている。ここでふと自分が倒れたことを思い出した。


 目が覚めた時にはきちんと布団がかけられていた。一緒に寝ていたヨリの様子からも、彼女が突然倒れた自分を介抱してくれた事は、容易よういに想像ができる。この子は本当にいい子だ。


「もうばっちり。ヨリちゃんのお陰ですっかり良くなったよ。心配かけてごめんね」

「いいえそんな……。でもほんとに……本当に良かったです……」


 祈るような口調でそう言った様子からも、彼女にはだいぶ心配をかけてしまったようだ。幼い彼女へ気苦労をかけたことを申し訳なく思い、しんみりしてしまった。が、そこで忘れかけていた目的を思い出し、ヨリにうかがいを立てる。


「あーと、ヨリちゃん。ちょっと神様お布団から出たいんですけど、いいですかね?」


 ヨリがなぜ全裸で一緒の布団に寝ていたのかは後で聞くとして。


「あ、はいどうそ! 私も起きますので!」


 ヨリはそのまま布団から出てこようとするので、自分は即座にたしなめる。加えて着物を着るように促した後、布団を抜け出して広縁に向かい、居間とを仕切る障子戸を閉めた。そのまま踵を返し、向こう側に窓があるであろう縁側の障子を片方だけ開いてみる。しかし、そこにあったのは客室内と同じ宇治色をした京壁だった。ここは岩屋の中だし、何となくそんな気はしていた。けれど、実際にそうだと分かるとがっかりしてしまう。これはもう部屋の外に出て確認するしかないだろう。


 自分は肩を落として窓のない障子を閉めて振り返る。そのタイミングで仕切り側の障子が開き、着衣を終えたヨリが顔をだす。


「どうかなさいましたか?」

「うん。ここから外が見えるかと思ったんだけど、ご覧の有用だったんだよね~」


 壁だった方の障子を少し開けてみせると、「まぁ」と少し驚いた顔になるヨリ。


「なもんで、ちと外に出て今の時間を確認しようと思ってさ」

「じかん? ですか?」

「え~と……刻限?」

「あ、なるほど! 神様の世界では、刻限を時間と呼ばれるのですね!」


 なにゆえか目を輝かせて感嘆するヨリ。


「うん、まぁそんな感じだね」


 現在時刻は十時十一分。少なくとも置時計の針はそう指していた。倒れたのが十七時過ぎくらいだから、もし今が午後だとすれば、ちゃんと布団を敷いて本格的に寝る用意をしないといけない。

 「ご一緒いたします」と申し出たヨリと、連れ立って部屋を出ようとしたところで、待てよと思い直す。別にわざわざ外へ出なくても、テレビがあるんだからつければいい話じゃないか。どうやらまだ調子が良くないらしく、上手く頭も回っていないようだ。無言で座卓に戻り、再び座布団に座ると、あれ? というような感じでヨリも向かいの座布団へ座った。


「あの、神様?」

「ああ、うん、ごめん。ちょっと寝ぼけてたみたい」


 あははと一人乾いた笑い声を放つと、ヨリもつられてにっこり笑う。エブリタイムかわいい。


「さてリモコンは、と……」


 先ほどまでは、座卓の上にあったはずのリモコンが、今は手近なところに見当たらない。困惑しながら方々へ目を向け座卓の下を覗くと、テレビ台の下あたりで無造作に放り出されたそれを発見する。自分は四つん這いで座卓を迂回し、手にしたリモコンをテレビの方へ向けると、突然「だめーっ!」と叫んだヨリが両手を広げて立ちはだかった。


「なんでぇー!?」

「いけません神様! これは悪い箱で御座います! また神様のお体に何かあれば私は申し訳が立ちません!」

「どゆことー!?」


 するとヨリは、自分が倒れた時のことを必死に説明しはじめた。先刻、自分がテレビをつけて少ししたら倒れ込んでしまったので、その理由はテレビにあると思ったらしく、自分もおぼろげながら倒れる前の記憶がよみがえって来た。言われてみれば、確かに倒れた理由はテレビの放送内容だった。これではヨリが慌てるのも無理はない。

 今のところ詳しい事は話せないものの、テレビ自体が原因ではないことを一生懸命説明すると、渋々ではあるがなんとか退いてもらうことができた。気を取り直して再びテレビをつけようとすると、ヨリが自分の背後へ回り込み、小さくなってテレビから隠れようとした。まるで掃除機を怖がる猫のようである。このままテレビをつけても、この子は怖がって画面を見ようとはしないだろう。そうなると誤解を解くのも難しくなるため、彼女にはしっかりと視聴に付き合ってもらう。

