第355話・勝頼様御出陣!。


永禄十三年(1570) 九月下旬


 田の刈入れが終わると甲斐からの一千を指揮する宿老の馬場信春隊の合流を待って、伊那高遠城から武田四郎勝頼が出陣した。旗本隊三百に髙遠勢五百を率いた御年二十四才の颯爽とした目にも麗しい若大将だ。

先頭は諏訪勢一千を率いる勝頼配下の侍大将・跡部勝資。それに勝頼本隊、馬場隊と続き大勢の民が見守る髙遠城下を煌びやかな約三千の軍勢がゆっくりと進んで行った。



(やっと父上のご無念が晴らせる・)

この日を待ちに待った勝頼の顔は喜びに溢れていた。見守る民は歓喜して見おくり、進む兵士の顔は前途洋々たる未来を予感して期待に溢れていた。



軍勢は伊那大島城に到着しここの城兵五百を本隊に加えて、先に到着して本隊が来るのを待っていた木曽義昌の三百と真田昌輝の二百を加えた。大島城主の保科正俊は高齢でもあるし、諏訪・髙遠・伊那の差配をする必要があるために残る。


軍勢はさらに南下した飯田城で山県昌景が指揮する城兵一千五百を加えた。武田勝頼隊五千五百兵が揃った。その物資を運ぶ荷駄隊も相当な数だ。軍勢は一里にも及ぶ長い行列となって足助街道を南下してゆく。


飯田を朝早く出て意気揚々と進んだ勝頼隊は、駒場・寒原峠・治部坂峠を越え平谷村に着いた。

その日はここまでだ。平谷は大きな村で旅籠も多いが、無論五千もの軍兵を止められるはずが無く開けた場所で分散して野営をする。甲斐から援軍に来た宿老の馬場信春も無論、兵と共に野営をしている。


 だが中には、旅籠に入って休む者もいた。それは勝頼とその側近たちだ。行軍中であろうが総大将の安全確保と休養の為に旅籠に入る事は考えられる。


しかし彼等が酒を嗜んで騒ぐ声が、野で横になる馬場隊の兵士の眠りを妨げていた。兵からしたら信じられない事だ、その中で一際大きな声が跡部のものであった。


(勝頼様のお傍には碌なものがおらぬ・・・)

と馬場ら古参の者らは苦い思いを黙って飲み込んだ。



翌日の行軍は朝の内は順調だったが、午後になると遅くなった。それでもまだまだ明るい内に武節宿に着いた。武節宿は交通の要衝で山間にあっても発達した賑やかな城下町だ。勝頼隊はここで最終の装備を調える。当然一隊を率いる将兵は武節城に泊まり酒は供されない。

ここの城兵二百は斉藤と徳川への備えとして足助城に送った。足助城から武節城を攻略されると武田軍の後方に回られる。それを避ける為だ。




「ええい、行軍が遅すぎるわ。もっと速く進まないか!! 」


翌日、武節宿で再度陣列を整えた武田軍はゆっくりと南下した。だが行軍はかなり遅くなかなか進まない。誰も彼もがイライラしていた。そんな中での跡部の発言だった。

この日も先頭は飯田勢だ。先の戦に向かう行軍で武節宿を出てから襲われ部隊は壊滅した。それに信玄旗本隊が帰路の設楽が原で襲われたのも知っている。故に多数の斥候を深く出して安全を確認してから進むのだ。行軍が遅くなるのは仕方がない。


 将兵の不満を集めながらもゆっくりと軍勢は進み、設楽が原を越えた集落に明るい内に到着した。予定通り今日はここでの野営だ。

この辺りは既に三河ではあるが、街道に面した山間の地の常で帰属が曖昧だ。どこの軍とも敵対はしないし、逆に軍勢の野営のための大量の薪が売れて村人は笑顔であった。


 この先三河平野まで八里ほど狭隘な山道が続く、大軍が野営するのには適した土地が無い。ここらが最後の広い場所であった。ゆっくり休んで明日は暗い内から夕方まで行軍する。


「皆、明日は野田城を囲む戦場だ。今日は遺漏無く準備をしてゆっくり休め! 」


 炊飯の最中伝令が走り、各隊に本隊の意向を告げて回る。この様な混成部隊では命令伝達が重要で行軍中にもそれは実戦と同じ様に行なわれる。



 真田隊 真田昌輝


「明日の先頭は諏訪勢だ。飯田勢は最後尾に回れ! 」

と伝令が告げていた。


 先頭が飯田勢から諏訪勢に変わる。おそらく勝頼の側近らが遅い行軍を嫌ったのだ。それに敵地三河に押し出すのは、勝頼の象徴でもある諏訪太鼓を叩いて華々しく押し寄せたいのだろう。それにしても土地勘のある飯田勢を敵地に入ってから外すとは・・・


