第371話・井伊家の客将。
永禄十三年(1570)十二月 遠州二俣拠点 井伊虎繁
「武田の武辺者に申しあげる。この寒空に閉じ籠もっているばかりでは体が鈍ろう。そこで我らと棒を取っての集団調練を致さぬか。井伊家客将・目賀田貞政が百兵でお相手致す!! 」
武田隊に向かって言上する目賀田殿の大声が、はっきりと聞こえる。武田隊はひと月近く陣地に籠もったままだ。
その間我らは奪った火縄銃の調練を行なっていた。目賀田殿らは全員が火縄銃と弓の遣い手だ。交替で五百兵ほどの調練で一丁先の的に当てられる者二百名を選出して鉄砲隊を編成していた。
それにしても武田隊ははるばる侵攻して来たのに、いっこうに向かって来ぬのだ。陣地内に濠を縦横に掘って防御を上げて閉じ籠もっている。次第に守るこちらの集中力も下がる。
このままでは行かぬと目賀田殿が兵を連れて敵隊に挑んだのだ。
「如何で御座るか? 」
「・武田隊は遠州を取りに来たのでは無いのか。もしや遠州に越冬に来られたか? 」
敵方から反応は無い。まあ無反応でも敵を揶揄して屈辱を与える事は出来る。それでも良いのだ。
厳しい調練で精兵になった我らにとって、武田隊四千はさほど脅威では無い。だが、火縄銃三百丁は勝敗を決める決定的な武器となる。
故にそれを、十月の雨の夜の攻撃でまず潰した。火縄銃二百丁と火薬を奪っいその時運べぬ火薬は雨に濡らして使えぬようにした。
その攻防で敵は、矢の攻撃と同士討ちで二百ほどの死者が出たようだ。不意の攻撃で味方同士の合い印が間にあわなかったのだ。こちらも死者五名に重傷者が十名出た。万全の準備にしては些か多かった・・・
とにかくそれで武田隊は亀のように守りを固めて閉じ籠もったのだ。武田本隊が掛川城を落とすまでは、そうしているつもりだろう。こうなると『逃げ弾正』の異名を持つ高坂殿は手強い。
なんとかそれを動かせねばならぬ。
「武田隊に申し上げる。この地で越冬するのは許可できぬ。迷惑千万。とっとと北へ帰られよ! 」
「それとも、我らが怖くて・閉じ籠もっ」
「言うな! 」
「それ以上言うな。某がお相手致すで、しばし待たれよ! 」
おう。反応があったな・・・
敵陣から続々と兵が出て来た。こちらの意図を知り、持っているのは棒だ。
槍や弓などは持っていない。
「某・高坂家客将・原昌胤。お相手仕る」
「お相手が武田の猛将原殿とは嬉しや。寒さ凌ぎの調練であれば、負けを知れば腰を降ろし。倒れた者には手出し無用で御座る。宜しいか? 」
「良かろう」
両者、一旦下がって隊列を整えている。
いよいよだな。楽しみだ。
「殿、お方様がお見えで御座る」
「む・乙葉殿が・・・ここに通してくれ」
井伊谷城を守っていた乙葉殿が使者を出すで無く、直接来たと言うことは、何事だろう?
