第399話・老兵戻る。
永禄十四年(1571)十二月 遠州大井川畔 馬場信春
寒いのう・今冬は一段と冷える。野営した大井川の岸辺は一面の靄だ。水面から煙のように靄が上がっている。
この様な時期に敵地で逃避行をするのは堪える、儂も五十の半ばを超えたのだ。いい加減嫌になった。だが気に喰わぬやつばらが居ないだけマシか。
昨日までいた天神山城のことは思い出しても腹が立つ・・・
天神山城を攻略中の甘利隊に合流すべく菊川河口で船を降りた。ところが甘利隊ががいない。しかも目標の天神山城もがら空きだ。
そこで取りあえず城を乗っ取って腰を据えたのは良いが、味方の隊が見あたらない。さらに広範囲に斥候を放った結果、どうやら武田隊は遠州から引き上げた様だった。
なんと我らは、再び孤立したのだ。
「このままでは兵糧が尽きる。即座に撤退すべし」
「馬場殿、それでは勝頼様に危険が及ぶ。ここは兵糧を節約して水軍が来るのを待つべきだ」
跡部の言うことも分るが兵糧は少ないのだ。あるうちに行動を起こさないと手遅れになる。
「来るかどうかも分らぬ船を待つのは危険だ。船が来なければ飢えて死ぬことになる」
「運んでくれた水軍衆は、我らが孤立したと知り急いで迎えに来よう」
武田水軍はあまり当てにならぬ。那古野から伊勢湊に侵攻しようとした時、伊勢の船を見て尻尾を巻いて逃げ戻った。さらに豊川湊から駿府に帰り着けなかった船もいるという。
「儂は水軍をあまり信用していない。武田水軍は脆弱だ」
「それでも、陸地を行くより遥かに安全だ。船を待つべし」
跡部と意見が合わないのは初めからだ。戦場で釣間斎や跡部は愚策を平気で言い、それに勝頼様が賛同するのだ。それでも山県殿がおるうちは我らの策を取られる場合もあった。だが、儂一人ではな・・・
「二人の意見は分った。余は兄上が必ず船を寄越すと信じたい。故に今少し船を待とう。だが馬場の懸念も分る、ならば吉田城の時のように二手に分かれよう。馬場は陸地を駿府に赴き、水軍がいれば兄上に会い水軍をこちらに寄越すように願ってくれぬか」
「承知致しました」
勝頼様がとった策は兵糧惜しさに我らを追い出す腹がみえみえだった。むかっ腹が立ったがこやつらの機嫌を取るのも最後だと思って了承した。
翌朝、五百兵で天神山城を出た。敵の追撃は限定的で直接対峙しての攻撃はなかった。だがあらぬ方向から矢が飛んでくる。これが実に厄介だった。交替で楯をかけ回して、時には敵が居ると思われる方向に鉄砲を撃ち込んで牽制した。
天神山城から大井川まで約六里、強行軍であれば一日で通過出来る距離だ。朝早く出て暗くなって到着した時には二十名が死に五十八名が負傷していた。
大井川に近付いてからは敵の追撃が無かった故に、河原で夜を明かすことにした。水量は少なそうだが怪我人がおるので夜の渡川を諦めた。川を背に野営した。警戒を厳重にしていたが夜襲は無かった。
「よし、朝飯前に川を渡る。先発隊は飯の支度と荷車の調達。続いて死者・負傷者を運ぶ。皆で甲斐に戻るぞ! 」
「おお! 」
怪我人は無論、死んだ者もみな甲斐の家族の元まで連れて帰る。それが某の亡き御屋形様に捧げる最後のご奉公だ。甲斐に帰還したならば隠居する。
駿府武田館 穴山信君
一刻も早く領地に戻り建て直したいところではあるが、駿府に留まりお館様に代わって政を行っている。領地の事は家臣に任せた、幸いな事に我が領地は駿府に隣接しており何かあればすぐに対処出来るからな。
館には各地から次々と報告が届く、そして今届く報告は仰天するものばかりだ。
まず遠州北部に攻め入った高坂隊は、総攻撃を行なって敗れ退却。
追撃してきた井伊隊が飯田城・大島城・高遠城を抑え伊那を制圧。
そして、信濃・高坂殿と信州小県の真田殿が自立した。武田家とは敵対するで無く友好的自立だ。
