第397話・撤退戦。


東海道・宇津谷峠 穴山信君


やれやれ、やっとここまで戻って来た。峠に達すると安堵の気持ちが湧き出て、崩れるように座り込んだ。あとは下るだけで駿府の町だ。そちらから朝の光が差し始めている。


「ここまで来れば安全じゃ。しばし休もうぞ」


 我らの隊は昨日からの命からがらの撤退戦で疲れ切っていた。即座に皆へたり込みひっくり返った。戦と撤退戦そして追っ手に怯えながら夜通し歩いてきたのだ。

とにかく腰が抜ける様に疲れた。おのれの立場を考えて出来なかったが、鎧や刀を放り投げたいと何度思ったことか・・・


 戦場で某は後軍を指揮して奮闘していた。いよいよ追い詰められて敵に突撃して撤退するということに事になった。といっても先陣は既に交戦しているので戦場を駆け抜けられる訳ではない、当然後方や横から敵が攻撃してくる、我らはそれに対応しているうちに本隊を見失ったのだ。


 敵味方が入り乱れた乱戦だ、どうにもならなかった。こうなれば廻りの兵を纏めて脱出するしか無い。敵だらけの中で唯一脱出出来ると思えたのは後方だ、当然後方に向かった。

 後方の敵を切り開きやっと敵の包囲を切り抜けたとき、敵中を真っ直ぐ進む一隊が見えた。義信様らであろうその隊に従う兵は少ない、だが敵は惹きつけられる様に群れていた。我らに向かって来る敵が少なかったのはそのせいだろう。


それでも富田城近くまでは餓狼のように群がってくる朝比奈勢と厳しい撤退戦を戦った。そこで待っていてくれたのは武藤隊だった。敵の追撃は五百の騎馬隊を見て引き返した。

 そのまま諏訪原陣城に入り最小限の物を持って東に逃げた。追っ手も怖いが落ち武者狩りも怖い。奴らは夜通し目を光らせて彷徨いている。

薄暗くなった大井川を決死の気持ちで渡った。幸いな事に水量は少なく誰一人流される事無く渡れた。

 朝比奈勢は夜の大井川を渡ってまで追ってこないだろう。川を渡り少しは安堵できたが、そこはまだ無防備に休める地では無い。故に疲れた体に鞭打って夜通し歩いてここまで来たのだ。


 酷い惨敗だ。この様な負け戦は初めてだ。御屋形様が尾張を取った時には、武田は最強の兵・日の本にもはや敵はいないと思ったりしたものだが、いったい何がいけなかったのだろう・・・


 ・・・



「殿、朝餉が出来ましたぞ」

 揺り起こされた時には、お天道様が眩しかった。少し眠ったので皆の顔色も良い。寝ている間に合流したのだろう、兵が増えている。坂を上がってくる者や峠で休んでいる者など街道には疲れ切って肩をおとした武田兵が散見される。

 領地から連れて来た兵は三百五十、武藤隊に合流したときは百兵ほどだった。諏訪原城で二十五、大井川で十と加わって来て、今は百八十ほどになった。いったい何人の兵を失ったのだ。これからが思いやられるわ・・・



 少し時間が経つとまとまった一隊が向かって来ているのが見えた。あれは、小山田殿だ。小山田隊は義信様のお近くに居たはずだが・・・


「穴山様。御無事で御座ったか・・・」

「小山田殿、其方こそよくぞ無事で! 」


 小山田隊の兵はおよそ百名。譜代家老衆の小山田殿は二百五十兵で参陣したはずだ。あの困難な戦の中心にいて、よくそれ程の勢を残したな。さすがは北条との国境を守る強兵だ。


「小山田殿。義信様は? 」

「某らは群がる敵に弾かれて義信様らを見失い、前進することが叶わず撤退致した。真に持って面目御座らぬ・・・」


「稀に見る乱戦で御座った、仕方が無いこと。だが義信様の動静は? 」

「分りませぬ・・・」


 小山田殿は力無く頭を振った。


「某、武藤殿から掛川平野の入り口には、城門の様な関所が設けられて突破できぬと聞いたが・」

「それは某も聞き申した。敵本隊と思える隊にまっしぐらに突撃していたのが、義信様らは見た最後で御座る・・・」


 うぅ・・・む、義信様らが見事敵本隊を断ち割って掛川城方面に逃走しても、東海道経由で戻れぬのだ。街道を使えぬとなると、あとは幾重にも連なる高い山々・・・果たして追撃を躱しながら帰還できるだろうか・・・

これは義信様が亡くなったことを想定しなければならぬな・・・



「なんと、殿が・・・」


 ともかくも形ばかりだが隊列を整えて駿府に戻り、武田館で戦況を報告するとお方様は崩れ落ちた。


「お方様、まだ殿が亡くなった訳では御座らぬ。お気を強うお持ち下され」

「ですがその時を考えなくてはなりませぬ。まだ太郎も幼くそなた方の支え無しではやってゆけませぬ。穴山殿、小山田殿、頼みますよ」

「はっ」

「ははっ」


 義信様が亡くなられた後は、太郎様を補佐して武田家を盛り上げる。


 それが順当だろう。勝頼様を仰いで跡部や釣間斎などに指示されるのは絶対に嫌だ。それなれば武田家と距離をおくわ。



 すぐにでも領国に帰還したいところを、駿府に留まり雑用に追われた。一宮、葛山、関口、福島、由比、三浦などの戻って来た国人衆に、義信様ー太郎様の継嗣を認めさせ誓詞をとった。



「殿、大変です。甲斐が閉ざされていると・」

「なに、誰が、何故・・・」


 知らせは一足早く領国に戻った小山田殿からだ。小山田殿は同盟を放棄した北条との国境を守るために戻ったのだが。


「甘利殿です。甘利隊は遠州から帰還する際に多大な損害を出した様で、それは我ら本隊が兵を引き上げたためだと・」

「・・・」


 そういう事か。甘利隊の引き上げと本隊の出陣で兵を集めたのは、まったく別の軍事行動だ。だがそれを甘利隊に知らせていなかった、引き上げる隊に知らせる必要を感じなかったのだ。

 それを甘利殿が恨んでいるのだ・・・困った。


武藤隊・土屋隊が戻って来た。残念ながら義信様の行方は不明のままだ。ふたりは太郎様の後継に理解を示したが、同意を避けた。

義信様が亡くなったとすれば、後継のことは改めて重臣らで話し合わねば無理だろうと言うのだ。真っ当な判断だ。だが某は面白くない。


「そもそも、後継のことを家臣らが決めるのがおかしい。これは現当主家が決めることだ」

「うむ。穴山殿の言われることも一理ある」

「だが、武田家には国を守る強い当主が必要だ」


「ならば、一人だけ三河に進軍して大量の兵と兵糧を消費して国を傾けた勝頼様に守れるのか。跡部や釣間斎などの痴れ者がお傍に居なければ別だと思うが・」

「む・・・」

「・・・」

 あっ、言い過ぎたか・・・だが、口に出した以上は仕方がない。太郎様を頂いて甲斐と距離を置く計を進めよう・・・



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