第391話・甘利隊の退却。


永禄十四年(1571)十一月 三河吉田城


 ここに籠もって四ヶ月が過ぎた。精一杯食い延ばしてきた兵糧も銭も尽きようとしている。このまま飢え死にするよりも、犠牲を払ってでも撤退すべきだという者が多くなった。戦って死ぬ方が楽だと・・・

 猶予はあまり無い。食料が完全に尽きる前に決断しなければならぬが、来るかも知れぬ味方の水軍船を待っているのだ。

半月前に本隊に送った伝令が着いてすぐに廻船してくれたら、そろそろ到着する頃あいだ。



「船! 」

「船が来ます! 」

「武田菱が上がっているぞ! 」

「味方だ。武田の水軍が来てくれた!! 」



 来たか。ひょっとしたら見殺しにされるかも知れぬと思っていたが・・・兄上は我らの救出を指示されたのだな。


 来たか。来てくれたか。ひょっとしたら見殺しにされるかも知れぬと思っていたが・・・兄上は我らの救出を指図されたのだな。


「船は兵糧を積んでいるぞ! 」

「米だ。めしが食える! 」

「これで腹いっぱい飯が食える! 」


 船は停めようとする徳川隊に火縄を撃ち込みながら、城の近くまで遡上して来てくれた。すぐに食料が降ろされて兵たちから歓声が上がる。



「勝頼様、お待たせしましたな」


「よくぞ来てくれた治部右衛門。船には何人乗れるのだ? 」

「へい。何と言っても駿府までは長丁場で御座るので、一隻に三百名で頼みます」


「五隻で一千五百か、廻船にどれ程掛かるな・・・」

「風の具合に寄りますが御前崎まで二・三日、そこから清水まで一日で御座る」


「往復で十日程か・・・」


 我らは五千五百名。四往復するとなれば四十日は掛かる事になる。それは長い・・・


「勝頼様・」


「山県・何だ」

「天神山城を攻略中の甘利隊は、兵が少なく苦労しているとか・」


「・そうか。このまま撤退するより、天神山攻撃に加わるか」

「勝頼様のお立場を考えたならば、そのほうが・」


「よし。治部右衛門、天神山城に援軍するぞ」

「天神山城ならば・菊川河口で降ろせば良い。それなれば二日で着き、四百名は

乗れるかと」


「五隻で二千か。ならば三度往復すれば皆渡れるな」


「いや、勝頼様。そう単純では御座りませぬ。海は魔物で廻船は命懸けで御座れば、一度だけでご勘弁願いまする。遠州灘を越えて何度も往復する腕は今の我らには御座りませぬ」


「い・一度か・・・」


「左様。現に先の戦で駿府に向かった船の半数が今も行方不明で御座ります」


「・・・」


「勝頼様、こう致しましょう。勝頼様と馬場殿が甲斐勢を中心に船で天神山城攻略へ。某は残った兵と陸路を切り開きながら伊那に戻りまする」


「しかし山県、それではお主が・・・」


「前の戦でも撤退戦を経験しており申す。なに、しんがりを交替しつつ野田城を過ぎれば後は何とかなり申す」


「・・・」


「勝頼様、現状ではそれがもっとも良い案かと。付け加えれば山県勢が先に退却し、その姿が見えなくなるまで我らが火縄で牽制すれば、助けになろうかと思いまする・」


「馬場。・・・よし分った。その策でゆく。準備致せ」


「「はっ!! 」」


 こうして、勝頼隊の南遠州への転戦と山県隊の決死の撤退戦が決まった。

尚、天神山城に対峙していた甘利隊が撤退する事に決まったのは、水軍が吉田城に向けて出立した後だ。当然、、水軍と孤立していた勝頼隊はその事を知るよしは無かった。




永禄十四年(1571)十一月 遠州天神山城 小笠原氏興


 武田隊がここに侵攻して来て一年が経つ。初めは甲斐から来た甘利隊三千だったが、途中に仕掛けた罠や朝比奈城や半島に設けられた隠し砦の攻撃で数をどんどん減らしてきた、この天神山城に対峙して陣を築いた敵兵は二千までに減っていた。


