第390話・殿のご帰還。


「「ウオオオオーーー」」

この日、北遠州の二俣は戦の響めきに包まれていた。


 北から侵入して来た武田家・高坂隊と守備側の朝比奈国・井伊隊が全軍を上げて衝突していた。戦いは無数の小隊に分かれた両軍の旗が目まぐるしく入り交じっての混線となっていた。


「耐えろ。押し戻せ! 」

激戦の小半時過ぎ、徐々に高坂隊が北へ追い詰められるが、高坂弾正の本隊が踏み留まり耐えている。


「敵の本隊を突く。我に続け! 」

と、井伊の一隊が突撃して行った。その先頭に立つのは、井伊家当主の井伊虎繁その人であった。


 鋭い突撃だ。井伊隊は錐のように高坂隊にくい込み、遂に大将同士の一騎打ちが始まった。

バシッ、ガシッと激しい攻防が続く。その隣では武田隊・原昌胤と井伊隊・目賀田貞政の客将同士が戦っている。こちらも激しい攻防だが、何故か二人共嬉しそうだ・・・


「バキッ」という鈍い音が響いた。高坂の槍が折れ穂先が飛んだ。続く井伊の打撃を柄で受け押し合った。目前で睨み合った二人が小さい声で話している。


・・・井伊殿、また会いましょうぞ・・・

・・・うむ。その時は酒でも酌み交わしましょう・・・


「我らの負けだ。引けー、撤退せよ! 」

 離れた高坂が大音声で告げる。


「撤退!! 」

「信濃に戻るぞ! 」


 高坂隊は負傷者を助け北へと引いて行く。それをじっと見つめていた井伊虎繁が口を開いた。


「戦は我らの勝利だ。勝ち鬨を上げよ! 」


「エイエイオー!! 」

「エイエイオー」「エイエイオー」「エイエイオー!!! 」

と井伊隊は怒濤のような勝ち鬨を上げた。


「よし追撃だ。武田に馳走するぞ! 」

「「「おおっ!!! 」」」




数日後 秋葉街道 小川路峠 井伊虎繁


小川路峠に立った。ここからは懐かしい木曽の山々と井伊谷が遠望できる。

あそこを離れたのは何年前だろうか。それから暮しが大きく変わった。新たな地で新たな立場を得て妻も子も出来た。

そして今、兵を連れてあの故地を侵略しようとしている。


「井伊殿、飯田が懐かしいですな」

と、先頭を進む松岡が嬉しそうに言う。


「懐かしい。だが、某が率いた多くの兵が帰らなかった地だ。それを考えると胸が苦しい・」


「・それは考えても仕方無きこと。我らが無事戻れるのもまた、井伊殿がいてくれたお蔭で御座りまする。ここは思い通りになさるべきかと」


「無論、覚悟はとうに出来ておる。例え伊那の民が反発しようと、武田を追い散らして力で我が領とする」


「はっ。某、何処までも付いて参ります」


 生きかえった某の今の主君は妻でもある乙葉だ。そして妻を大いに助けてくれた山中百合葉様や隣国の斉藤帰蝶様の意向も無視出来ぬ。


『伊那を取りなさい』と命を出したのは帰蝶様だ。

伊那は約束を守った乙葉に与える褒美だそうだ。『それに私の可愛い妹の領地が伊那谷とその廻りだけでは少なすぎるわ』とも言われた。


 元は一万石も無い井伊家を、朝比奈様を動かして五万石、さらに内政の援助で八万石以上に増やして呉れたのは山中百合葉様だ。

 そこへ持って帰蝶様は、伊那郡八万石を取れという。それが苦境に喘ぐ伊那の民を救う道だと言われればやるしかあるまい。



「飯田城まであと僅かだ。皆に武具を改めさせよ」


「武具を改めよ。戦に備えよ! 」


 遂に天竜川の手前まで来た。天竜を渡れば一里ほどで飯田城だ。


「虎繁様、飯田城の城兵はおよそ五百です。周辺の国人衆が集まっているようです」

蕾(つぼみ)が知らせてくれた。蕾は茜殿の配下の一人で数人の忍びを率いている女忍びだ。『虎繁様、蕾なら伊那や甲斐にいる乱派衆らと繋ぎがつきます』と茜殿が付けてくれたのだ。

 どうやら伊那や甲斐にも山中国の間者が多数入っているのだ・・・


「五百か。飯田城は広い、二千兵おれば堅城だが五百では手が回るまい・・・」


某が率いて来た兵は五百。目賀田殿に鍛え抜かれた精兵だ。倍の敵に立ち向かうのに不足は無い。しかし五百か、思ったより多いのは前もって解き放った捕虜兵がいるからだな。

主力のいない井伊谷に四百もの捕虜兵を置くのは不穏だからな。困窮した伊那に今までの給金代わりの兵糧と銭を渡して戻したのだ。

少々早まったかな・・・



「井伊殿、我が兵も城内におりますれば、まずは城門に向かいなされ」

「・・・」


 松岡殿は信用している。だが・・・と、目賀田殿と目が合う。


「左様ですな。某も不安はありまするが、鉄砲の射程外までは問題あるまい」


「だな。よし参ろうか。楯や火縄の準備も万全にな」



 川を渡り丘陵を登り飯田街道に出た。街道を進み大平峠から流れる松川を渡ると城門が見える。


 ん、城門が開け放たれている。

 街道の両端に大勢の人々が並んでいる。

 城に無数に翻る旗は!

 井の旗だ。井伊家の旗・・・


 まさか・・・


「殿、お帰りなされませ! 」

 列の先頭に並ぶは、松岡殿の筆頭家老の市田殿だ。


「「お帰りなされませ。殿!! 」」

座光寺・飯島・片切・松田・知久・室賀・小笠原の国人衆が並んでいる。


「おおっ・・・只今戻った。某、名が変わった。今は井伊虎繁という」


「「「井伊の殿様。お帰りなされませ!!! 」」」

 民から盛大な声が届いた。

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