第八章・後継

第354話・武田家の大評定。


永禄十三年(1570)七月 甲斐恵林寺


この日、武田家当主武田義信によって故・武田信玄の三回忌が催されていた。信玄公の威徳を忍ぶ武田家の名だたる将と各国から参列した使者により恵林寺の境内は埋め尽くされて、住職・快川和尚と多くの僧らによって大法要は恙無くとり行なわれた。



 翌日、躑躅が崎館の大広間に集まった将らの配置は、以前のものとは様子が違っていた。

上座の右手に当主の義信、左には勝頼が座して向き合い、彼等の横には補佐する老臣や将が陣取っていた。それに高坂弾正の一派と真田幸綱の一派が左右に分かれて並び、最後尾には木曽義昌がぽつねんと控えている。

実は信玄公亡き後の武田家中は、表面上は穏やかな纏まりを見せているものの、かつてのように当主を頂点とする態勢では無かった。


当主武田義信は甲斐・駿府を配下に家中を指揮してはいるが、諏訪・伊那を納める勝頼を統制できておらず、この兄弟の不仲は家中に知れ渡っていた。


武田信玄の嫡男義信の母は信玄正室で、その武勇と勢威は家督を継ぐのに充分であったが、三条の方は晩年の信玄とは不仲で有り、最後を悟った信玄が武田家重代の宝物・御旗盾無と共に目指したのが諏訪で有ったことから勝頼を跡継ぎにしたかったからだという憶測が広がっていた。


 その兄弟の確執に嫌気がさしたか、信濃善光寺平を差配する高坂弾正は中立を貫き距離を取った、信濃小県の真田は自立の道を進み佐久・筑摩・更級と西上野の諸将を吸収して勢力を広げていた。

この二家は主家の義信・勝頼のどちらかを選ぶ事が出来ずに、両家に家臣を派遣するという苦しい態勢を強いられていた。




「さて、この機会に皆に集まって貰ったのはこれからの武田家の動きを決める為だ。『三回忌までは兵を動かさずに力を貯めよ』という父上の御遺言は守られた。父上にしても維持出来なかった西の地に不用意に兵を出してはお家が危うくなるかも知れぬ。今後は家中で一致団結した動きをしなければならぬ、その方針を決めておこう。おのおの忌憚の無い意見を出してくれ」


と上座正面に座した武田義信が切りだした。彼の両側には武田家宿老の飯富虎昌と穴山信友が座して睨みを訊かせている。甲斐差配の飯富と駿府で義信の補佐をこなす穴山、両人とも還暦をとうに越えた家中最長老の将だ。

 義信は隣国北条との同盟を支えに商いと富士郡などの開墾をここ数年取り組んでそれなりの成果を得た。この機会に分裂状態の武田家の再結集を図っている。



「ならば御意見を申し上げる。三千もの兵を失った痛手は数年ではとても回復出来ませぬ。現状のまましばらくは力を貯めるべきで御座る」


と発言したのは、『逃げ弾正』こと高坂昌信である。信濃善光寺平を預かる彼は、上杉との友誼を支えに内政に力を発揮している。家中一の豊穣な大地を差配している高坂は他国へ出兵する事を望んでいない。



「某が勘案致しますのは、代が替わってまず成すべき事は、御先代の汚名をそそぐことではありませぬか! 」


と大声で発言したのは、勝頼旗本の跡部勝資だ。高坂に対しての反論の体であるが、その実、出陣しようとした勝頼方を何度も止めた義信に対しての嫌味であった。



「信玄公の汚名とは何で御座ろうか? 」

と宿老の飯富が首を捻って問うた。


「知れたこと。御先代を撃った三河徳川を叩くことだ! 」

「お待ちあれ。公は三河移動中に火縄に撃たれはしたが、直接公のお命を縮めたのは長年患ってきた病と聞いているがの? 」


「な・何を言われる。御先代が命を落とされたのは三河戦で負った傷のせいで御座ろう! 」


「ふむ。儂の知っておる事情と違うのう。土屋、実際はどうであったのか? 」


「はっ。某らが同道して野田城に戻る途次、一発の火縄が御屋形様を襲ったのには間違い御座りませぬ。ですがその前に病がぶり返して大いに消耗して戦場離脱中で御座った。火縄に撃たれ無くともそういう運命で御座ったろうと・」

「・・・うーむ」


 その場に居た土屋の報告を聞いた一同は、思っていなかった見解に唸った。これで先代の汚名をそそぐという理由は使えなくなった。


馬場信春・土屋昌続など信玄が率いていた武田本軍の殆どは甲斐に戻った。だが山県昌景は多くの兵を失った事態鎮静の為に残っていたのを、勝頼に依願されて伊那に留まったのだ。

山形とて特に勝頼を持ち上げる気持ちは無かったが、行方不明の秋山信友に替わって飯田城を守ることになった。伊那の拠点として信玄が築いた大島城の城代は《槍弾正》と評される宿老の保科正俊である。



