第387話・小田原評定。
「腹減っただが。一日一食では力がでねえだ・」
「んだな。それも薄い粥ばかりだ。せっかく城を攻め取ったって言うのに収穫も僅かしか無くいきなり籠城だぁ・」
三河吉田城三の曲輪を巡回している足軽の話し声が暗闇にぼそぼそと聞える。元気が無いのは腹が減っているからだ。なんなら腹の虫の方が良く聞えるくらいだ。
武田勝頼隊が吉田城に入って三ヶ月経った。しかし武田隊の吉田城南部の制圧は進んでいなかった。
それというのも徳川隊が山を降りて進出して来て、豊川を鋏んだ対岸に布陣したからだ。徳川隊はさらに吉田城の東の山にも砦を築いた。吉田城の西は海で、南は開いていたが、それも山上にある船形山城塞からは丸見えである。少人数で出ると確実に攻撃される、容易くは出られぬのだ。
野田城周辺と違って、吉田城南部の民は避難していなかった。秋の収穫も少しはあって徴収もできた。それも民のご機嫌を伺って遠慮しながらだ。当然五千もの兵を喰わせる量では無い。そこで一日二食を一食に変え、さらに野草で水増ししてきたがそろそろ限界を迎えている。
「早く帰って冬備えしてえ・おらが居ねえと難儀するだよ・」
「んだ。おらも子や嬶に会いてさ・でも今年は食いもん取れただかな・」
武田隊の足軽は一番短いもので一年、多くは二年を越え三年目になっている。戦場陣地を巡回しながらも気持ちは家族の居る懐かしい村にとんでいる。
だが戦場にいる彼等の方がまだ恵まれているかも知れない。何故ならば最低限とはいえ毎日食い物が与えられるからだ。
一方、彼等の故郷、甲斐・伊那の窮状は逼迫していた。度重なる出兵で働き手の殆どを戦に取られて田畑は荒れ、その上に戦場に運ぶ兵糧を確保する為に臨時の年貢が何度も集められた。その兵糧を担う農民は食べる物も無く餓死する者も出ている有様だった。
甲斐・某村
「ていへんですだ、お代官様、百姓らが押し寄せてきます! 」
「何だと、うむ。門を閉めろ。急げ! 」
「閉門です。さっさと門を閉めなさい! 」
代官と手代の声に侍二人が小者四名と門を閉める。この代官所にはこれだけしか居ない。戦に人を取られてどこも人手不足なのだ。
必死の彼等は何とか門を閉めたが、すぐに鍬や棒を持った殺気だった百姓らが来て門前に群れた。
「お主ら、ここを何と心得ておる。武田の殿様が定めた代官所ぞ。そこに棒などを持って徒党を組んで押し寄せるとは何事だ! 」
「お代官様、食い物が無くて年老いたおっかあが死んだだ。このままではわしらも死ぬ。お願えだから食い物を分けてくだせえ! 」
「ならん。今は戦時だ、七割の年貢を納めるところを収穫が悪いで例年の五割に減らしたのだ。これ以上減らすと戦場の者らが困るのだ」
「そりゃ無え。例年の半分も取れないのは働き手を皆戦に取られたせいだ。それで五割も税を取など鬼だ、収穫が悪いのはわしらのせいで無え。侍達の無策のせいだが! 」
「何を申すか。百姓の分際で政が悪いと申しているのか、無礼であろう! 」
「なにが無礼だ。根こそぎ持って行かれた、わしらはもう死ぬしか無えだ。死ぬのに礼など構っていられるか。とにかく蔵を開いて食い物を出してけれ! 」
「む・・・解った。上の者と相談致す。今日は大人しく帰ってくれ・」
「何言ってるだ。今だ。いま食い物を持って帰らねえと妻や子が死ぬだ。構わねえ、門を打ち破れ! 蔵を破って食い物を持って帰るだ!! 」
「「「おおおおお!! 」」」
百姓らは野分けの様に代官所に殺到した。忽ち門を打ち破り代官らを叩き殺して蔵を開けて、周辺の村々から年貢として集められた物を奪った。
この様な一揆が武田家の本国である甲斐で頻発したのは、信玄公が亡くなり後を継いだ義信は駿府へ行ったために、民や国人衆の求心力は著しく低下していたからだ。