 自分は立ち上がり、部屋の隅に積まれた座布団を囲うように挿してあった合板製座椅子を、一つ引き抜いた。そうして座卓へもどってそれに座り、また後ろに回り込もうとしているヨリを捕まえて胡坐あぐらの上に座らせる。顔を耳まで真っ赤にしたヨリはぎこちない動きで振り返り、自分の顔を見上げて「ええーっ??」というような表情をしていた。そんなヨリにウインクを返し、両掌で頬を挟んで前を向かせる。その上で頭の上にあごを乗せ「ヨリちゃんはおとなしく座っててください」と言ってテレビの電源を入れた。

 ぶぃんという消磁回路の音と同時に、スピーカーからは喧しいくらいの音声が飛び出したため、慌てて音量を下げた。どうやら倒れる前に上げたボリューム設定のままだったらしい。ゆっくりと明るくなる画面を見ていると嫌な予感は的中しており、まんまと夜の番組がやっていた。


「なんてこった」

「へ? えっ? えっ?」


 あごの下でオロオロしているヨリは、困惑した声をあげる。また、自分の方を向こうともしているようだが、断りなく頭を動かしていいものか、考えあぐねている様子だ。出会ってまだ半日も経っていないのに、幼気いたいけな少女を手玉に取って膝上で弄んでいるとは。本当に悪い神様である。まあその前に裸で同衾どうきんしていた事の方が余程問題ではあるが。

 というわけで時間を照らし合わせてみると、ここの時間と元の場所の時間はほぼ一緒のようだった。つまり、自分がここへやて来てからすでに七時間ほど経過していることになるだろう。やはりここは日本国内のようだ。


「よし、寝よっか」

「ええーっ!? 今しがた起きられたばかりでは!?」


 まさしく。ついさっき起きたばかりでもう寝るのかとヨリは驚いていたが、今はまだ午後十時過ぎ。本来夜はいい子も悪い子も寝る時間である。


「中途半端に寝ちゃってなんだけど、ええと何時になるんだ……子丑寅……とにかくまだ全然夜なんだよね~」


 説明のためどうにか昔の十二辰文字盤を思い浮かべるが、うろ覚えすぎて判然としない。


「そうなのですか!?」

「うん、間違いないよ。きっと外は真っ暗だね」

「えーっ!?」


 口癖だ。


「岩屋の中じゃ外も見えないし、短い間に色々ありすぎたし。時間の感覚がどっか行っちゃうのも仕方ないよね」

「確かに……そうで御座いますね」


 そういう意味では、幼いヨリのほうが遥かに精神的には堪えているはずなんだよなぁ。それでもしっかりしてるヨリの様子に、おじさんは感動を禁じ得ない。


「なので、ちゃんと布団を敷いて今度こそまじめに寝ましょう」

「はい! 只今ご用意いたしますので、少々お待ちください!」


 ヨリはそう言って立ち上がり、ちゃっちゃと押し入れから敷布団を引っ張り出して、寝床の準備をはじめた。自分は座卓の上を片付けて、用地確保のために端の方へそれを寄せる。


「ちょっとトイ……厠へ行ってきます」


 せっせと布団を敷いているヨリにそう言い残して部屋を出る。


 この部屋にはトイレ一体型のユニットバスが付いているようだが、トイレは単なる口実で、外を覗いてから社内を軽く探索しようと思っていたのだ。このひよこの間は角部屋のため、玄関が非常に近く、ロビーエリアを抜ければ外への出入口は目と鼻の先である。とは言っても玄関がだだっ広く、扉までは結構距離があるのですぐに外へは出られないが。

 キレイに揃えられていた安全靴を履いて見すぼらしい引き戸へ向かい、ぐいと力を込めて少しだけ開けてみる。クソ重たい引き戸の外はすっかり暗くなっており、やや上に視線を向ければ満天の星がうかがえた。いや、満天過ぎる。なぜならその星空には、過密と言えるほどの星々が所狭しとひしめき合い、例えるならば、空全体が天の川のようになっていたからだ。そしてそれは恐ろしく明るい光を放つ天の川であり、何より驚いたのは、肉眼で大小の銀河さえもが見えている事だ。