 我らは天神山城に一千、周囲に潜んだ隊はあわせて一千兵がいる。その数では難攻不落の天神山城は到底落ちぬ、逆に反撃されたら壊滅しかねない兵数だ。

それを悟った甘利隊は亀のように陣を固めて閉じ籠もった。さすがに遠征を重ねて来た武田隊だ、その陣の固さは折り紙付きだった。


そして、どうやらここに陣を敷いているだけで彼等の役割を果せているらしい。無駄に時間が過ぎていった・・・


 ふざけた話だ。我らは夜襲朝駆けで安眠させずに、執拗に攻撃して数を減らして補給を絶った。それも北からの武田本隊の進出で潰えたが、その間に甘利隊は一千少しまで兵を減らしていた。

最近は甲斐の一揆の話が効くだろうと、夜襲そっちのけで呼びかけたのだ。そのせいあってか足元が危うくなった武田隊は、甘利隊を一揆鎮圧に国に帰して掛川城を総攻撃するつもりだという。


「武田隊、撤退の準備をしています! 」


「うむ。伝令の知らせどおりだな。武田のお蔭でこちらは大迷惑したのに、あっさり国元に帰れると思っていやがるな・」


「左様。腹が煮えますな。ですが、朝比奈城や御前崎に侵入していた敵は、すでに北に移動してもぬけの殻という報告が入って御座るよ」

と、副将の久能宗泰が微笑んだ。


 そう。武田は掛川城に総攻撃のために、急いで南に散らばっていた兵を集めた。その前に我ら天神山城の目前にいた甘利隊に甲斐に帰還する許可を出したが、彼等は撤退の準備に時間が掛かったのだ。その時間が彼等の不幸だ。


 甘利隊の帰路を護る武田兵はもういない。


「よし。武田の奴らばらに鬱憤を晴らすぞ。裏口から出て散り散りとなって中尾砦に走れ。旗はそのまま、兵糧も要らぬ。武田の奴らを追い抜いて待ち伏せするのだ。槍だけ持ってすぐに動け! 」


「「オオォーー 」」




 武田軍甘利隊


 甘利隊はその日早朝に出発して、ゆっくりと周囲を警戒しながら進み、巳の下刻(11時)に朝比奈城下の街道入り口に達して安堵していた。ここからは武田軍の制圧地帯で安全だ(と思っていた)。

撤退の準備は昨日の昼には終っていたが、明るい内に敵地を移動するために翌朝まで待っていたのだ。

ここで少し休んでから真っ直ぐ峠を越えて駿河の海に出て萩間川の畔で一泊するつもりであった。



「朝比奈城の守将は、小山田信茂殿でしたな。御挨拶の伝令を出しますか? 」


「・・・いや、止めておこう。我らは先に撤退するのだ、警備方に伝えるだけで良かろう」


「そうですな・」


と、甘利隊は伝令を出さずに朝比奈城下まで進んで来た。何故かそこまで警備の誰何を受けなかった。勢力圏の境では必ず警備方がいる筈なのに・・・


「・・・隊長、おかしいですな」

「うむ・・・」


「ひょっとして我らの気持ちを慮って・・・」

「・・・かも知れぬ」


 実際には、それはあり得ない。士気が地に落ちて継戦不能となっていた甘利隊は、その考え方までまともでは無かった。


「敵襲!! 」


 叫び声が両将の思案を断ち切った。 安全圏だと思って斥候を出していなかったのだ。


「左手から敵が湧いています!! 」

「敵、多数!!! 」

「右からも敵!! 」


「駆けよ。止まらず真っ直ぐ峠に向かえ! 」


 狭い川沿いの道、両側の山からの敵には為す術も無い。一瞬考えた甘利は逃げ出すことを選んだ。たぶんそれが最良の手だろう。


「武石・丸子、交替でしんがりを頼む。無理に戦わずに弓火縄で足止めせよ」

「「畏まった」」



 一刻後。峠に待ち受ける甘利の目に、しんがりを努めた武石・丸子隊が撤退してくるのが見えた。追っ手はいない。


「二人共無事だったか・・・」と甘利信忠は呟いた。

 撤退してきた二千兵の内、峠まで来られたのは一千五百、あそこで五百もの兵を失ったのだ。油断していたと言えばそうだが、


「それにしても何故、義信様は我らを待たずに兵を引いたのだ・・・」


 甘利隊は甲斐目指して悄然として落ちていった。


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