第406話・甲斐の赤備え。


甲斐身延下山館 柳生宗厳


 待つほどのことも無く、武田於松殿は装束をあらためて下山館から出て来られた。侍女二人と揃いの乗馬袴姿だ。甲斐の隅々を見たいと言う事で、馬車では無く馬で行く事を選んだのだ。

最初に館から出てきた時は、武家頭領の奥方様だったが、柳生家に仕えると言ったときにはもう目付きが変わっていた。

 このお人は今までの自分を瞬時に捨てて、新しく生きかえる覚悟が出来たのだ。こういう事を儂は何回か見てきた。人は一瞬で変われるのだ。


「柳生様、いえ・宗厳様。北畠家は如何でしたか? 」


「忙しく道整備や内政に取り組んでいた様子だが・」


「いえ。そうでは御座いません。領内の通行には支障が御座いましたか? 」


「いや、それは無い。畿内でも柳生と北畠家・山中国は隣り合っていて、関所も無く通行は自由だ。特に同盟も結ばぬのに今まで問題が一度も起こらぬ間柄なのだ」


「まあ。それは戦国の世に珍しき事。甲駿相は同盟を結んだり攻め入ったりばかりを繰り返してきましたのに・」


「それは此度で終る。我ら・いや我らを支援している山中国には周辺の誰もが手を出さぬ」


「それは真で御座いますか? 」


「真だ。甲斐はこれより秀麗な富士のお山を眺めながら、新しき物作りと武芸に勤しむ国となろう」


「まあ、それは楽しみですこと」



「柳生殿、間も無く甲府に入るという辺りで御座る」


「承知しました。師は亡き信玄公にご面識が御座ろうか」


 幸運なことに焼津湊で新陰流の師・上泉殿に会った。主従は上野に戻られる途次とのことで、我らに同道することになった。武者修行で諸国を回られた師は甲斐の様子にも詳しく、これが師との最初で最後の旅だと思えば別れ難かったのだ。


「左様。大和に赴く前に信玄公にお目に掛かった。関東一円が飢饉に喘ぐ時期でもあった。出家なされたばかりの信玄公は覇気溢れるお姿であったな・」

「はい。甲斐も今のように飢饉に苦しんでおりました。わたくしも上泉様が訪れて来たことを覚えておりまする」


 そうか。米があまり取れぬ甲斐は、今も昔も食べる為に他国を侵略して来たのだ。他国を苦しめ自国も苦しんだ結果、何の解決にもなっていない。そんな事は此度で終らせなければならぬ。



