15-8 『金曜日』は恥ずかしくて

「俺が最終的にデパートで七十……八十ポンドくらい稼げるとして」


 かどくんの手が書類をめくる。それで出てきたのはかどくんの路面店での売り上げと、注文状況だった。


「俺は今、路面店で十四ポンド売り上げてる。残っている注文を見ると、大型店の注文を全部履行できれば、三十四ポンドで合計四十八ポンドだね。デパートの注文もあるし路面店の注文がどこまでいけるかはわからないけど……まあ最終的に五十ポンド超えるくらい、は売り上げたい、とは思ってる」


 そう説明する顔を見上げて、そうか、と思う。かどくんも、今まではデパートを優先していただけで、路面店の注文を諦めたわけじゃなかったんだ。


「そうすると、デパートと路面店で合わせて百三十ポンド。ちょっと大きめに見積もってるけどね。大須だいすさんが勝ちたいなら目指すのはここ」

「百三十……」

「ただ、路面店の注文を一番たくさん履行した人には、十二ポンドのボーナスがある。このボーナスはどう考えても大須だいすさんだと思うから、その分を引いて、路面店の注文だけで百十八ポンド売り上げれば勝てるって計算になる」


 今のわたしの売り上げは四十五ポンドだから、あと七十ポンド以上を売り上げないといけないってことだ。

 可能なんだろうか、と不安で俯きかけたわたしの顔の前で、かどくんが人差し指をぴんと立てた。


大須だいすさんが今受けている注文を全部履行したとして、二十八ポンド。金曜日の売り上げはこれが最大。それで売り上げの累計は七十三ポンド」

「それって、土曜日に四十五ポンド売り上げが必要ってこと?」

「そう、あと四十五ポンドあれば良いってだけだよ。大型店の注文はもらえるお金も多くて、俺のとかもそうだけど、全部履行できれば四十ポンドくらいになる注文もあるんだ。あとは、小型店か中型店の注文で五ポンド売り上げたら、もう四十五ポンドだ」


 それはわたしの四日間の売り上げと同じ額。それを土曜の一日だけで売り上げるってことだ。それをかどくんはなんてことないみたいに口にする。

 本当にできるんだろうか、無理じゃないだろうか。


「注文の引きもあるから絶対にとは言えないけど、でも大須だいすさんが勝つ可能性もあると思ってるよ、俺は」

「……本当に?」


 そっと見上げると、かどくんはいつもみたいに穏やかに微笑んだ。


「本当に。俺がデパートの注文を頑張るのはいかさんに勝つためだけど、路面店の注文で五十ポンド目指してるのは大須だいすさんに勝つためだからね」


 かどくんはわたしを見下ろして、にいっと笑った。


「俺だって大須さんに勝ちたいし、勝つつもりってこと」


 それからかどくんは思い出したように、ジャケットのポケットに手を入れた。それで出てきたのは銀紙の塊。

 かどくんは紙の束を自分の体と腕で挟んで持つと、手のひらの上に銀紙の塊を乗せた。反対の手でその銀紙を開いてゆく。中に包まれていたのは歪な形のチョコレートの欠片だった。