乙葉殿は奥方だが、井伊家の前当主で某の命の恩人でもある故に、兵の前では乙葉殿と呼んでいる。
「殿、師範殿らがご出陣ですな」
「おう。こう動きが無いと兵の士気も腐るからの」
「対するは猛将・原昌胤殿ですか。彼がどれ程もつか興味津々ですわ・」
「そうだな、ひょっとすると分けるかも知れぬぞ・」
よもや目賀田殿が負けることは無いと思うが、原隊の兵は武田隊の選りすぐりの兵だろう。互角かも知れぬ・・・
「あら、殿は師範殿の力を見誤っていますよ」
「ん。いや、原隊は武田の選りすぐりだろうからな・」
十人隊が横列になった目賀田隊に対して、原隊は二十人隊を前に三つ後に二つ並べた陣列を取った。これから両隊がどう動くのか、両軍の兵が身を乗り出して見守っている。
「それでもです。彼等は山中国の調練では遥かに格上隊との調練を重ねているのですよ。それを考えてみなされ」
「・・なるほど」
遥かに格上との調練か・・・目賀田殿は山中国では下から数えた方がはやい未熟者だと言われておった。
乙葉は実際に山中国にいってその凄まじい調練をみているのだ。互角かも知れぬ敵など取るに足らぬと言うことか・・・
「おっ・おう。原隊の前列が突撃したな。それを受けた目賀田隊が押されているわ・」
前列中央が後退した故に、前進する原隊を目賀田隊が包み込む形になる。それを原隊は後の二隊が左右に移動して牽制する。
だが、押されている筈の目賀田隊の兵は倒れず、押している原隊の兵が倒れている。次々と兵を入れ替えて出るも、攻めきれず見る間に数を減らしている。
目賀田隊が押される形で攻撃する事で、包み込まれ無いように展開した原隊は、まとまることが出来ない。それを目賀田隊が各個撃破してゆく。そうして兵を減らされ次から次へと崩壊して行く。
「敵将、討ち取ったり! 」
遂に原殿まで囲まれて突き倒された。
もっと縦横無尽に部隊が動くかと思ったがそうでは無かった。最初のひと当たりの形のまま勝敗が決まったのだ。これは集団戦の練度の差だろう。原殿の替わりが某でも同じであったろう。五十人で行なう集団調練で勝ったことが無いからな・・・
両軍の兵が味方に助けられて、左右に別れて並んだ。負傷した者も多いが重傷の者はいないようだ。一礼してそれぞれの持ち場に戻って行く。
「ところで乙葉殿。此度は? 」
「はい。野田城を落とした武田勝頼隊が伊那からの援軍三千を得て六千兵で吉田城へと進軍しましたのよ」
「・伊那から更に三千か。となると伊那はもぬけの殻だな・・・」
その三千は民兵や飯田城・大島城・髙遠城を守る最低限の守兵も含まれるだろう。今伊那に攻め込まれたらあっという間に陥落する。
「奥山館の釣間斎殿らの救出隊は来たか? 」
「来ましたわ。五十兵ほど。館が囲まれているのを見て、館の味方に手を振って退却致したそうよ」
「退却・・・何故だ? 」
「それは、ここと同じことです。進軍して敵を引き付けているだけで役目が果せていると思ったようです」
「つまりは、その殆どが我らの捕囚になっているのを知らぬのか・」
「その様です。奥山館よりこちらには通れませぬから」
進出してきた武田隊の釣間斎は、井伊谷城が女子供と僅かの兵しかいないことを知って帰路の確保のために自らは奥山館に残り、四百五十兵を出して来た。
それを待ち受けたのは城外に伏せていた三百兵と指揮する三雲殿と配下五十だ。左右が薮の見通しの効かぬ街道で待ち伏せて、隊列の側面から一気に押し出して昏倒させ全員を捕えた。
それらを五十人名ほどに小分けして開墾地に送り、弓隊の監視の中で働かせているのだ。
なんでも昔、三雲殿自身が山中国に捕まって働かされた再現だそうだ。嘘の様な本当の話だそうだ。
「左様か。勝頼殿が誤解して井伊谷城の危機は去った訳か。六千か、それで吉田城を落とせようか? 」
「無理で御座いましょう。吉田城には二千と民、背後の船形山城に五百、本宮山周辺に三千以上の徳川本隊が潜んでおりまする故に」
乙葉殿の元には忍びの手練れの段蔵と護衛の茜殿らがおる。茜殿は山中百合葉様より付けられた忍び衆だ。山中国の豊富な資金と人材によりあらゆる事に通じているのだ。
「だがもし武田が豊川湊を抑えれば、武田水軍や駿府よりの援軍が来よう」
「前回の武田の侵攻で、武田に浚われ鉱山送りにされた徳川の民を、伊勢商人が取り戻してより、徳川は伊勢商人を優遇して豊川湊には伊勢の船が盛んに入港しているようですよ」
「伊勢の船とは? 」
「伊勢北畠家と山中国は親密な間柄。北畠水軍の船は山中水軍の船を譲り受けたものです。武装船で水夫の調練も山中国でこなしたと聞いておりまする」
「武装・水夫の調練・・・つまり伊勢の船は山中水軍と同じか・」
「山中水軍の船が一隻あれば、武田水軍など壊滅出来ると。沿岸の城など半刻掛からずに瓦礫に出来るとか。吉田城はまさに沿岸の城ですわ」
「・・・」
なるほど。徳川が伊勢商人に頼めば、吉田城攻め中の武田隊を船から攻撃出来る訳か。さらに武田隊と同数ほどの精強な徳川隊が周辺に潜んでいる。
これは落とせぬな・・・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます