第370話・井伊谷に侵入した長坂隊。


 西遠州奥山館 釣間斎


 ここに籠もって十日が過ぎる。もうそろそろ勝頼様隊から援軍が来てもよい頃だ・・・


 奥山城は僅か五十ほどが籠もる山砦だった。わざわざ苦労して落とす程のものでは無かった。それで半里程下った居館を落とす事にした。

 奥山館の兵は二十数人、我らの勢を見て泡を食って逃げ出したわ。一戦もせずに居館を手に入れたが、真に山間の小領主だの。居館が小そうて兵が五十も入らぬ。

だが、民は他所人が珍しいか、どぶろくだの遠江の海で獲れた魚だの売りに来る。戦をせずに来たで客人と思ったのか?

 とにかくどぶろくや魚を購って領地の事を聞いた。


「へえ、ご領主様はちょっと前までは次郞法師様でしたが、今は婿の虎繁様で・」

「お二人とも器量よしで正に天下一のご夫婦ですだ・」

「跡取りの三郎様も生まれて、井伊家は安泰だともっぱらの噂で・」



「その虎繁殿とはどう言うお方じゃな? 」


「詳しい事は分らねえだが、何年か前に急に現われなすった・」

「んだ。優男だが、頑強な体躯のお侍様だ・」

「今では朝比奈様に優遇されて北遠州一帯五万石を任されているだべ・」

「乙葉様腹心の者の働きで更に数万石の実入りが増えただぁ・」


 なんと、井伊谷の井伊家は五万石に数万石を足した石高なのか。ならば一千五百や二千兵を動かせる器量だ。

 儂の背中を冷たい汗が流れた・・・


「その虎繁殿は井伊谷城におられるのか? 」


「いんや。虎繁様は武田家を迎え撃ちに全兵を連れて二俣に行っているだ・」

「井伊谷城は乙葉様が百ほどの兵と側近らで守っているだよ・」


「左様か。それで二俣の戦は聞いておるか? 」


「二俣の拠点の前に陣取った武田勢に痛撃を与えたと・」

「それで武田隊も小さく縮こまっていると・」


 うーむ。井伊虎繁とは相当な勇将らしい。その井伊虎繁が我らの事を知って兵を率いてこちらに来れば事だぞ・・・この館では守れぬ。



「宮下、聞いたか? 」

「はっ。井伊谷城の主が戻って来たのならことですな・」

「そうだ。其方はすぐに兵を率いて向かい井伊谷城を落とせ」

「畏まって候」

「女子供は殺さずに捕えよ。井伊虎繁との折衝に必要だ」

「承知仕りました」


 背後の奥山館を儂が三十の兵で守り、残り四百二十を宮下が率いて、その夜の内に半里先の井伊谷城に向かった。


 ところが、翌日になっても、翌翌日になっても音沙汰が無い。

 それ以来、四日経っても誰も報告に戻らなかった・・・


 民に聞こうにも井伊谷城を攻めたことが分ったか、誰も寄り付かなくなったのだ。


 しかし一人や二人戻って来ても良さそうなのに、まさか壊滅したのか・・・


 七日めの朝になって、館を包囲する兵が見えた。

 あちら二人、こちらに三人といった少数だが取り囲まれている。こうなった以上、宮下らは諦めなければならぬ。本隊に援軍を求めに二人を馬で駆けさせた。


 だが彼等は、我らから見えなくなる前に無残にも矢で射落とされた。


 これで身動き出来ぬ事となった。あとは本隊が異変を察知して援軍を差し向けてくれるのを待つばかりだ。


「背後の山に味方が! 」

と念願の報告があったのはそれから三日後だった。


「やっと来てくれたか・・・」

「助かったぞー 」


 驚喜して小躍りする兵たち。儂もそれをしたいのを堪えた。


「待て、あれは斥候だ。援軍が来るのはまだ先だ。浮かれるでない」


「んだな・」

「だども、なんか様子が・・・」


 うむ。垣間見える斥候の顔に笑顔が見える。それは、進退極まって援軍に縋る我らの心情とは異なるものだ。何か誤解があるのかも知れぬな、彼等は井伊谷城に向かった多数が戻っておらぬ事を知らぬからな・・・


「解った、矢文だ。事情を知らせる矢文を書く・」


 今までの事情を簡単にまとめて、我らが援軍を待ちわびている事を慌ただしく記した。


「矢文を放て」

「はっ! 」


「あぁぁぁぁ・・・」

 弓手が矢を引き絞るのを待たずに、こちらを見ていた斥候が手を振って消えた。弓弦の音が空しく響いて、彼等が居た傍の立ち木に矢が刺さって矢文が揺れた。

矢文は誰にも取られる事無く、何時まで立ってもそのままそこにあった。




 野田城 武田勝頼


「出陣! 」


 諏訪太鼓が打たれて、大手から東に軍勢が延びて行く。伊那からの三千の援兵を得て編成し直した吉田城攻撃隊だ。

 先陣山県隊一千五百、跡部隊一千、本隊二千、馬場隊一千五百、総勢六千兵の軍勢だ。

三百の軽傷者が野田城を守り、釣間斎の五百が西三河井伊谷に進出して遠州勢を引き付けている(と思っている)。


「勝頼様、これで漸く当初の目的が果たせますな・」

「うむ。一時は諦めかけたが、山県馬場の機転で野田城を落とす事が出来た・」


 高櫓を作って敵の攻撃を抑えてはいたが、大手の守りは頑強で攻略出来そうに無かった。ところが東口・西口の馬場隊・山県隊が帯曲輪への道を開いてくれたのだ。それが無ければいまだに野田城は落ちておるまい。

 流石は武田の誇る歴戦の将だ。援軍は両隊に優先して配置した、吉田城攻めの主力はこの両隊だ。


「義信様は、東海道に大規模な陣城を築いているとか・」

「うむ・・・」


 援軍と一緒に遠州攻めをしている他隊の状況も入って来た。

それによると

南の甘利隊は、朝比奈城を落として高天神城に対している。

 東の義信隊は、陣城を築いて東海道を抑え、火剣山城と富田城を攻略中。

 北の高坂隊は、二俣城の目前に陣城を築いて対峙中。

 だと言う。三隊とも当初の目的を果たして遠州勢を分割することに成功している。


「甘利隊・高坂隊の負傷者が多過ぎるという懸念が出ている様で・」

「それは耳が痛い・・・」


 甘利隊で四百の戦場離脱者が出て、高坂隊では、総攻撃があってなんと一千五百もの負傷者と半数以上の火縄銃を奪われたという。戦陣を維持出来ぬほどの痛手だ。

 だが、我らの負傷者は二千だ。さすがに二千五百兵も負傷したとは言えず戦場に留まっている五百兵は負傷者から省いたのだ。


「豊川湊を取れば、事実を言えるがの・」

「勝頼様、吉田城を取り囲めば湊をも手に入れたも同然ですぞ」


 たしかに豊川湊は吉田城に近い。吉田城を包囲すれば、駿府から船での補給も頼めるかも知れぬ。

三方から遠州を包囲しているとは言え、制圧にはまだ数年掛かろう。その前に我らが豊川湊を手に入れれば、家中での発言力も増す。

 もし、遠州攻めが失敗に終わったときには儂が・・・


「ふっふっふ」

 久しぶりに明るい未来を想像することができた。

やはり大海に繋がる湊には夢があるわ。


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