今の武田家にとって甲斐は、兵と兵糧を無限に捻り出す都合の良い地と化していた。
永禄十四年(1571)十月 相模・小田原
この日北条家の本拠地・小田原の町は篤い喪に包まれていた。
隠居していた先代当主・北条氏康が亡くなり、その供養が盛大に行なわれていた。麾下の重臣・武将・国人衆は元より、周辺大名家や都からも慰問の使者が訪れて、関東の覇者の死を惜しんだ。
法要の後、小田原城の大広間に座す家臣。その前に当主氏政と北条家の重鎮である幻庵が来て座った。
「皆が一堂に会するこの機会に今の北条家の状況とこれからの方針などを周知して貰うために集まって貰った」
真剣に聞き入っている皆は、これから話す事は重要な事だと考えているようだ。
「山中国主導で京の都に守護所が出来て五年が過ぎた。これは日の本全体に大きな影響を与えた出来事だ。当家をはじめ有力大名家が集う守護所は、幕府に替わるものと言っても良い。だが旧来の幕府とは大きな違いがある。ここまでは良いか? 」
「守護所・・・」「幕府・・・」皆は訝しげだ、露骨に首を傾げる者もいる。幕府に替わると言うことが理解出来ない様だ。
「殿、それは山中国の当主が征夷大将軍に任じられたということで御座るか? 」
「いや違う。・・・そうだな、日の本を主導する意味で幕府と言ったのだ。領土的野心が無い山中国は天下を統べることを望んではいないのだ。臣従して領地を返上すると言っても断られるというからな」
「そんな・」「まさか・・」「野心が無い・・・」
「それからもう一つ言っておこう。畿内から中国・北陸にかけては、ここ数年争いが絶えている。つまり日の本の中心地では、戦国の世はとうに終っているのだ」
「「なんと・・・」」これには半数以上の者が絶句した。
「知っての通り、神奈川湊の発展と常備兵の働きで生産や税収が上がってきて豊かになった。上杉・佐竹・里見からの脅威が去ったのも大きい。これは守護所の力だ。よって北条は、これからも京都守護所の方針に従ってゆくつもりだ」
皆、これには頷いて同意している。
「そこで問題がある。他国へ侵略を繰り返す隣国だ。守護所加入には国に紛争が無く、他国を侵略しないという条件がある。北条はその武田との同盟がうやむやのままになっている。これを正式に無くなったと宣言する」
「おお・・・」これには皆が動揺し揺れた。
以前あった甲相駿三国同盟は今川家の消滅で無くなったと判断出来る。そのまま新たに二国間同盟を結ぶのでは無く放置していたのだ。これは紛争になるのを抑えるためだ。
だが、北条家のなかで京都守護所の存在が大きくなるにつけ『国に紛争が無く、他国を侵略しない』という加入条件が気になっていた。
「ならば、武田と戦をすると言われまするか? 」
「そうでは無い。甲斐との同盟はもう無いと宣言するだけだ。侵入してくれば撃退するがこちらから攻め込むことは無い」
「し・しかし、甲斐は奥方様の在所・・・」
氏政の正室は武田信玄の娘である。
「梅も他国に戦ばかりして、民を飢えさせる武田とは遠を切りたいと申しておる」
「・・・それならば。ならば国境の警備を見直さなければ行けませぬぞ」
「無論。甲斐は今、飢死する者が出て一揆が起こっている。これから冬にかけては更に悪化しよう。国境の警備を厳重にせよ」
「氏政殿、飢えた者らには、ただ厳しくするだけではいけませぬぞ」
「はっ、幻庵様。飢えた者らには食べ物を与えよ。北条領に来たい者には開墾した土地を貸し出す。生産する民が増えれば国が豊かになる、内政方はそのやり方を考えよ」
「「はっ」」
永禄十四年(1571)十月北条家は武田との同盟が失効したことを宣言し、即座に京都守護所と武田家に伝えた。
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