「まじか……」


 とにかく普通ではなかった。星の数が多すぎて、さほど目を慣らしていなくとも満月の夜よりずっとよく辺りが見える。あまりの光景を目にしたことで居ても立ってもいられなくなったおじさんは、子供のように岩屋を飛び出し、海岸目掛け一気に走り抜ける。桟橋のあたりまで来たところで振り返ると、島の陰になっている部分以外のほぼ全天が視界に収まった。そこに見えた驚愕の光景は、地球ではないまったく知らない場所の星空だった。当然知っている星座などあるはずもなく、見えている星々のほとんどが、マイナス等級かと思われるほどの明るさを誇っている。それ以下の星は、明るい星の光害によって肉眼では見ることができないだろう。もしかすると、電磁波観測でも帯域が埋め尽くされてしまい、詳細な観測は困難かもしれない。星空がまぶしいなどと感じたのは後にも先にもこれが初めてだ。


「一体あと何回……俺は驚かされるのだろうね……」


 思い返してみれば、昼間は一体何に照らされていたのだろう。太陽を見ただろうか。日差しは感じていただろうか。自分やヨリに影はできていただろうか。根拠もなく夢の世界だからとたかをくくり、周囲の観察を疎かにしていたことを今更ながら少し後悔する。

 絶景を誇る空から視線を水平に戻すと、波打ち際のラインに沿って、何やらぼんやりと光るものが転々と並んでいるのが目に入る。周囲を見回し、一番近くにあった発光物に恐る恐る近づくと、それは全体が燐光を帯びた四角錐の物体だった。恐々手で触れてみると、そこにはよく知った感触がある。それは、社の玄関先で各部を触れたときのあの感触だ。

 触れた瞬間、表面温度が手のひらの温度と同調するとでもいうか。温かいでも冷たいでもなく、ただ触れているだけの感覚である。目を凝らしてみれば、海底にも同じように光る物体が等間隔で並んでおり、桟橋と同じラインで対岸の村へ向けて一直線に続いているようにみえる。本当にこの島に来てからそこいら中わからないことだらけだ。しばらくあたりを見回していたが、いくら星空が明るいとはいえ流石に昼間ほどの見通しは効かない。そうなれば、これ以上新しい発見が得られるとも思えない。

 そろそろ社へ戻ろうかと思っていると、開け放してきた引き戸からヨリが出てきた。彼女は少しの間辺りを見回していたが、自分を見つけると何事かを叫びつつ一目散に駆け寄ってくる。しかし途中で何かに躓いたようで、派手に砂浜へ転んでいた。


「あいたぁ」


 漫画かな。


 やや離れた場所から気の抜けた悲鳴が聞え、緊張気味だった自分の気持ちは穏やかなものへと変化する。しっかりしているようで、実はドジっ子なのだろうか。


「ヨリちゃん大丈夫かい?」


 早足に彼女へ近づき、怪我などをしていないかざっと確認しながら、着物に付いた砂を払い落してやる。


「あ、有難う御座います。とんだお手数をお掛けいたしまして……っ、ではなくてですね! お布団を準備してお待ちしていたのに、一向に戻っていらっしゃらないので、私途方に暮れてしまいました。一体このようなところで何をなさっているのですか?」


 ヨリは遠慮がちにぷんすこしているご様子だった。マジヤバかわいい。


「これはどうもすみませんでした」


 自分が深々とお辞儀をして謝罪をすると、謝られているヨリのほうがもっとペコペコしはじめる。いちいちかわいい。


「いやね。少し外の様子を見に玄関から顔を出したら、あまりにも星がきれいでさ。つい年甲斐もなく走っちゃったよ。ほんの出来心です。申し訳ない」


 自分の言い訳を聞いて、ヨリは何やらポカンとしている。


「神様はお星様がお好きなのですか?」

「んん? いや、特に好きというわけではないけれど、故郷とは随分と見え方が違っていたからね。びっくりしちゃって」


 自分がそういうと、彼女は”故郷”という言葉に強い興味を持ったようだ。その証拠に興味津々といった表情で鼻息を荒くしはじめ、自分が住んでいた場所や家族、配偶者などについて矢継ぎ早に質問を捲し立ててくる。このまま行くと収拾がつかなくなりそうだ。


