第346話・斉藤家からの使者。
三河岡崎城
設楽が原へと突出して信玄本隊を奇襲した徳川隊は、南北より迫る武田隊を知りそこから無事退却して岡崎城に帰還していた。
信玄の首を取るという目的は叶わなかったが、将兵は何故か達成感に満ち足りていた。死者も無く武田本隊と互角以上の戦いをして力を見せたのだ。
三河から武田の脅威は去った。後は西の水野家だが、これが徳川に非があるだけに何とも士気が上がらなかった。
「殿、水野隊に斉藤の旗がたっております!」
「水野は斉藤に降ったか・・・」
まだ斉藤家とは事を構えていない。それに三河に戦をする力はもう残っていない。今年を越えられるかどうかも解らぬ状況だ。きっと餓死者が出るだろう・・・
「斉藤家に使者を送れ。徳川は斉藤とは争わぬ」
「はっ」
「それには及びませぬぞ。斉藤家からの使者が来ました」
「・そうか。早速会おう」
使者はよりによって水野信元と懇意にしていた佐久間信盛だった。それを知って水野を誅殺した石川数正と平岩親吉は雲隠れした。それもあって対面の場を異常な緊張感が包んでいた。
「斉藤家家臣・佐久間信盛で御座る」
「一別以来でしたな。佐久間殿」
「左様、徳川殿は無事武田家を退散なされて祝着至極」
「それも斉藤家が那古屋城を取り戻されたお蔭である」
「・・・」
「・・・」
「さて徳川殿、今度は斉藤家に挑みますかな?」
「それは御座らぬ。徳川は斉藤家とは争わぬ」
白刃を抜いて対峙するような対談を、徳川家臣らは緊張した顔で見守っている。
「ならば領地境を決めなければなりませぬな。その前に帰蝶様が三河の民の為に兵糧一万石を無償で進上すると言われており申す」
「・それは忝い。ありがたく頂戴いたしまする」
徳川にとって喉から手が出るほど欲しいのが兵糧だ。家臣らの顔が緩んだ。
「さて領地は現状を維持するのが基本。矢作川を境としたい」
「お待ちあれ、それは承伏致しかねる。安祥は松平の故地で御座る」
水野領が斉藤家になったならば、西三河を失うのは解っている。だが矢作川が国境になれば三河の穀物地の殆どを失うのだ。耐えられぬ。
「はて。現状安祥は水野隊が占有しておりますが・」
「そ・それは武田家の援助があってこそ。水野単独の力では無い・」
「異な事を。斉藤が武田に劣ると申しているのか」
「そうでは御座らぬ。戦略的撤退であって安祥を手放すつもりなど無かったのだ」
「徳川殿。伊那の援軍を潰したのは帰蝶様で御座るぞ」
「うっ・・・」
伊那援軍が壊滅した事こそ、徳川家が生き残った要因だった。まさか斉藤家がそれに関わっていたとは思っても見なかった。
しかし考えてみると、武田家の援軍四千を潰す勢力は斉藤家しか無い。それを知った家康は言い返すことが出来なかった。だが、斉藤家では無くて帰蝶様と言ったことの意味に家康は気付かなかった。
「宜しい。松平の故地・安祥は徳川領で、それ以外の矢作川西岸は斉藤領で如何か」
「・・・承知した」
こうして斉藤家と徳川家の国境が決まった。斉藤家からの兵糧が列を成して矢作川を渡ったのはそのすぐ後の事だった。
「よーそろー」
「おおー」
南の海上では北畠家の熊野丸型船、「伊勢丸」「志摩丸」が追い風を受けて全帆航走していた。
尾張から武田家が退却したことで伊勢・大湊の危機は去った。そこで念願の武蔵・神奈川湊への初航海に漕ぎ出したのだ。
伊勢湾から外洋に出て東に針路を取って四刻、百海里(180km)は過ぎた頃合いだ。北東に針路を取れば、伊豆半島が見える筈だ。その先の山中国の拠点がある大島に本日は寄港する予定だ。
「取り舵、北東へ針路を切れ」
「北東へ」
何ヶ月もの訓練された水夫の動きは軽快だ。二隻は相模灘に向かって針路を取った。
「前方に船。破船のようです!」
「何、破船だと・」
甲板にいる水夫の目にも、半壊している船が見えた。大勢の人が必死に手を振っている。
「軍船だ。念のために戦闘準備をせよ」
「総員、戦闘準備! 」
帆はちぎれて甲板の一部が壊れて傾いている様な船だが、兵が乗っているからには、弓や火縄の武器もあろう。注意するに不足は無い。
「関船の様だな・」
「先の野分けで流されたか・」
「帆を下ろせ、停船せよ」
「停船! 」
手前で帆を下ろし惰性で接近する。乗組員は火縄銃と弓を手に警戒している。船からは「助けて呉れ!」という声が聞こえ、人の顔が見える始めた。
「船長、奴らに見覚えがありやす。武田に走った元志摩衆でやす」
「何、武田水軍か・・」
「お前は小浜だな。尾張武田の水軍がどうしてこんな所にいる?」
「三河から駿府に荷を運ぶ途中で野分けにあって流されただ。助けておくんなせえ!」
この船は三河の捕虜二百名を駿府に移送する任務に付いた武田水軍の一隻だった。関船で駿府まで移動するのは冒険だった。そこで武田水軍の中でも経験豊富な元志摩海賊が指名されたのだ。もう少しで清水湊と言う所で野分に遭遇して風雨に揉まれて流されていた。
「積荷は何だ?」
「・・・人だ。三河の捕虜二百人・」
「何だと・」
「あっしらは命令されただけだ。鉱山に送る捕虜だそうだ」
綱で縛られた大勢の男女が助けてくれと懇願しているのが見える。
「・・・接船しろ。まず捕虜を乗せろ。縛っている綱は切ってやれ」
伊勢丸が接船して、火縄と弓で厳重に警戒しながら板を渡す。
「捕虜が先だ。手足の綱を切れ!」
「あ・ありがとうごぜえやす」「助かっただ」と言いながら捕虜が恐る恐る渡ってくる。皆働き盛りの若い男女だ。それを見て武田家に対する怒りが湧いた。
「待て、残りはあっちの船だ」
伊勢丸が離れて志摩丸が接船して捕虜を乗せる。長い列が志摩丸に続いた。破船に残ったのは、小浜ら元志摩衆の水夫二十名だ。
「どうだ。これで船が軽くなったで駿府に行けるだろう?」
「そ・そんな。あっしらも乗せておくんなせえ!」
「我らは捕虜を鉱山へ送るような酷いことをする武田家の湊には行かぬ。捕虜は三河へ返す。となるとお主ら武田兵はどうなるかわかるか?」
「そ・それは・・・」
小浜らも武田家が三河の民に酷い仕打ちをしたのを知っている。今、三河に入ればなぶり殺しに会うだろう事を。
「き・北畠家に戻りますだ。今度こそ、命懸けで働きますだ!」
「それなら武田家に断ってから来い。それが仁義だ。清水湊は北へ四十海里ほどだ。励め!」
「・・・」
返す言葉が無い水夫らを置いて、二隻は帆を上げ離れていった。
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