「しかし某は、亡き父上が取ろうとした吉田城を落としとう御座います。さすれば豊川の湊が手に入りますれば・」


「ふむ、吉田城ならば何とかなろうか・」

「だが徳川兵は強う御座るぞ。御屋形様の旗本隊と互角以上の戦いをしたからな・」


「だが湊だ。三河湾に武田の湊があるならば・」

「岡崎との間は狭隘な地形だ。少人数で抑えられる・」


「吉田城を得られれば渥美半島も抑えまするな・」

「・悪く有りませぬな」


 勝頼自らの発言には首肯する将が多かった。確かにそこならば悪くないなと義信も思った。そこでまだ発言が無い真田家に問うてみた。


「真田殿、如何で御座ろうか? 」


「左様。高坂殿の言われることは真に尤もで御座る。しかし勝頼様の気持ちも良く解り申す。ですが吉田城を落とすだけならば勝頼様の手勢で済み申そう。武田家中の統一した方針であればもっと先を見るべきで御座ろうな・」


 当主兄弟の確執に巻き込まれる事を嫌った真田信綱は、駿府に昌輝、髙遠に昌幸とそれぞれ弟を出仕せざるを得なかった。忸怩たる思いがあった。

 だがその間隙に佐久や筑摩・更級の同族を味方に付け、上州や西上野の国人衆にも調略の手を広げて、まだ水面下に隠れているが実質では武田四強の一角を占めるのに充分な勢力を持っていた。

《攻め弾正》と評された父の一徳斎(真田幸綱)も健在で箕輪城にあって上野に睨みを効かせていた。



「・・成る程、信綱の申すとおりだな。一徳斎は何か申していたか? 」


「・・・父は、補給路が伸びすぎると」



「成る程な。確かに三州街道は長い・」

「おうよ。飯田から五日も六日も掛かる・」

「駿府からは、海沿いに広大な平野があるのにな・」

「・・・それよ。遠州・」

「うむ・遠州・」


「勝頼様が吉田城を取れば、東西と北から遠州に攻め込める・」

「海からもじゃ。水軍があろう・」

「朝比奈も四方から攻められば、とても持つまいな・」


「だが、焼津だ・」

「・・・そうだな」

「山中国か・」


「だが湊以外は違うと聞いたが・・」

「大井川を下れば、焼津を通らず直接遠州に出られるが・」

「それは難儀過ぎる、無理だ・・」


 一徳斎殿は父上も怖れたほどの鬼謀を産み出すお方だ。その一言で一同の関心は尾張三河から遠州に移った。誰も尾張に言及しないのは、西三河を手に入れた尾張斉藤は、かつての織田を凌ぐ領地と得体の知れぬ怖さがあるのを皆が認識しているからだ。

そもそも遠州は駿府に出た時に制圧する予定だったと聞いた。その時は三河と同盟を結んで遠州を攻撃していたのだ。ところが清水湊に出店していた熊野屋(山中国の商船)が焼津湊に移り湊を拡張して城塞とも言える拠点を築いた。

 予想外の事であった。父上は焼津湊を経由しての遠州攻撃を諦めた。山中国とはそれ程脅威を感じる国らしいのだ。



「出浦、実際はどうなのだ? 」

「はっ。岡部から藤枝・島田に掛けては山中領では御座いませぬ。ですが民が自主的に年貢を納めて、町年寄りには山中国の息が掛かっておる様で御座る・」


「自主的に年貢を出しているか、となれば山中領と同じ様なもの・・・我らの兵が通過することは叶わぬのか? 」

「街道を通行するだけならば出来るかと思われます、恐らくですが。ですが大井川を渡れるかどうか・」


「多数の兵が大井川を渡るのは困難ですぞ」

「ならば、水軍の船で渡せば良い」

「それなら、清水湊から直接船で渡せば良いではないか」

「そうだ。それならば山中に気兼ねする事は無い」


 駿府にある水軍の関船は四隻だ。うち三河から戻った船が二隻、もう一隻は

嵐に遭い破船となって戻った。船の姿を留めぬほどの壊れ方で戻れたのは奇跡のようだった。一隻で二百の兵、四隻で八百の兵を送れる。

 確かに焼津を通らずに直接大井川左岸に兵を送った方が良い。


「駿府から水軍の船で大井川左岸に兵を送れるか検討しよう。それで良いか」


「あとは天竜川を下って二俣城を攻略ですな。これも難儀な行軍ですが、遠州を攻めるのにはそこしかありませぬ」


 うむ。こうして考えると遠州は広大に開けているのに攻めがたい。攻め口が殆ど無いのだ、まさに陸の孤島だな。父上も二の足を踏むだけあって実に手強いな・・・



「勝頼は吉田城を落として徳川を圧迫しつつ西から遠州を削る。儂は大井川を越えて東から遠州を攻略する。二俣城の攻略は高坂だ、良いな」

「「ははっ!! 」」


「木曽に異存は御座いませぬ」

 木曽谷を支配する木曽義仲は、その位置により髙遠の勝頼配下になっている。


「仕方有りませぬな。承知致した」と高坂も同意する。

「真田も同意致しまする」


 こうして武田家の遠州攻めが満場一致で決まった。



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