「割れて売り物にならないやつ。ちょっともらったんだ。大須だいすさんも食べる?」


 そう言いながら、かどくんは手頃な大きさの欠片を摘み上げた。一度に口に入れるのにちょうど良いくらいの大きさの、三角に欠けてしまった形のチョコレート。

 何が出てくるんだろうとかどくんの手のひらの銀紙を覗き込んでいたわたしは、そのチョコレートの欠片が目の前にやってきて、そのままぱくりと咥えてしまった。

 その瞬間は、何も考えていなかったのだ、本当に。後から思えば、どうして、と自分でも思うのだけれど。

 自分が何をしたのか気付いた時には、唇に触れた指先がびくりと引っ込められた後だった。ばさばさと音がして、かどくんが抱えていた紙の束が足元に散らばる。

 わたしの口の中には甘いチョコレートの欠片が残されていた。

 かどくんは肘を持ち上げてその袖で口元を覆って、横を向く。夕陽のせいで、全部真っ赤に見える。


「ご、ごめん、その、手に乗っけるつもりだったんだけど……」


 そんなことを言いながら、かどくんは肘の内側に顔を埋めた。さっきわたしの唇に触れた指先が、空気をぎゅっと握り締める。

 その指先の感触がまだ残っている気がして、わたしも口元を手で覆う。


「わたしこそごめん、その、目の前に出てきたから、思わず……何も考えてなくて……」

「いや、俺の方が……ごめん、その、ちゃんと手を出してって言えば良かった……」


 言葉を発するたびに、口の中のチョコレートが甘く溶けてゆく。甘さが舌に絡みついて、わたしはもう何も言えなくなってしまった。

 ボードゲームの世界の中で、時間の感覚がよくわからない。その後、かどくんと何を話したかもわからない。気付いたらもう金曜日の朝になっていた。




 金曜日、紅茶と一緒に出てきたのは、青い六角形のギフトボックスだった。色とりどりに飾られたチョコレートの粒が、箱の中に上品に並んで収まっている。

 美味しそうと思う前にかどくんの指先を思い出してしまって、わたしはすぐに手を伸ばせなかった。そっと隣を見たら、目が合ってしまって、慌てて俯いた。

 相変わらずかどくんと兄さんはデパートの注文を争って『従業員』を奪い合っている。それを横目に見ながら、わたしは新しい『工場装置』を選んだ。

 新しい装置は、すごい。上級チョコレート二箱で、全部の上級チョコレートが一箱ずつ生産できる。つまり『チャンクバー』『フィンガーバー』『キャラメルチョコ』『ナッツチョコ』『ギフトボックス』が一箱ずつ、全部で五箱だ。『石炭』は四箱必要だけど、その分チョコレートの数も増える。

 注文をたくさん履行するためにはチョコレートの数が必要。だから、数が増えるこの装置は、きっと良いはず。

 それをどこに設置するかは少し悩んで、最初からあった『加工』の装置を上書きしてしまうことにした。上書きして『加工』ができなくなるのは少し不安だけど、『加工』だけだとチョコレートの数が増えないから、もう必要ないんじゃないかって気がした。

 工場の端っこ──四マス目に置いてしまうと、せっかくの装置が使えない。だから、これで良いはず。

 それから、今回わたしが雇うことになった『従業員』は『ソルターズ・エンポリアム』の『路面店エージェント』。路面店の注文一回で、注文のチョコレートとは違う上級チョコレートを納品できる。水曜日に雇ったのと同じ能力だ。

 わたしの後に、兄さんが、それからかどくんが『工場装置』を選ぶ。カタログにオレンジのペンで丸を書くその指先をじっと見てしまっていることに気付いて、わたしは視線を逸らして、どうして良いかわからなくなって、ギフトボックスからチョコレートを一粒摘み上げた。

 一口で含むには少し大きいそれを、半分かじる。唇に触れる自分の指先をかどくんのものと比べてしまって、顔を上げられなくなってしまった。

 ギフトボックスのチョコレートは柔らかな口溶けの上品な甘さで──でも昨日の夕方のチョコレートの方が、ずっと甘かった。どうしよう、もう工場に行ってしまいたい。


大須だいすさん、大丈夫? あの……」


 かどくんに声をかけられて、びくりと体を固くして返事をする。


「大丈夫。なんでもない」


 それだけ言って、わたしは半分残ったチョコレートを口に放り込んで立ち上がる。自分の書類をまとめて胸の前に抱える。


「もう工場に行くね」


 そう言い残して、工場に向かう。かどくんの顔は見れなかった。




 工場で、働く人たちを見ていたら、気持ちは少し落ち着いてきた。あるいは、かどくんが目の前にいないからかもしれない。

 工場の入り口で、見取り図と路面店からの注文状況を広げて、今日生産するチョコレートのことを考える。そう、わたしは今から仕事をしないといけない。わたしの仕事は、チョコレートの生産だ。

 小型店の新しい注文は『キャラメルチョコ』と『ナッツチョコ』。中型店と大型店の残りの注文は『ナッツチョコ』三箱と『フィンガーバー』三箱。『路面店エージェント』の能力で、この中のどれか一つは、別の組み合わせで納品することができる。