「昌輝様、嫌な予感がします。明日の行軍は要注意ですぞ」

「うむ。徳川としては武田の大軍を平野に入れる前に叩きたいだろうからな・」


芦田主水は老練の忍びの小頭だ。と言っても配下の者十名は兵士として陣列に加わっている。徳川と武田忍びが暗躍する場所に、真田忍びが加わる必要は無いからな。


「左様で。しかし武田の忍び衆も油断はしていまいが・」

「だが、徳川には充分な時間がありましたからな・」


副将の須田信頼殿は慎重な性格だ。某の軍勢は兵百が須田殿の配下で、残り百は真田本家の兵を連れて来た。

駿府の義信様の元には弟の武藤喜兵衛が出仕しており、そこに真田家から須田満親殿と海野小太郎が二百率いて出陣している。



先年の戦いで武田の援軍四千が行軍中に罠に掛かって壊滅した。襲ったのは謎の集団だが斉藤の手の者という判断だ。徳川はそれを当然知っている。そういう策を考えている筈だ。


父・一徳斎は『家中が割れる武田家は危うい。いずれ真田は武田家と袂を分かつ』と言われている。そのために父上は今頃越後に向かっている筈だ。


上杉は能登まで領地を広げ良政と商いを進めており頼りがいがあると。だが越後には真田が領地を奪った村上がいる、それが懸念される。

だが真田は領地も兵も少なく隣国に頼らなければ生きて行かれぬ小さな国人だ。越後が無理なら上野で攻略中の北条に頼るしかない。

 故にこの戦で手柄など立てる要は無い、無闇に兵を減らしてはならぬのだ。


「山形隊が後方に着いたのは、敵に取っては幸運ですな・」

「そうだな、我らも危険な事には変わりはないぞ・」

「左様で。いつでも動けるように木曽勢と計って準備をしておきましょう」


先頭が入れ替わって軍勢は、跡部隊(諏訪勢)一千・本隊一千三百・馬場隊一千・真田木曽隊五百・山形隊(飯田勢)一千五百の順になる。真田隊と木曽隊は半端な兵数であるため共に行動する事になった。


 その夜も本隊から、宴の騒ぎが聞こえていた。昨夜飲めなかったが、荷駄に酒を積み込んでいるのを見ていた。勝頼様は勇将であるが若年である為に、釣間斎や跡部などの姦臣を抑えきれないのだ。嘆かわしいことだ・・・



 翌日まだ暗い内から、諏訪太鼓を打ち鳴らしながら先頭の跡部隊が出立していった。先頭が出ても我らが出立するまでには結構な時間がある。ゆっくりと片付けをして準備をする。


街道は曲がりくねった豊川沿いに下ってゆく。断崖下の狭い場所もある、無論先行している斥候隊がそういう所は調べているだろうが油断は出来ぬ。何かあれば前後に逃げられるように隊ごとに間隔を開けて素早く進む。



「ぐわぁあー、敵だ! 」

「石だ。石が降ってくる! 」


 二刻も進んだ時、突然先行する隊の上に石が降ってきた。急斜面でも無いなんて事の無い山からだ。街道もそれ程狭くない、その油断を突かれたのだ。


「慌てるな。前後に逃げよ。一隊は山に入り駆逐せよ! 」

「おおっ」


 続く本陣からの下知に一部隊が山に入った。すると石は直ぐに止んだ、敵は一隊が山に入った事を察知して逃げたようだ。

街道には顔や手足が石に当たり蹲る兵が数名いるが被害はそれ程無い。小石程度は陣笠で防げたようだ、偶に拳大の石が転がっている、それで負傷したのだ・・・


軍勢はその場で停止して山に入った一隊を待つ。戻るのが遅いので念のため五十人隊が二隊迎えに行った。半刻ほどで戻った者が報告する。


「賊を追った一隊が罠で負傷しています! 」

「何、敵はいるか? 」


「敵はおりません。負傷者を連れ帰るのに人手が足りませぬ」

「応援の隊を出せ。重い武器は置いて手当ての材料を持て! 」


 更に百人隊が軽量装備となって山に入った。最初に二百名程が入り追加で百名、更に百名だ。いったい何名負傷したのだ、昨夜の嫌な予感が現実となったようだ・・・


「昌輝様・・・」

「うむ、どうやら投石は誘き寄せだったようだな。斥候が通ったあとに隠れていた敵が出て来て、罠へと誘い込んだのだ・」

「某もそう思いまする・」

「荷駄から小盾を出そう。それを持って前後左右に油断なく備えよ」

「はっ」


 荷駄には城攻めに使う矢盾や小楯が積まれている。小楯が手元に有れば投石や矢を即座に防げる。


 やがて担がれて戻った負傷者が街道脇の小びろい場所に並んだ。手足に怪我を負った者が多いが死者はいない。

罠は無数にあり、先の尖った木が薙ぎ、振られ、飛び出し、落ちてきた、足元が崩れ、岩が落ちてきて、木が倒れかかった。落とし穴もあった、いずれも巧妙に作られていて動作するまで見分けがつかなかったと言う。

つまり、ありとあらゆる罠が巧妙に仕掛けられていたのだ。


 その場で手当てが行なわれて時間が経過して行く。やむなく今日は少し進んだ場所で野営することになった。こんな山間で野営するのは危険だが無理に行軍しても良い事は無い。


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