第388話・北遠州の状況。


永禄十四年(1571)十月 遠州二俣城外 高坂隊陣地


「二俣城より使者が来ます! 」


 見張りの大声に外に出て見ると、田の畦道を馬に乗った武士がこちらに向けて一直線に駆けて来ている。その急いでいる様子からただならぬ事態だと察せられた。

 稲刈りが終った田は刈り株が点々と並んで、しばし土を休めているところだ。


「どうしたな、佐藤殿? 」

と、門番が使者に声を掛ける。彼等は知り合いだ、いやここにいるほとんどの者が顔馴染みだ。月に二度の模擬戦で相まみえるからだ。


「北条に動き有り。急いで来られたしと殿が仰せで御座る」


彼等の話を聞きながら門前に向かった。門は既に開かれていて、そこに下馬して佇む佐藤殿に返事を伝える。陣地が狭いとこういう時に便利だなと余計な事を感じた。


「相分かった。すぐに参ると井伊殿にお伝えしてくれ」




信濃を治める高坂隊が朝比奈領に侵入して来た目的は、武田家の遠州攻略に旧恩に報いるために呼応して北遠州に兵を釘付けにすることだ。これが終れば武田家を離れることになる、最後のご奉公だった。遠州攻略が叶いそうにない場合は、さっさと撤収して兵力を温存するつもりだった。


 ところが進出して来た二俣城・井伊家の攻撃は凄まじかった。特に昨年末、雨の日の夜に夜襲されて大きな被害を出したのだ。

気が向かぬ侵略、それも手伝い戦でこれ以上の被害を出したくない。かといって武田家の策の一手となっているために撤退も出来ない。それで防御を固くして閉じ籠もっていた。


『寒いので集団調練をしよう』と敵将・目賀田殿が言ってきたのは、閉じ籠もることに飽き飽きしていた頃だった。それを受けて客将・原殿が我が精鋭を率いて対したが、呆気なく敗れ去った。


 後で知ったが目賀田殿は近江出身で山中国から兵の指導に派遣されてきたお方だった。

その後も井伊方と集団調練を何度か行なった。回を重ねる度に気安く話が出来るようになった後、我らの真の目的を明かして井伊家と密約を結んだのだ。


 我らは武田家の旧恩に報いるために、最小の兵で対陣するが攻撃はしない。

 武田家が勝ちを得た判断した場合と、逆に勝ちが無くなった場合には退却する。後になるが、掘り返して荒らした土地を直し相応の御礼をする。

といった実に身勝手な願いだったが、それが井伊家に許されたのだ。


 以降はお互い戦場の・表面上の緊張感を持ちながら気安い付き合いが続いていた。兵の多くも負傷者を装い国に帰して田畑の仕事をさせた。今では僅かな将兵で小さな陣地にいる。



 使者が田の畦道を並足で引き返してゆく。そこは以前、我らが陣を張った場所だ。陣を壊し田床作りから復旧させたのは我らだ。我らが壊して我らが直す、当然と言えば当然なことだ。

さらに今年の田植えから稲刈りも我らが行なった。はっきりいって暇だったからだ。盟約の後二俣城兵は三百に減った。我らも三百を残して国に戻した、それで信濃の田植えも恙無く出来たのだ。



「高坂殿、北条の動きとは何でしょうな? 」

と松岡殿が嬉しそうに聞いてくる。


 高坂家の主な将は、兵と共に皆信濃に帰した。水野への抑えとして残していた次男・昌元と山田三之丞も帰した。北遠州に残った将は、客将の原殿と飯田の松岡殿だ。実は飯田の将兵は戻るように言ったのだが、「いや、某は井伊殿の傍におりたい、残りまする」と言って聞かなかったのだ。


 井伊虎繁殿が元武田家の秋山殿と知って某も仰天した。

伊那から援軍に行く途中に斉藤家に襲われて、死ぬところを井伊家に救われて生きかえったのだとか。

たしかに印象は随分変わた。前より若返って精悍になっている、それに生き生きとして何だか楽しそうだ。お子も出来たらしい。


「う・・・む、ひょっとしたら氏康殿が亡くなったか・」

「氏康殿が・・・有り得ますな。とすると・・・」


 武田は北条家と同盟を結び西に進出している。或いはそれが・・・




「高坂殿、原殿、松岡殿がご来場だ! 」


 開け放たれていた二俣城の門に近付くと門番が城内に知らせる。警戒はされないが少しの油断も無い。こういうところに調練が行き届いた兵の強さを感じる。彼等は我が兵より精強だ。すぐに案内の者が出て来て一間に案内される。

 待つ事無く井伊殿・目賀田殿らが出て来た。

ん・茜殿と言われる娘御もおられる。彼の者は山中国から派遣されてきた乙葉様の護衛とか、と言うことはここに乙葉様もおられるのか?



「今月初めに北条氏康殿が亡くなった。昨日法要に集まった国人衆との評定で氏政殿が武田家との同盟は既に無いと宣言されたという知らせが入りました」


「・なんと」「やはり・・・」

 同盟解消・いや、三国同盟はおそらく今川が滅したときに終っていたのだろう。北条は氏康殿の死去に際してそれを確認して表明したのだ。

 どういう意味があるのか・・・昨日と言われたか、それがもうここに・・・


「昨日の評定後、夕方には神奈川湊の熊野屋に北条家の伝令が訪れた様で御座る。紀伊湊に向かって神奈川湊を早朝出港した船団が、熊野丸一隻をこちらに派遣して知らせそれを偶々港にいた茜殿が早駆けして知らせてくれたのです」


 成る程な。船の便が偶々一致したのか・・・


 いや、違う。

 北条家の動きも素早すぎる・・・

 それに・・・乙葉様の護衛を置いてまで駆けつけて来た茜殿・・・


 これは、重要な事だと判断したのだ。


「お分かりか、高坂殿・」


「某のおつむでは解りかねます・・・

北条が甲斐との同盟が既に無いと表明したのは、京都守護所・結局は山中国に宣言するためかと・・・それを聞いた茜殿が早駆けしてまで知らせたのは・・・・・・そうですな。我らに関係があるからだ。この戦・武田家の遠州攻略は転機を迎えた・・・攻め込んだ武田家は敗戦へと局面が変わったのですな・」


「さすが高坂様で御座います。甲斐では収穫を終えても餓死する民が増えています。一揆が続発してそれを抑える兵も満足にいませぬ。対して朝比奈家はあらゆる事にまだ余裕が有り、反撃の機会を伺っているのです。北条様の動きが無くとも武田家の勝利は最早ありませぬ。高坂殿が想っていることをなし遂げられるのは今だと思いまする」


「・・・相分かった。某、信濃に戻って独立を宣言いたします」


 茜殿の言葉で視界が広がった様な気がする。神の宣託の様に思えた。事が成就すれば茜殿の像を造って拝んでも良いと思った。


「ついでに言っておく。井伊家は高坂殿の後を追って飯田に入り伊那を取る」


「なんと・・・」


 これは初耳だ。たしかに飯田を治めていた秋山殿が戻れば伊那の多くの兵が集まろうな・・・

 伊那が井伊領となれば、高坂もやりやすい。


「井伊殿、飯田へのお帰りは某・松岡が先導致しまする」

「松岡、宜しく頼む」

「はっ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る