5 伍 ~ 供物の少女と悪しき箱 ~

 目まぐるしく見えるものが変わって、言葉を話して、色々な音を出す不思議な箱の前で、神様は酷く青ざめられたご様子で、険しいお顔をなさっていました。私は、目の前で繰り広げられている不可思議な光景を見て怖くなり、気づけば悲鳴を上げて無心で神様のお背中にしがみ付いていました。転げ込むような勢いで、ドスンと神様のお背中にぶつかってしまったのに、神様は何もおっしゃらず箱を見つめ続けていらっしゃいます。

 やっちゃいました。私はなんという無礼を働いているのでしょうか……。しかしお優しい神様は今度もきっとお叱りにはならないのでしょうね……。ふぇぇん。

 私はお馬鹿です。おたんこなすです。初めて神様とお会いした時から、もう何度もご迷惑をおかけしています。でも……それでも、今は怖くて仕方ないのです。私は、しがみついたお背中から、神様に何度もお呼びかけしたのですが、お返事はなく箱の前で固まったままで御座います。相変わらず箱の中からは、知らない男の方がこちらを見ながら何かお話をしていました。


「こ、こわいぃぃぃ」


 神様は、その方を睨みつけたまま微動だにされませんでした。この方が神様に何かしてるのでしょうか? ああ、やっぱりだめです。すごく怖いです。でも……こんな時こそ私がしっかりしなければいけません。そうしなければ、村の弟や妹たちに笑われてしまいますし、母様や姉様には叱られてしまうことでしょう。でもお祖母様は優しいので、きっと私の味方になってくれます。私は座卓の湯飲みをひったくるようにして、お茶で残りの最中をお腹に流し込みました。これで口の中が落ち着いたので、お役目に取り掛かれます。神様と箱の間に割って入り、失礼ながらも肩をゆすって必死でお呼びかけしました。すると、冷や汗をかかれお辛いご様子の神様は、そのまま倒れられてしまいます。


「ええーっ!! どどどどうしましょう!! 私が追い打ちをかけてしまったのでしょうか!?」


 何とか御体を抱き起し、とりあえずたもとの手ぬぐいでお顔や首回りの汗を拭いました。


「このままここにいるのはまずいかもしれない……」


 そう思った私は神様のわきの下に手を通し、お部屋の外までお連れしようと力を込めました。


「神様、度重なるご無礼をお許しくださーいっ!」


 小さなころから農作業や漁の手伝いをしてきたこともあり、こう見えて腕っぷしには多少自信があります。ここは強くてかわいい頼れるお姉ちゃんにお任せです。

 でもだめでした。悲しいですが神様の御体は重くびくともしませんでした。私に打てる手はもう残っていません。心の中に荒波のように押し寄せる絶望感に打ちひしがれて、涙があふれてきます。ああ、私は無力です……。でも、ここで私が泣いてしまうと、神様が本当に困ってしまうということはこれまでの事でよくわかっています。私は必死に泣くのを我慢して息を整えました。


「大丈夫。落ち着いてヨリ」


 私は神様に膝枕をして汗を拭い続けました。時折うなされたようにお顔をしかめられるご様子を見ると、胸が苦しくなります。お召し物を緩めようとも考えたのですが、脱がせ方がわからなくて途方に暮れてしまいました。何か他によい手はないものかと、周りを見回したとき、畳の上で何かが指に当たりました。それは、先ほど神様が手に取られて箱の方へ向けていた細長くて白い箱でした。

 手に取ってみると、それは見た目より軽いものでしたが、木などでできている様子ではありません。つるつるとした表面には、今までに見たことのない大きさと形で小さな文字が沢山彫られていましたが、残念ながら意味はさっぱり解りませんでした……。それにしても、こんなに小さな文字を彫ったり、書いたりできる職人さんがこの世にはいるものなのですね。世の中知らない事ばかりです。


「されないときは れ のため ないでください??」


 ひらがなとカタカナはともかく、漢字? のような文字はよくわかりませんでした。ひっくり返して裏を見ると、丸や四角の突起が整然と並んでいてこちらには大きな文字が沢山書かれています。よくよく見れば、なんと全部ひらがなとカタカナで書いてありました。これならば、と喜んだのも束の間。やはり意味までは解りませんでした。あう~。


「確か……これをどうにかしたら。あの箱がああなった……。ようにみえただけ?」


 神様はこれをどうにかされて、あの箱を使っていたような気がします……。そのとき、私がまだ小さかったころ、お祖母様に言われた言葉を思い出しました。


「世の中の出来事にはね、そうなった理由や原因が必ずどこかにある物だから、困ったことになったら、まずは落ち着いて、よーく考えてみなさい。問題を一つずつ解決して行けば、大抵の事は何とかなるもんだから」 


 確か、お祖母様はそんなことを言っていたと思います。


「因果応報? とも言ってたかな? あれ? でもそっちは仏様の教えだったかな」 


 そんなことを考えていると、またお祖母ちゃんが出てきて言います。


「神様も仏様も皆仲良しだから、どっちだってだいじょうぶよ」


 流石お祖母ちゃんの知恵袋です。


「本当にありがとうお祖母様……」


 私はまた泣いてしまいそうになりました。


 神様がこうなってしまわれたのは、箱の中に見えた人が喋り出してからです。今はもうその人はいなくなっていて、代わりに何やら美味しそうな煮物が見えてます。『あまぞんえこー』って何でしょうか? そんな感じのことを言っていました。とにかく、あれを何とかしないといけない事は間違いないようです。


