第402話・駿府の変。
「金丸殿、よく御無事で」
「命があれば何とかなりまする」
「まさしく左様」
天神山城の勝頼様は、兵の半数を放出されたのだ。兵糧節約のためだ、酷いことをなさる。だが金丸殿は機転をきかして皆無事に連れ戻ったのだ。恐れ入ったわい・・・
「穴山様、忍びの者が戻りました」
「うむ」
忍びの者はさすがに足が速い。船が行けぬ事を伝えて、その後動向を見て知らせよと依頼したのだ。勝頼様本隊が天神山を発ったか、或いは大井川まで来たかの・・・
「ご苦労だったな。して如何なった? 」
「昨日昼に伝言を伝えまいた。ですが、今朝未明に朝比奈勢の急襲にて天神山勢は全滅。勝頼様も討死」
「何・」
「なんと・」
頭が真っ白になった。
金丸殿らが全員無事戻ったのだ。勝頼様らも皆無事に戻るだろうと思っていたのだ。
「何故だ、某の時には、彼等からそんなに敵意を感じ無かったが・・・」
「前日に乱取りをした様ですな。食料を奪い女を犯して、多くの民を殺した。戻っては来なかったが、昨夜も百名三組が出ておりまいた。それで怒りをかったのでしょう」
「・・・」
「禁止していた乱取りを何故・・・」
なんという事だ。勝頼様が戻って来られたら厄介だとは思っていたが、いざ亡くなられたと聞けば喜んではおられぬ・・・
「金丸殿、聞いての通りだ。急ぎ戻って諏訪を固めてくれ」
「畏まった」
甲斐を抑えてくれていた飯富殿が隠居した。代りは馬場殿だ、馬場殿も隠居の意向だがしばらくの間辛抱して貰った。
とにかく人がいない。かつてはキラ星のようにいた勇将たちが今は武藤殿、土屋殿・小山田殿くらいなのだ。
「お方様、武田の本拠は甲斐で御座る。躑躅ヶ崎館にお戻りになりませぬか」
「妾は太郎の為にも、一揆と病が蔓延る甲斐に戻りませぬ」
「左様で御座りますか」
お方様は駿府で生まれ甲斐に嫁いだ。再び駿府に戻ったからには甲斐に戻りたくないお気持ちは分る。
某とて開けた海と雄大な富士のお山が見える駿府の暮しは気に入っている。だが、甲斐を失えば武田の存在自体が崩れよう。いずれは甲斐に戻らねばならぬ・・・
「穴山様、大変で御座います! 」
「今度はなにだ? 」
「清水湊に伊勢の船団が入ったという報告です」
伊勢の船だと、偶に海上を航走している商船か。焼津湊から北条領の重須湊に向かう船だと聞いている。それが清水湊に入ったとなれば、我らと商いする気になったか。
「船の者らは何と言っているな? 」
「船の者とはまだ接触しておりませぬ。そこにいた海賊衆が、とにかくすぐに館に知らせよというのみで、恐慌状態の様な有様で・」
「そうか。すぐに人をやって・いや某が行こう。行って直接話を聞いた方が早いわ。馬を引け」
「はっ! 」
恐慌状態だと・・・何故そんなに怖れる、過去に何かあったのか? それにしても、うちの水軍は肝心な時に役に立たぬ。
伊勢の船が来た目的は商いか、それならば歓迎だ。海を得たからには、船を動かして商いで銭を稼ぎ国力を上げるのだと、亡き御屋形様がよく仰っていた。戦をするのは銭が掛かるのだ。
「なんと五隻もか・・・」
清水湊に近付けば、その大きな帆船が停泊しているのが見えた。伊勢の船と聞いて一・二隻だと思っていたが五隻もいる。大きな船が五隻も並ぶと壮観だ、水軍の者らが肝を潰すのもわかる。
湊は異様な雰囲気に包まれている・・・この重々しい雰囲気は商いの話ではないな。だとすればいったい何用だろうか・
北畠家の家紋である笹竜胆が掲げられている船の前に、揃いの武具を着けた兵が整然と並んでいる。当世具足というのだろうか、甲冑に比べて随分簡素で動き易そうだ。
湊の端には武田の水軍衆が縮こまっている。
小浜に千賀・越賀はいるが青山と総大将の岡部は見当たらない。今の武田水軍はその五人の船長が率いて、それぞれの下に百五十から二百の水夫と兵がいて総勢八百の勢力だ。他家に比べて多いのか少ないのかは分らぬ。
ここまで近付けば、船の大きさと外観に圧倒される。船の側上部には六箇所の扉が開いていて丸い大砲が見えている。整然と並ぶ兵の一番手前・隊長らしき男に尋ねる事にした。
