第408話 ・井伊家の事情。
杖付き峠の番所も咎められることもなく通行できて、まだ日が高いうちに着いた高遠城下は前と変わらぬ賑わいを見せていた。ここまで他国になったという感じがしなかった。
だが城内で風に靡く旗は、あまり見慣れぬ『井』の字だ。
「某、諏訪の国人・金丸玄番と申す。山県殿に相談があって参った」
「金丸殿、山県様はここでは無く、伊那大島城にお移りになり申した」
「なんと、それは・・・今のご城代はどなたで御座るか? 」
「ここ髙遠のご城代は、保科様で御座る」
おう。元武田家重鎮の保科正俊殿か・話はしたことがあるが親しいというお方では無いが・・・
「某、諏訪頼忠と申す。諏訪の国人を代表して参った。保科様にお目に掛かれようか? 」
「お待ち下され。伺って参ります」
うむ、髙遠より大島城は九里もあり移動に一日要す。どちらにしろ今夜はここに宿泊するしかあるまい。ならば時間はある、保科殿にお目に掛かれるならばその方が良かろうな。
門兵はすぐに戻ってきて応接の間に通され、保科殿は待つ事も無く出て来られた。
「諏訪殿に金丸殿か。諏訪衆が来たと言うことは井伊家への服属のことで御座ろうか」
「左様で御座る。此度、髙遠が井伊家になり申したが、髙遠の麾下であった諏訪には話が御座らぬでどのようなご存念かお聞きしに参り申した」
「・・・うむ。金丸殿が親交のある山県を訪ねて来たは、いまだ悩んでいると言うことですな」
「左様。諏訪は周囲の変化に置き去りにされておりますれば・」
「それは分り申す。少し前の髙遠もそうであった。結局は民の声に耳を傾け井伊家に随身したのだ」
「民の声ですか・・・」
諏訪は国人衆が右往左往したのみで、民の声など聞いていない・・・
「それで・随身してみて如何で御座るか? 」
「うむ。当然ながら武田家とは全く違う事も多く、戸惑うことも多いがやり甲斐もある。ただ・」
「ただ? 」
「諏訪は、今の態勢のままでの随身は難しかろうと思う・」
「どういうことで御座るか? 」
「それは山県に聞くと良い。儂は新参者で山県ほど井伊家の政を知らぬからな」
「・・・」
「・・・」
頭の中が真っ白になった。
今の態勢のままでは随身できぬなどとは、思ってもみなかった。
「今日は遅い。城下の旅籠に泊まり大島城には明日行かれるが良い。良い旅籠を紹介致そう」
「忝く・・・・」
「金丸殿、お久しぶりで御座る。某が宿の案内を致しまする」
と懐かしい顔がお迎えに来た。
「これは切畑殿! 生きておられたか・」
切畑殿は釣間斎隊に属して、三河から井伊谷に侵攻して行方を絶った者らの一人だ。某の諏訪勢と髙遠勢は陣が隣接していて親しい間柄だった故に気落ちしたのだ。
「左様。あの時の兵の殆どは生還して井伊家臣として働いておりますぞ」
「なんと。陣中では釣間斎隊は全滅したという話で・・・」
「とんでも御座らぬ。我らあっという間に捕えられて、捕囚として働かされておりましたが、銭と兵糧を持たされて解放されたのです」
「そうであったか・・・」
高遠城に顔見知り兵が多いと思っていたのはそういう訳か。釣間斎殿は捕囚の生活に馴染めずに亡くなったそうだが。
問題なのは、武田隊があっという間に捕えられるほどの力量の差が既に井伊隊にはあったと言うこと。それは我らの力では井伊家には適わないと言うことだ。これは心しておかないと・・・
翌朝の道中は快適であった。髙遠より大島城まで約九里、ほぼ平坦な道だ。途中、街道整備が大規模に行われていた。
脇差だけの武士が泥だらけになって民と一緒に働いていた。その光景は甲斐や諏訪とは何か違っている。道行く人も皆笑顔だ・・・
そこからは道が良くなっていて一段と道程が捗った。山県殿は大勢の人夫を使って城の改築をしていた。
伊那大島城は信玄公が秋山信友殿に命じて、甲州流築城術を駆使して改築させたばかりの名城だ。
それを井伊家はどのように改築させているのか。
「おお、金丸殿か。良くおいでになったな」
「山県殿。お元気そうで何よりで御座る。これはまた大規模な改修ですな・・・」
「左様。井伊の殿は、内部の込み入った構造は不要で、これからの城に必要なのは敵を寄せ付けない環濠、内部は広い曲輪が有れば良いと言われておる。広い曲輪は戦時だけで無く平時にも様々な用途に使えますからな」
周囲の濠を深く広げて、その土で城内の二の丸、三の丸の濠を埋めている。本丸との先の掘切もそうだ。内部には濠などいらぬと言うことか。たしかに広い曲輪は兵の調練や物資の保管・民の避難など色々と使える。
平時か・・・平時の事を重視しての城造りなど考えていなかったな。井伊家のご当主はそれを考えての城造りをしている。
「井伊の殿とは、どのようなお方ですな? 」
「さて、それは一言では・・・」
ん・山県殿が微笑んだな。何かあるのか?
井伊家は遠州の北端の一画から、強力な信濃高坂隊を破り北上して伊那全土を掌握した。とにかく恐るべき豪の者・尋常のお方ではなかろう。
「いや、我らが殿と呼んでいるのは井伊家総大将の井伊虎繁様で御座るが、正確に申せば井伊家当主は井伊乙葉様なのだ。乙葉様は見目麗しいお方で、民に大層好かれている殿様で御座る」
「えっ、井伊のご当主は女性・・・」
「左様。今は飯田城にお住まいです。無論、総大将の井伊虎繁様も武勇に優れた大きな器量のお方で御座る」
まさか井伊家の当主が女性だとは思いもしなかった。軍を率いているのは井伊虎繁様と言われるのか。虎繁・・・聞いた事のある名だ。
その夜は大島城の一室を与えられ、夕餉には共に酒を酌み交わした。その席で来訪の目的を伝え相談にに乗って貰った。
「・・・今の態勢では随身が難しいと保科殿が言われたか」
「はい。儂は新参者ゆえに訳は山県殿に聞けと」
「おそらく諏訪殿は、大社の大祝か武家かのどちらかを選ばなければならぬかも知れぬ。というのも井伊家では神社仏閣が武力を持つのを認めていないのだ」
「それは・・・」と頼忠殿の顔が強張る。諏訪国は諏訪大社の神人が差配するという伝統がある。故に勝頼様も諏訪氏を嗣いだのだ。
「畿内を始め各国がそういう態勢になっていると聞く。駿府の北畠家や甲斐の柳生家も同じだろう」
「左様で御座るか・」
駿府や甲斐までがそうならば、選択の余地は無い。諏訪の身内で分け合えば良かろうと思うが・・・
「某から虎繁様に問うてみるが、井伊家は新領・伊那の統治で精一杯で、諏訪まで手を伸ばすかどうかは分らぬが・・・」
「宜しくお願い申す」
我らだけで無く、井伊家にも手が回らぬという事情があるか。ということは、どう転ぶかは分らないということだな。
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