6 酒場の朝
「よいしょっと!」
紅葉の昼の仕事は、下宿の共有部分を掃除することだ。
この下宿は2階に個室。1階にシャワー室やトイレ、キッチン等の共有施設と玄関がある。建物北の、横に細長いスペースで、隣にオーナーの自宅があるので、かなり手狭だ。下宿と自宅の間にはドアがなく、直接行き来はできないものの、双方のキッチン壁にある木製小窓で、たまに食べ物をやり取りしている。
下宿の階段は、地下まで続いており、地下室に住む従業員達も、下宿の共有施設を使用している。大所帯でありながら、下宿に住む面々は揃いもそろって宵っぱりなため、紅葉は朝、悠々と一人で掃除し、朝食を取ることができるのだった。
手早くシャワー室とトイレの掃除を済ませ、朝食を作りがてら、キッチンの掃除も小まめに進める。オレンジマスタードを塗ったトーストを頬ばっていると、二日酔いの顔をしたマドカが、だらしない格好で帰宅してきて、トマトジュースだけ飲んで部屋へと戻っていった。
廊下の窓から、女将さんが畑のハーブを手入れしているのが見える。この酒場の料理は、すべて女将さんの主導で作られており、採れたての自家製野菜もよく出てくる。マスターの出す美味い酒、女将さんの出す美味しい料理が、ラタ・タッタが繁盛している要因だ。
紅葉はトーストを食べ終え、皿を洗いつつシンクを拭いた。玄関の埃を竹ぼうきでザザッと掃いて、ドアノブを拭き、1階の掃除が終わった。ファンロンの
──ショーンだ。
「おはよう! ショー…」
「…………ぁ」
すると、何ということだろう。
階段を下りてきたショーンは、紅葉の姿を見るなり急に踵を返してしまった。
分厚い外履き用のスリッパの音をドタドタ鳴らし、
階段を駆け上がり、姿を消し……
重い赤樫のドアとおぼしき音が、
ズン……と、暗いひとりぼっちの階下に響いた。
「えっ」
あまりのことに、紅葉は呆然と固まった。
(わ、私そんな悪いこと言った?)
(き、昨日言ったこと、ひどかった?)
いきなり顔を背けるなんて。
紅葉はダラダラ背中に冷や汗が流れて、爪先がキューっと冷たくなるのを感じた。喧嘩したことは数あれど、あんな風に避けられたのは初めてだった。
(いやいやいや嫌、嘘やだ。どうしよう)
(あ、謝りに行く?)
(拒否されたらどうしよう、嫌だ)
(ショーン、イヤ……)
彼女が愕然としながら、睫毛を固まらせていると、ショーンが、ガウンをつっかけバタバタと戻ってきた。
「ほら、これ!」
彼はバシッ! とキッチンテーブルに、何か小さい物を叩きつけた。
それは2枚の小さなシール。
親指の爪ぐらい大きさの、昔おもちゃのオマケで付いてたような、色褪せて汚れた白いシールだ。
「お前の顔見て思い出したよ、砂時計に貼っとけ!」
紅葉は呆然と、黒い瞳で、シールを眺めた。
「あーもう、本棚の奥まで探しちゃったじゃないかっ、埃だらけだ!」
ショーンは怒りの尻尾をフリフリ振りまわし、ガウンの埃を払ってる。
「はぁ? ちょっと何笑ってるんだよっ、何がおかしい!」
小さなシールを爪で摘んで、肩を震わせケタケタ笑う紅葉に対し、ショーンは不審げに顔を引きつらせた。唇を尖らせながらキッチンを見回し、「ほら、ヤカンも沸いてるじゃないか」と小言をいいながら火を止めた。
ようやく笑い終えた紅葉は、軽やかな手つきで、戸棚から菊水茶の缶を手に取り、ティーポットに大さじ2粒の茶花を入れた。
「シール忘れるなよ、シール、シール」
「ハイハイ。」
彼女は砂時計の上下にシールを貼り、それぞれ上から「start!」「fin.」とペンで綴った。ショーンは冷蔵庫から、自分の白パンと大盛りレタスを取りだした。
彼がレタスに胡麻とケシの実のドレッシングを振りかける間に、紅葉はティーポッドにお湯を注ぎ、小さな3分砂時計の「start!」と書かれた面をひっくり返す。
時の砂つぶがサラサラと落ちてく間、ショーンはバタバタと、棚から愛用の湯呑みを、ふたつ引っぱり出した。紅葉はふふっと笑って、私物のオレンジマスタードを、コトンと彼の朝食の前へと置いた。
「今日はアルバの仕事を休みにしようと思う」
ショーンは、白パンにオレンジマスタードを掬って、塗った。
バターナイフを置きながら、静かに紅葉へ宣言する。
「おやすみ?」
「うん」
「そっか。じゃあ、みんなにそう伝えとくね」
「頼む」
砂時計が、最後の砂つぶをぽとりと落とした。
表がしっかり「fin.」と書かれているのを確認する。
紅葉は、桃色の釉薬が掛かった藍色の湯呑みに、出きたての菊水茶をサラサラ注いだ。
「今日は、外へ出かけにいく」
「いいね、どこ行くの?」
「あちこち。行きたい所があるんだ」
「行ってらっしゃい」
ふたりでお茶の香りを吸い込んだ。清く澄んだ青い香りがキッチンに広がる。遠くで子供が太鼓であそぶ音が聞こえた。窓からゆったりと風がそよぐ。いつもの鉄を叩く音は、今日はお休み。代わりにミソサザイが鳴いている。
サウザスで一番大きな酒場『ラタ・タッタ』は、いつも、こんな感じに時が過ぎていく──
──いや、3月7日の火曜日。
この日まではそうだった。
この日を境にショーンと紅葉、そしてサウザスで平和に住む何人かの運命が、大きく変わっていく事になる。
厄災は、いつも突然、音を立ててやってくる。
絵 https://kakuyomu.jp/users/hourinblazecom/news/16816700427033897538
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