「殿。前方に騎馬数騎が待ち受けて御座いまする」

「左様か・・・このまま進めよ」


「騎馬、駆けて来ます! 」

「宗厳様。ここは私が」


「うむ」

 於松殿が前に出て、上泉師がそれに従った。駆けてくるのは三騎、お歳を召したとはいえ、三騎を相手にするのは師にとって造作も無い事だ。



「これはお方様。そちらは・・・上泉殿で御座るか? 」


「武藤、妾を迎えに参ったのか? 」


「いえ。某は柳生様をお迎えに。しかし、お方様が同道なされているとは思いませなんだ・」


「宗厳様をお迎えとは、甲斐は柳生家に従うのか? 」


「いえ。某の独断で御座いまする。土屋殿・馬場殿は不承知で御座る」


「ならば躑躅ヶ崎に案内せよ。二人には妾が話す」


「畏まりました。柳生様、武藤喜兵衛が甲府を案内致しまする」


「うむ。武藤殿、宜しく頼む」


 武藤喜兵衛殿は真田一徳斎の倅だ。信玄公に気に入られて名門武藤家を継いで軍師格として重用されていた。

真田一徳斎は京・大和を見物して山中殿に京都守護所入りを願った。それは断られたが、山中国とは連絡を取り合っているようだ。

この武藤喜兵衛の帰順は、山中殿から一徳斎を経た指示で、某も事前に知らされていたことだ。



 躑躅ヶ崎館の前には、数百の兵が待っていた。我らが進軍していくとそれは二つに割れた。我ら側についたのは武藤殿の手勢だろう。

 某と於松殿、上泉師と武藤殿が彼等の前に進み出る。


「馬場、土屋、今までの奉公、真に感謝しておりまする。

・・・だが飢饉で餓死者がでる武田家の政は、昔から変わっておりませぬ。最早他国を侵略して奪うだけの武田家では甲斐の民を救えないのは明らかです。


この地に来てくれた大和柳生家は、何も無い山間の領地を辛抱強く手入れして豊かにしてきたお家です。

その柳生家が遠路遙々、沢山の兵糧を運んで来て甲斐の民を救いに来られたのです。

妾は甲斐の民の為に柳生家に縋ります。武田家は柳生家に臣従することにしました、今からはお方様では無く武田於松と呼びなされ。

其方たち国人衆の帰趨は、自分たちで判断して決めなさい。武力で決めるのならば、将軍家も頼りにされた柳生家がいつでもお相手をしてくれるそうです」


 於松殿の言葉で相手方の兵がざわついた。この瞬間、甲斐に君臨してきた武田家は無くなったのだ。

 その集団の中から赤備えの異様な一隊が出て来た。


「馬場信春で御座る。某、隠居するつもりで御座ったが、おめおめとまだ甲冑を身につけてこの様な場に御座る。ならば冥土の土産に剣豪柳生家と一勝負を望む」


「承った。だが皆一度にというわけには行かぬ。三十名。得物は稽古槍。勝負と言ったが、とことん決着をつけることも無かろう。手合わせ、或いは実戦調練と言うことで如何か」


「承知」


「後藤、お相手をせよ」

「畏まった」



 双方から選抜された三十名が稽古槍を持って出て来ると、集団が動いて中心に戦いの場が出来あがった。

 足軽大将の後藤又四郎の顔が緊張している。当然だ、相手は歴戦の猛者・武田の赤備え隊。対して柳生家の面々は実戦から遠ざかっておるのだ。


「始め! 」

「「おう! 」」


 双方固まりのまま無造作にぶつかった。カッカと稽古槍をぶつけて相手の出方をみている。その音が段々と激しくなるが相手を崩すことが出来ない。

 と、赤備えの左右から隊が突出展開して、回り込もうと大きく動く。瞬時に後藤隊からも左右に隊が出たが、その場で槍先だけを向けて大きく動かない。


 逆に赤備えの隊は、大きく動き・止まり・突撃するかに見えて反転・隙や脇を見せて誘った。後藤隊は隊を揺らしながらも動かずに耐えている。


「戻れ! 」と馬場殿が隊を元の位置に戻した。そして、兵の間を開けて並べた。隊の動きでは決着がつかぬとみて乱戦に持ち込もうとしたのだ。


後藤はそれに乗った。各兵がバラバラとなって目前の相手に打ち掛かかり、忽ち激しい闘争となった。

厳しい稽古を繰り返してきたのだ、個人の腕は我らの方が上だろう。だが武田兵には実戦を重ねて来た経験がある。命懸けの場で磨いたものは侮れぬ。某もどうなるか楽しみだ。


 次々と脱落者が出て人数が減ってきた。既に隊長の後藤と馬場殿も前で戦っている。そして二人の一騎打ちとなり、廻りの者は手を止めて見物に回った。一進一退の攻防が続くが、勝負はなかなかつきそうにない。

 うむ、この辺りで止めるか。


「それまで! 」


 立っているのは後藤隊の方がはっきりと多いが、三分の一の兵は見事に倒されている。

実戦であればおそらくその差は僅かだろう。逆に打ち倒されていたのは柳生隊の方かも知れぬ・・・


「流石に武田の赤備えの武辺者だ。皆あっぱれな武者振りで、柳生宗厳、冷や汗をかき申した」


「いえ、我らは戦慣れしているだけの荒武者で御座る。動きも荒く技も未熟。武芸の腕は比べものにならないと痛感致した」


「馬場殿、隠居するなど言わずに、この宗厳に力を貸してくれぬか」


「こちらからお願い申し上げる。老い先短い老兵で御座るが、甲斐の民を救う事に遠慮無くお使い下されますように」


「有り難い。馬場殿、赤備えの猛者たちよ、この宗厳に力を貸してくれ」


「「はっ! 」」


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