「某、武田家執政の穴山信君で御座る。伊勢・北畠家の方々が我が清水湊に何用で御座ろうか?」
「穴山殿で御座るか。某、北畠家陸戦隊隊長・家代之清で御座る。今すぐに殿が降りて来られるので、時間を取らせて申し訳ないがしばしお待ち下され」
「承知した」
殿・ということは北畠家のご当主が見えられているのか。それは予想外の事だった。とにかく待つしかあるまい・・・
甲板に数名の男らが現われて、船側に儲けられた階段を降りてくる。その中心に一際大きい武士がいる。あれが北畠家ご当主か。
家代殿が横の兵に囁くとその兵が駆けていって報告している。
報告に頷いたその男がこちらを向いた。まだ若い・二十前半か・顔も目も大きい異相だが、その目には嫌な感じはなく、逆に穏やかな知性を感じた。
そうか名門北畠家は公家でもあるのだ。言葉使いには気を付けなければならぬ・・・
「殿に礼を取れ! 」
号令が掛かると居並ぶ兵士が体を真っ直ぐして前に鉄砲を立てた。全員が鉄砲兵だとそれで気付いた。
兵士は真っ直ぐ前を見たまま微動だにしないが、北畠殿らしきその男はゆっくりと兵士に目を向けて進んでくる。
「家代隊長、日頃の調練が活かされた見事な隊であるな。眼福致した」
「はっ、殿に検兵頂きまことに光栄で御座ります」
やはり我らの兵とは、礼の仕方や言葉使い・何もかもが違う・・・
「それにしても久し振りだったな。家代」
「はっ。家代之清、ご立派になられた殿のお姿に目頭が熱くなり申した」
「うむ。陸奥で子供らに字を教える傍ら、山中家の豪傑方に手ほどきを受けたからの。お蔭でおのれの身だけは何とか守れる様になったな」
「某には殿を御覧になった大殿のお喜びのお顔が想像出来まする・」
陸奥・・・山中家・・・どうやら北畠殿は久し振りに家臣と会ったようだな。某、呼ばれていないのに、その邂逅を邪魔したようでなんだか居心地が悪い・・・
「殿、このお方は武田家執政の穴山信君様で御座いまする。我らの到来を聞かれてわざわざお越し下さったと伺いました」
「おお、そうであった。身内の話で失礼致した。武田家の執政殿が直接お迎え下さるとは思いませなんだ。私は北畠具房、名目上は北畠家当主ですが、まだまだ半人前・未熟者です」
「武田家執政の穴山信君で御座る。突然、伊勢の船が入ったとの知らせに、何事かと駆けつけて来申した」
「左様でした。それはお手を取らせました。伊勢北畠家は尾張三河から関東に商船を出していますが、独自の寄港地が無く不自由しておりました。そこで、この地を拠点として整備しようと参ったのです」
「・・・拠点とは清水湊に店を持ちたいという事で御座いますか? 」
「いいえ、違います。この地を北畠領として経営すると言うことで御座る」
「・・・ここは今、武田領で御座るが? 」
「知っております。つまり北畠はこの地を奪いに来ました、侵略しに来たのです。今おられる方々は、北畠家に臣従するか戦うか選んで下され」
まさか。北畠家は駿府を侵略しに来たのだ。なんという事だ。
「・・・なんと無体な、こちらにも都合がありますぞ。長い戦を終えたばかりで我らに戦をする力はありませぬ・・・」
「はい。無体であること、長い戦を敗戦で終えたことも知っております。ですが、武田は徳川や朝比奈の都合を聞いて戦を始めましたか。徳川が疲弊仕切っているので戦を遠慮しましたか? 」
「む・・・・・・」
ぐうの音も出ない。いっそあっさりと降伏するか、いやそれは無理だ。武田家はどのお家にも屈しない。だが今、戦って勝てるか、兵が集まるか・・・
「では、執政殿がわざわざお迎えにお出で下さった御礼に、一晩待ちましょう。進軍は明日の朝に致します」
「明日の朝・・・」
「では穴山殿、某はこれで失礼致します。再びお会い出来ると良いのですが・」
北畠殿は船へと戻っていった。我らは考える時間を貰えた様だ・・・
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