さらに木曽殿が美濃斉藤家に臣従して、安曇野が斉藤家におちた。
つまり武田家の領地は、甲斐と駿府・諏訪のみとなったのだ。半減したと言える、まあ勝頼様のご領地が激減したと言う訳だ。
甲斐を固めていた甘利隊は、武藤・土屋隊に排除され甘利殿は逃亡したという。
「穴山殿、馬場殿で御座る。馬場殿が兵と共に東から来られました! 」
「なに。馬場殿が・・・」
馬場殿は山県殿と共に勝頼様の三河侵攻軍に加わっていた。吉田城から勝頼様と水軍船で天神山城近くに降りたと聞いているが。
「馬場殿、ようご無事で。南遠州から撤退してこられたか。勝頼様は? 」
「穴山殿、左様で御座る。我らは城兵のいない天神山城を奪取して籠もっておりましたが、兵糧少なく水軍船が来るのを待つという勝頼様方と分かれて、敵地を突破して帰還致した次第・」
「それはあっぱれな。我らもついこの前総攻撃で敗れ、命からがら敗走して御座る」
「そこで聞き申した。義信様が行方不明の大惨敗とのこと・」
「左様。そこで不肖某がお方様の命により、太郎様を押し立てて政をしており申す。馬場殿も後継は順当に太郎様だとお認め願えぬか・」
「義信様亡き後、武田家当主は勝頼様で無く嫡子の太郎様と。なるほど某は賛同致しまする」
「そうで御座るか。実は武藤殿・土屋殿は重臣で計るべきと言われて、某は家督のことは当主家で決めるべきと・・」
「ですな。何より勝頼様はその器にあらず。某、甲斐に戻って飯富殿を説きましょう」
やった。重鎮の馬場殿が推してくれれば力強い。保科殿、甘利殿、秋山殿ももういない。残るは・・・山県殿だ。
「馬場殿、山県殿の行方は? 」
「知り申さぬ。吉田城から伊那目指して敵中を撤退していったが。山県殿ならば見事切り抜けて辿り着いているだろうが・・・その伊那が他領と・・・どうされたかの・・・」
山県殿も行方不明か・・・武田家を上げての大戦に敗れたのだ・・・
「穴山殿、某、水軍船を迎えに寄越すように勝頼様から伺っておりますが」
「はい。岡部らは我らが撤退して来た事を知り、敵中に勝頼様を残したと気付き慌てて迎えに出航した様で御座る」
「左様か。ならば某の御用は済んだな・」
「ところで馬場殿。釣間斎殿が話に出て来ませぬが・」
「釣間斎殿は五百兵を率いて井伊谷に侵攻してから、何ヶ月も音沙汰無しで御座る。おそらく部隊は全滅しているかと・井伊谷にそれ程の兵がおるとは思っておらなんだが、高坂隊を押し破り伊那を制圧するほどの兵が居たのならば納得で御座る」
「左様で御座るか・」
釣間斎が死んだとは朗報だ! と心の中で快哉を叫んだ。
しかし、まもなく水軍の船が勝頼様方を連れてくる・・・難問だ。ともかく穏便に甲斐か諏訪にご帰還を願うしかないか・・・それとも執政として強引に命じるか・命じられるか・・・
馬場殿らを送り出して、その時の事を考えて憂鬱な想いに沈んでいた。とにかくお方様と相談しよう。
「穴山殿、水軍船が戻って参りました」
「・・・来たか。勝頼様方はご無事か・・・」
「そ・それが、たどり着けなかったと。朝比奈水軍と交戦して逃げ帰った様で・」
「なに・・・岡部殿を呼んで参れ」
「穴山殿、真に持って面目御座らぬ。勝頼様方をお迎えには行けぬことになりまいた・」
「朝比奈水軍が大砲をな・・・」
「はい。あれには歯がたちませぬ。無理で御座る」
御前崎湊にいた朝比奈水軍は二隻。それを五隻で襲いかかって大砲を放たれて二隻が被弾、ほうほうの体で逃げ帰ったと・・・
これで勝頼様方の戻るのが遅れる。その間じっくりと駿府を固めて置くべきだな。だがしかし執政としては、そのまま放置しておく訳にはいかぬ。船が出せぬと伝えなくては・・・忍びにでも依頼するか。
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