「この細長い箱をどうにかすると、大きな箱に何かが起きる……」


 そう確信した私は、手の中の物をよくよくながめてみました。柔らかいでもなく硬いでもなく。今までにない感触の突起物を、摘まんだり爪で引っ掻いたりしてみると、押し込むことができそうなことが分かりました。試しに一つ四角い突起を押すと、箱の中に見える物が変わります。さらに順番に押してゆくと、同時に箱の中も次々と変わってゆきました。ただ突起一つ置きくらいに、箱は空のような青い色を見せて静かになる事もあったりして、私は少し楽しくなりました。いえいえいけません。楽しんでいる場合ではなにのです。もはや一刻の猶予もないはずです。

 今度は一番上の左から順番に押してみようと思い、やや大きなひらがなで ”でんげん”と書かれた一回り大きな赤くて丸い突起を押し込みました。すると、何か小石を落としたような音がして箱は暗くなり、静かになりました。


「ああ神様っ! 私にもできました!」


 私は小躍りしたいくらいにうれしくなって、うっかり膝枕を崩してしまいそうになりました。私は姿勢を整えて、手近にあった座布団を膝枕と差し替えてから押し入れの掛け布団を引っ張り出します。華やかさなどの違いはありますが、村での生活様式とこのお社のお部屋のつくりは、置いてあるもの以外ほとんど同じ感じです。おかげでお布団のりかも容易よういに想像がつきました。たとえそうでなかったとしても、すべての襖を端からあけて、家探しをするつもりではありましたけれど。

 すっかり冷えてしまっている神様のお顔周りの汗を拭い、布団をおかけして安静を保ちます。特に熱などはないようですが、医術の知識のない私にできるのは、この程度のことしかありません。悲しいことに先ほどからさほど改善しておらず、気ばかりがはやります。


「……神様、失礼いたします」


 せめてお手を握るくらいはと思い、かけ布団の横から両手を挿し入れ、神様の御手を握ります。神様の右手はごつごつしていて、野良仕事や漁で傷つき、荒れて節くれだったお父様の手を思い起こさせました。


「どうか……」


 何かもっと他にできることはないでしょうか。お部屋の中を見渡しても、状況の改善に繋がるような道具は見当たりません。もしこのまま神様がお目覚めになられなかったら……。考えはどんどん悪い方向へ向いて行きます。いいえ、いけません。こういう時こそ強く振舞わねばならないのです。これが私のお役目なのですから。

 そうして色々考えているうちにいるうちに、四半刻ほど過ぎたでしょうか。幸い神様もすっかり落ち着かれたご様子で、今では安らかに寝息をたてておられます。


「ああ、本当に良かった……」


 一時はどうなる事かと気が気ではありませんでしたが、もう大丈夫のようです。お顔の汗を再度拭ってふぅと一息ついたとき、全身に疲労感を感じたのは、張り詰めていた気持ちに緩みが出たからでしょう。外の様子がわからないので、今刻がどのくらいかは見当が付きませんが、床に就く時間はとうに回っているというように、じんわりと睡魔が囁きかけてきます。とりあえずご様子は落ち着かれましたが、今しばらくお休みなられたほうがいいと思ったとき。しきたりの事が頭をよぎり、私は顔がかっと熱くなって少し胸が苦しくなりました。でも、これも大切なお務めだと思い直し、神様を起こさぬようお耳元でそっと言いました。


「神様。供物である私には、神様が御休みされる際は必ず同衾しなければならない決まりが御座います。しかし、同衾の際の着衣一切は禁じられておりますので、大変お見苦しい事とは存じます。またすでに御休みであらせられる神様にこれから行う非礼を、何卒お許しくださいませ」


 押し入れから出してきた枕を神様のお隣に並べて、私は帯を解き着物を脱ぎました。神様は御休みになられていますが、裸になるのはすごく恥ずかしいです……。自分の枕元に脱いだ着物を畳んで置き、その上にまとめた帯を乗せて、神様を起こさないようにそっと布団の中に潜り込みます。神様の右腕に両手を絡めるようにして、自分の方へ引き寄せぎゅっと抱きしめると、私の鼓動は速くなって、もっと顔が熱くなるのがわかります。


「あぁはずかしぃよぅ」


 供物として捧げられるにあたり、供物候補の娘は三つばかり祈祷師様から注意を受けます。


 一つ、決して失礼がないよう常に十分な注意を払うように。

 一つ、常に傍に付き、誠心誠意尽くすように。

 一つ、神様が就寝するときは着物を脱ぎ、床を共にして以後は全て神様に任せるように。


 三つ目の意味はよく分かりませんでしたが、ほんとうにたったそれだけしか聞かされません。


「もっとちゃんと色々教えてくれればいいのに……。どうして着物を脱ぐ必要があるのかも全然わからないし……。落ち着かないし、恥ずかしいだけだよこんなの~」


 横になって目を閉じると、しきたりへの不満や愚痴が次々浮かびます。一緒に浮かんできた祈祷師様の顔に、胸の中であっかんべーをして気を紛らわせていると、私の眠気は次第にに強くなっていきました。


「畳……ちょっと痛いな。あ、神様おやすみなさいませ」


 神様へお休みのご挨拶をして、私も目を瞑りました。

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