「ちょいと待って~。そんなにいっぺんに聞かれたら神様の限界超えちゃうよ~」


 随分とマージンの狭い神様もいたものだが、自分はヨリの興奮を押さえようとお茶を濁すことに躍起になる。


「はっ、そうで御座いますね。申し訳御座いません」


 そう言ってヨリはぺこりと頭を下げる。


 勢いからしてもっと食い下がられてしまうかと思っていたが。ヨリはとても聞き分けのいい子なようで、それ以上の追及を受けることはなかった。


「うん、まぁ今夜はもう遅いからさ。お話しはまた今度にしようね? いい子はとっくに寝てる時間だよ?」


 子供の夜更し絶対ダメ。お子様の健やかな成長には十分な睡眠が必要不可欠である。


「はい。ではお社に戻るといたしましょう」


 幼気いたいけな女の子に手を引かれ、夜の浜辺をねり歩く怪しいおじさんがいる。この島の治安はどうなっているのか。

 部屋へ戻ると、真ん中にはきちんと布団が敷かれていたが、なぜかそれは一組しかなかった。不思議には思ったが、時間も遅いのでそそくさと服を脱いで、トランクスとTシャツ姿になる。かたわらでは、なにやらヨリがこちらを見ていた。


「んん? どしたん?」

「あ、いえ、なんでもありません」


 どういうわけかヨリは落ち着かない様子。どこか居心地の悪そうな……。


「そうですか」


 風呂に入りたかったなと思いつつも、今日は遅いのでとっととオフトゥンに潜り込む。すると、今しがた無造作に放り投げた作業着をヨリがひろいはじめ、大事な物でも扱うようにして、丁寧に膝の上で畳みはじめるではないか。あーこりゃいけない、今後はもっと気を付けないと、またヨリに余計な手間をかけてしまう。そんな彼女の真心を見てないふりでやり過ごし、心のなかでありがとうとお礼を言って、頭まで被った布団の隙間から彼女の行動をさらに観察する。背筋を伸ばした状態で小さく正座をして、自分の衣類を畳んでいる彼女の姿は、なんだか母親のように見えた。やがて服を畳むのを終えたヨリは、やはり着物を脱ごうとする。そこでちょいとお待ちなさいと彼女をたしなめ、起き上がった布団の上に彼女を呼んだ。


「はい、ヨリちゃんそこにお座りなさい」

「はい」


 布団の足の方にヨリを座らせて、自分は頭側に腰を下ろす。その際あっと思って股間に枕を乗せた。胡座をかくことで大開放されたトランクスの裾より、稲荷神がご降臨あそばされるのを食い止めるためだ。


「そんで。ヨリちゃんはあれかい。裸じゃないと寝られないのかい?」

「はい。私は裸でなければ寝ることができません」


 流行りの健康法か何かかな。


「う~ん。念のために聞くけれど、それはヨリちゃんが自分で考えて、好きではじめたことなのかな?」

「いえ、これは供物のしきたりで御座います」

「ほうほう、それ詳しく聞かせてくれるかな」


 おじさんはやけに興味津々だった。


「はい。神様への供物となった娘は、神様がお休みになられる時、必ず同衾しなければなりません。そしてその際には、着衣することは許されず、必ず裸で床に就き、あとは神様に身を任せなければならない決まりになっております」


 聞いているこちらが赤面してしまいそうな内容を、年端もゆかない少女が誰はばかることなく淡々と、そして堂々とした面持ちではっきりと、しっかりと語ってくれた。たいへんおいしゅうございました、ごちそうさまです。ではないのだ。


「ほう、実に興味深い……。じゃなくてねヨリちゃん。今言った事の意味を一から十まで全部わかって言っているのかな?」

「ええと……神様と同じお布団で一緒に裸で寝ると、何か私にご褒美がいただける……ので御座いましょうか……?」

「いいえ。神様と同じお布団で一緒に裸で寝ると、何か神様に大変な凄くご褒美です」


 残念なことにヨリは半分もわかってなかった。


古代の神事には、生贄とか人柱とか生々しいやつがあるよね。時々ドスケベだったりもするし。つーか神様こらーっ! だめでしょーこんな子供にそんな事させたら! 大体最初の雨神様って女神じゃなかったんかい。百合なのかい!? 憤慨ふんがい