 倉庫には『フィンガーバー』が一箱残っている。使える『石炭』は九箱。

 新しい『カカオ豆』を『フィンガーバー』二箱にして、それを新しい装置で上級チョコレート五箱に変換したとする。必要な『石炭』はそれで七箱だから、ここまでで残りの『石炭』は二箱になる。

 工場の端まで流れていった『カカオ豆』を『変換』したいと思ったけど『石炭』が足りない。もう一つの『カカオ豆』を『石炭』に交換したとしても三箱。今回は『カカオ豆』を『変換』するのは無理かもしれない。

 わたしは路面店からの注文のリストを眺める。どれか諦めるとしたら、手に入るお金が一番少ない小型店だ。だとすれば、わたしは『ナッツチョコ』か『フィンガーバー』三箱、それとなんでも良いから上級チョコレートを三箱用意できれば良い。

 それならできるだろうか。『フィンガーバー』は倉庫に一箱ある。だから後二箱あれば良い。でも、最初に『ココア』を『フィンガーバー』二箱に『変換』しても、それは二箱とも次の装置の材料になってしまう。この装置では、チョコレートの数は増えるけどその中に『フィンガーバー』は一箱だけだ。

 最初に『変換』した『フィンガーバー』を一箱残しておけたら──そのためにはもう一箱チョコレートがあれば良いのに──そこまで考えて、『チャンクバー』一箱を『キャラメルチョコ』二箱に『変換』できることを思い出した。

 できる。わたしは顔を上げて、工場の稼働を開始した。コンベアが動き始める。


 最初の『カカオ豆』を『ココア』に、その『ココア』は『チャンクバー』と『フィンガーバー』一箱ずつに。

 昨日の『カカオ豆』は『出荷』して、そのまま『石炭』と交換してもらう。これで『石炭』は差し引きで残り七箱。

 次の『シフト』で、さっきの『チャンクバー』を『キャラメルチョコ』二箱に『変換』。そして、その『キャラメルチョコ』二箱を使って上級チョコレートを一箱ずつに『変換』。

 もう一つあった昨日の『カカオ豆』をまた『石炭』に。『石炭』を五箱使って一箱増えたから、残りは三箱。

 そして最後の『シフト』。新しく生産したチョコレートを全部『出荷』する。そして土曜日のために、新しい『カカオ豆』を『ココア』に、そして『チャンクバー』二箱に『変換』した。

 これで、金曜日の稼働はおしまいだ。『石炭』の残りももうない。

 倉庫の中でチョコレートの箱を確認する。『フィンガーバー』三箱は大型店の注文に。中型店の注文は『路面店エージェント』に任せる。納品するのは『チャンクバー』と『キャラメルチョコ』と『ギフトボックス』。『ナッツチョコ』一箱は倉庫に残す。

 これで今日は二十二ポンドの売り上げだ。


 全部思った通りにはできなかったし、売り上げも思ったよりも伸びなかった。でもこれが今日できる精一杯だった。

 今の売り上げは六十七ポンド。土曜日一日で五十ポンド売り上げないといけない。

 できるだろうかという気持ちもまだあるけど、なんだかできるような気もしていた。

 だって、かどくんはなんてことないみたいに言っていた。それに、かどくんはわたしが勝つ可能性もあるって、そう言っていた。わたしは相手にされてないなんてこともない。かどくんはちゃんとわたしに勝とうとしてくれている。

 だからわたしも、かどくんに勝つために頑張ってみようと思っている。路面店の注文を履行するだけだから、やることが変わるわけじゃないんだけど。

 でも、こうやってお互いに勝とうとすることが、一緒に遊ぶってことなのかもしれない。

 そう考えて、ふと、かどくんの指先を思い出す。思い出すと恥ずかしい。なんであんなことを、と胸の前で書類を抱えて俯いて──それなのに、自分でもどうしてかわからないけど、指先で唇に触れてしまった。

 そんなことしたら思い出すに決まっているのに。

 工場の稼働は終わって、賑やかだった装置も今は静かだ。でも、工場の中はまだチョコレートの香りでいっぱいだった。




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