2 ロイが死ぬまでの話 Ⅴ
皇歴4546年の夏、ぼくは羽ばたきを待つ蛹のように過ごしていた。
ヴィーナスが秋に会おうと言っている、こんなに楽しみな事はない。
状況はあれから幸運にも、ほんの少し好転していた。ぼくは親戚であるガッセル家のエメリックおじさんと、ひそかに連絡を取り始めたのだ。
彼は、ゴブレッティの秘書が亡くなり、母もクレイト心療院にいったと噂を聞いて、手紙を寄越してくれたのだが……父がビリビリに破いて、ゴミ箱に捨ててしまっていた。掃除の時に気づいたぼくは、捨てた手紙を拾って繋ぎ直して……(今やこの屋敷の家事は、全てぼくの手で行われていた。)お礼の返事を出したのだ。
『やあロイ、まさか君が返事をくれるとは思わなかったよ。もう19か20だっけか、成人じゃないか。大きくなったものだね。我ら分家のガッセル家は、ゴブレッティ家にさんざん冷遇されてきたけど、君はゴブレッティ初の偉大な人物だな。元は角を同じくする者同士、これからは仲良くしよう……』
エメリックおじさんは気さくでユーモアがあり、神経質で頑固な父ヴォルフガングとは正反対の人物だった。(いや正反対の人物なら、神官長ボラリスファスも身近にいるが……もちろん彼のような俗物じゃない。)
しかも彼はヴィーナスと違って、手紙をこまめに返してくれた。互いの近況はもちろん、ほかの建築家の仕事ぶりや、くだらない冗談、はては恋の相談まで……とにかく色んな事をお喋りするように手紙に書いた。(エメリックおじさんは若い頃モテモテで、遊び人だったそうだ。会った事もなく顔すら知らないから、いつも【銀の神 バッソ・カルロ】のような風貌を思い浮かべていた。)
ヴィーナスが手の届かない女神だとしたら、エメリックおじさんはすぐ傍で話に乗ってくれる、悪友のような存在だった。
そうして46年の夏を楽しんでいたある日——、
『ロイ、こいつはなんだ……』
おじさんとの手紙がバレた。
ヴィーナスとの手紙は、父が絶対に来ない場所——すなわち、××××の部屋に隠していたけど、エメリックおじさんの封筒は数がありすぎて、つい作業机に置きっぱなしになっていた。
『いいか、ロイ。ガッセル家と関係を持ってはいけない……絶対に! あの家はゴブレッティを利用する事しか考えてない。この200年で何度も陥れようとしてきたんだ、ゲホッ、ゴホッ……っ、今すぐ捨てなさい!』
父さんは怒りのあまり、途中で咳き込みながら、罵倒してきた。
『り、利用って、そんな違うよ……エメリックおじさんは、ぼくに優しくしてくれて……』
『騙されるな! ガッセル家は、前も当家の秘密を世間に暴露したんだぞ。たった60年前の話だ、たったの! ガハッゴホッ……それに我が息子と、こんな下卑たやり取りをするなんて、ッ……汚らわしい!』
よりによって、情事のやり方が書かれた手紙を見られてしまった。ヴィーナスの事を相談したら(もちろん彼女の名前は伏せた。)おじさんが、どう “実行” すべきか教えてくれたんだ。学校では習わなかったし、その手の雑誌も恥ずかしくて買えなかったから、詳細に教えてくれてありがたかった。
父は手紙をビリビリに破いて、床にばらまいて踏みにじった。
乳房の撫で方についての講釈の断片が、ぼくの靴にひらひら落ちる。
何でこんな仕打ちを受けないといけないんだろう。その紙屑を片付けるのも、××××の世話も、全部ぜんぶ、ぼくがやらなきゃならないのに——
『——父さんだって、ボラリスファスとべったりじゃないか! あいつは何の救いにもならない、金を吸い取ることしか考えてない! 神の使いだなんて嘘っぱちだ。ただ利用されてるだけ、騙されてるだけだ! 父さんこそいつも踏みにじられてる、意志の弱い白ツメ草だーーーっ——!!』
殴られた。
ぼくは××××の部屋に逃げ込み、ひたすら泣いた。人生でこんなに泣いた事はなかった。
いつもワガママ全開でわめく××××は、最初は怒ってぼくの髪を掴んでいたものの……やがて泣き続ける自分の兄に困惑し……、しまいにはオロオロと床を徘徊し、双子の兄の体をさすり始めた。
こうして初めて体験した、ぼくの夏の友情は終わった。
父は屋敷に来た手紙を、すべて自分でチェックするようになり、ぼくは郵便局で「もう手紙をやり取りできない」と、簡単にいきさつを書いて投函した。エメリックおじさんはもちろん、ヴィーナスにも……。
そうして秋になるまで、鳴かない蝉のように過ごした。
町はトレモロ勃興祭の準備が始まっていく。父ヴォルフガングは、あちこちから来る寄付の依頼にキレ散らかし、ゼーゼーと咳き込むことが増えていった。ぼくはひたすら勉強と世話をする、暗澹たる日々に戻った——
「あれ……どうしたんだろう、図書館中がソワソワしてるみたい」
「んー、なんか匂いますねぇ。午前中に来た時と様子が違いますっ!」
3月22日地曜日、午後4時45分。
温泉施設『ボルケーノ』を出た紅葉たち一行は、ひとまずショーンとテオドールと合流するべく、トレモロ図書館を訪れていた。
平和な学び舎であるはずの施設の雰囲気は、玄関外から見てもなぜか不穏だった。職員がひっきりなしに出てきて、誰かを探しており、神殿に走っていく者もいた。
「イヤだわ、アンナ様じゃありませんか。失礼、イシュマシュクル館長をお見掛けしませんでしたか? これから選書会議ですのに一向に姿を見せなくて。神殿にもいらっしゃらないそうで……」
「え……そ、そうですわね、私では分かりかねますが……」
アンナは、所在を知ってそうな紅葉とマチルダのほうを振り返ったが、2人は矢よりも速く顔を逸らした。
「知りまセン」
「まあ、嘘おっしゃい——それは知ってる人の話し方ですわよ!」
「本当に知りまセン!」
これはちゃんと事実だった。
「……どういう事なんでしょ、まだ『ボルケーノ』のVIP室にいるんですかねぇ」
「……あるいは、ショーンとテオドール君がどこかに連れてったのかもよ」
2人はアンナの背に隠れて、ヒソヒソ内緒話していたが、
「イヤだわイヤだわ、なぜか当司書のメリーシープも見当たりませんのよ、昼休憩から帰ってこないのです。今まで一度だってこんな事ありませんでしたわ。彼女は図書館で一番、仕事熱心な女性ですのに!」
円梟族の図書館職員ヤドヴィ・ビヴィーが、心配げにバサバサ羽ばたくのを見て……会話を止めた。
紅葉はグッと瞳を黒く変化させ、マチルダは工具を掴みなおし、アンナは逃げようとしていたオリバー設計士の腕をひっぱった。
「とりあえず——館長室を調べてみましょう」
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