「えー、ヨリちゃんへ神様から残念なお知らせがあります」


 残念なのは主に自分にとってかも知れないが、ここは一つ断りを入れておかなければなるまい。大体小さな女の子と裸で寝ても嬉しい事なんてないし。ある……ないし。


「はい……?」

「今後一切、裸で寝ることを神様は禁止します」

「えーっ!?」


 このかわいいリアクションにもそろそろ慣れてきた。


「ですが、しきたりは絶対に守らなければいけないと祈祷師様が……」

「だめです」

「ええーっ!!」


 もうえーっていうかわいい玩具みたいになってきた。正直かなりほしい。言い値で買い取ろう。


「ヨリちゃんは供物なんだよね?」

「そうで御座います! ですので――」


 半ば意地にでもなっているかのように、ヨリは頑なな態度でしきたりに従おうとする。だが、そんな彼女を制して自分は続けた。


「ヨリちゃん落ち着いて。まずは神様の話を聞いてほしい」

「はい……」


 釈然としない様子ではあるけれど、聞き分けはとてもいい子である。


「ヨリちゃんは供物なので、それは神様の持ち物と同じって意味だよね?」

「はい」

「じゃあ神様の言うことは、絶対に聞かなくちゃだめだよね?」

「はい」

「ならしきたりよりも、神様の言うことのほうが大事だよね?」

「……もちろんです」


 よかった……ここで譲ってくれなきゃどうしようかと思ってた。


「そしたら神様の言うこと……これから裸で寝るのは禁止というのも聞いてくれるよね?」

「……はい」


 渋々といった調子で、ヨリは小声の返事をする。そんな残念そうにされてしまうとは意外だ。


「なら、よろしい。とりあえずそれ以外のことはヨリちゃんの判断に任せます」

「はい。うけたまわりました」

「うんうん。それとさ……なるべくなら一緒に寝るのもやめてほしいのだけど」

「えっ……」


 そう続けると彼女は物凄く悲しい顔になり、見る間に涙を溜めてゆく……。


いやいや、これは泣くほどの事なのか。しかし、ここは心を鬼にしてダメ絶対を突き通す。


「神様がそうおっしゃるのであれば……そういたします……」


 オロオロと逡巡していたヨリは、弱々しい声で呟いた。うおぉ胸が痛いストレスで毛根もやばいまじでハゲそう。


 彼女はまだ子供ではあるけれど。十二歳ともなれば、昨日今日出会ったばかりの見ず知らずの異性と、床を共にしていいわけがない。これは至極正しい判断なのだ。男女七歳にして席を同じゅうせず。昔の人もそう言っていることだしな。ペッ。

 すっかり消沈してしまったヨリは、並べられたふたつの枕の一方を拾い上げる。それから、隅に積んである座布団の山をズルズルと引っぱってきて、敷かれた布団の隣に整然と並べはじめた。


「え……。ヨリちゃんなにしてるの?」


 不可解な行動に疑問を抱き、この世の終わりのような顔でのそのそと座布団を並べているヨリへ声をかける。押し入れにはまだ布団が入っているだろうし、わざわざ座布団を並べて寝ることはなかろうに。


「……このお部屋には……お布団が一組しか御座いませんので……」


 悲し気に鼻をすすりながら彼女が発した言葉を耳にした途端。自分は光の速さで限界突破した。そのように粗末な寝床で彼女を就寝させるわけにはいかぬ。


「それはいけない! 一緒に寝よう! さぁ早くこっちへおいで! 急いでおいで!」


 一心不乱にオフトゥンを叩いて、おいでおいでコールをくりかえすと、半べそだったヨリの顔がぱぁっと明るくなった。それから小走りで寄って来た彼女は、一瞬で枕を並べて嬉しそうに自分の隣へ横になる。ヨリはこちらに向き直り、膝を曲げて丸くなったかと思うと、軽く握った両手を口元に添え、照れ隠しのような上目遣いで見上げてくる。やばい。可愛すぎて殺される。

 それにしてもこの神様はちょろすぎてマジ髪生えそう。仕方がないので、もう一組の布団は明日にでも探すことにして、今夜は一つの布団で寝ることにした。


(これもうしょうがねーよなー。布団一組しかないんだもんなー。あーあー二組あればなー)


 言い訳がましい言い訳を心の中で盛大に叫び、やましい気持ちを一心不乱に払拭する卑しいおじさんは、ガシャガシャと紐を引き、明かりをナツメ球にモードに切り替える。照度の落ちた部屋の中、あお向けで布団をかぶる。すると隣のヨリが腕にしがみつき、橙色の灯りの元、くすりと笑う。この子には、案外したたかな面があるのかもしれない。

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