2 静寂の水音
彼女はとっさにオレンジが浮いていた水甕を手に取り、男の体にバシャリと浴びせた。
「——うぶわッ!」
10数個のオレンジが背中をゴロゴロ転がり、男は両手に持っていた包丁を取り落とした。
今だ。
マドカはそのまま濡れた彼の背中をつかみ、外廊下へと引きずり出した。
梟の大羽根を広げ、手すりを足で蹴りつけ、男の背を抱えたまま中庭を滑空し──
そのまま彼の体を、洗濯用の大きな水桶へと突き落とした。
井戸の周辺に集まっていた住民たちがギャーッと叫ぶ。
水しぶきのザブンという音以外にも、ジュッ! と炎と水が反発する嫌な音がした。
「……マドカちゃん!」
「無事かッ」
マドカは滑空したまま地面に倒れ、周りの人間から次々に水をかけられた。
「羽根が焼け落ちてるわ!」
「ケガはないか⁉︎ 誰か担架を!」
煙が臭い。息ができない。喉が焼けてしまったようだ。
(アーサー…………)
彼女はアーサーの背中を思い出していた。びちゃびちゃになった瞼の裏でオレンジの狐の尻尾が揺れている。
「…………どこ…?」
サイレンや火事の音、住民の怒号と号泣などが、彼女の瞼の上を飛び交ってる。
なのにマドカの周りだけは、静寂の神モルグが全身を布でお包みくださったように、黒く静かになった気がした。
「小僧、起きろ!」
「——うわあああああっ!」
バシャアアアンと、ショーンはいきなり顔に水をぶっかけられた。
「ワッ、わ、あああ……っ、ヒィイ‼︎」
髪の隙間に水が入りこみ、耳の中までぐしょぐしょだ。
「まったく、アルバがマナ切れなんぞで寝とってからに!」
ショーンに水を浴びせた中年男は、そんな捨てゼリフを吐き、濡れた竹ざるをその場に置いて、ドタドタと何処かへ消えてしまった。
「ここ……どこ?」
呆然とあたりを見回した。といっても瞼はまだ水に濡れてぐじゅぐじゅで、ぼんやりとした輪郭しか見えない。どうも手術室か医務室らしいが、そのわりには物が多い気がする。
右側の窓を見ると、まだ昼間……窓の向こうには紅色や緑色の屋根瓦が見える。場所は上層階にあるようだ、3階か4階……いやもっと。窓のそばに体躯のいい女性警官がいて、険しい顔で腕組みしながら立っていた。
だんだん物がはっきり見えてきた。
腰を起こして部屋全体を見回してみると、縦に長い部屋だった。
左の壁にはごちゃごちゃのフラスコ、ビーカー、薬研に薬瓶にガラス瓶。その奥には何十何百もの引き出しの薬棚が、壁いっぱいにズラリと設えられている。薬棚の手前にはなぜか線路のレールと小さなトロッコ車があり、これで移動するらしい。
部屋の右奥には本や資料が入った本棚。その周りを埋め尽くすように、人体模型や動物剥製や骨標本が飾ってあった。
ショーンは手術用の寝台ベッドの上にいた。寝台は自分含めて4台。それぞれ紅葉、ペーター刑事、ラヴァ州警官が眠っている。急になんとも言えない強烈な香の匂いが鼻を刺激し、ショーンは大きなくしゃみを放った。
「ゲフッ、えっグショ……ここ、どこですか?」
窓辺にたたずむ、牛の角を持つ女性警官に聞いた。彼女は渋い辛子色の制服に身を包んでいる。ここはサウザスでもグラニテでも、クレイトですらないことは確かだった。
「ん、ここか。ここはな……」
彼女は問いに答えてくれるようだったが、現実味はなく夢の中にいるようだった。
「あとボクぁ、なんで…………水?」
寝台の下にはぐっしょりと水溜まりができていた。ショーンに水をぶっかけた張本人は、奥の部屋でバシャンガシャンと厭な音を鳴らしてる。
「ここはコンベイ地区、コンベイ街だ」
「あ、ああ、そう……」
なんとなくそんな気はしていた。この強烈なお香の匂い——コンべイの連中はみんな鼻がいかれてる。
「私はコンべイ警察のダンロップ。ラヴァ州警とクレイト市警の要請で、貴様らを守るためにここにいる」
(……要請は分かるが、“守る” だって?)
ショーンが事態を飲みこめないまま、水をかけた張本人……ガマガエルのような中年親父が戻ってきた。右手には真鍮眼鏡が “素手” で握られている。
「ホラ、お前のだ小僧。掛けろ」
ショーンの大きな丸い真鍮眼鏡——だが、その持ち主は取り落とした。両手で持ち上げようとするも重くて持っていられない。
「——フン、だらしがない!」
白衣を着た中年男は、大きな鼻息を吐いて憤慨した。分厚い唇にイボだらけの鼻。左目は鋭い眼光でショーンを見つめている。右目には筒の長い拡大鏡のような、真鍮色に光る眼鏡。
ダンロップ警部はため息をつきながら、粛々と彼の名を告げた。
「その男は、
絵 https://kakuyomu.jp/users/hourinblazecom/news/16816927861175425162
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