第345話・落ち武者の覚醒。
遠州井伊谷・井伊家屋敷 秋山信友
不意に目覚めた。
・どこだ・ここは?
「お目覚めですか」
顔を回せばたおやかな女性がいた。慈悲深い目が光っている。
「・・ここは?」
「遠州・井伊谷ですよ」
遠州井伊谷・・なるほど、伊勢陣峠から南に抜ければその辺りに出る・・・
「私は、井伊家当主・井伊直虎です。ここは貴方にとって安全ですよ」
「某は、たけだ・・」「待ちやれ! 」
名を言いかけたのを止められた・・・
「その先は言わずに、まず聞いて下されよ」
そう言われれば、頷くしかない。
「そなたを山で見つけ背負って来たのは、そこに居る段蔵です」
頭を傾けると居間の隅に頑丈な体つきの老爺がいる。
「ですが複数の忍びの者が追って来ました。覚えがありますか?」
「あっ・・・」
思い出した。全てを。
四千の兵を率いて足助宿に向かっていた。その最後の峠だった。息せき切って登る地面が揺れた。見上げる山から岩や丸太が猛然と落ちてくる。狭隘な山道だ、逃げ場は無かった。
助かったのは、馬が・早風が避けたからだ。斜面を駆け下りて駆け上がった。某はただしがみついていただけだ。振り向けば何頭かの馬が付いてきていた。
ほっとしたのは束の間だった。獣の皮を着た大勢の山賊の様な者達が追って来た。尾根を逃げた、そこは平らで木がまばらだった。他の者とはすぐに散り散りになった。一時逃げると追っ手の姿は消えた。だが、まだ追ってくる気配は濃厚だった。
尾根を降りると藪が密生していた。これ以上馬では進めない。
「ありがとうな、早風。あとは好きな所に行くが良い」
鞍を外して早風と分かれた。甲冑も脱ぎ捨て鞍と共に落ち葉で隠した。
それから槍を杖代わりに、二昼夜ほど山を彷徨った。目指したのは御屋形様がおられる東三河だ。追っ手は二度来たが追い払った。その時に槍はなくして刀は折れ矢は尽きた。
ようやく道らしきものを見つけた時に意識が消えたようだ。
そこで段蔵殿に助けられたのか、追っ手でなくて幸運だったな・・・
「某は何日寝ておりましたか?」
「十日です。ここに来てから十日経ち、今日は五月十七日です」
「武田と徳川の戦はご存じか?」
「はい。尾張那古屋城が斉藤家の手に落ち、武田は三河から撤退しました」
「何と、那古屋城が斉藤家に・・・」
「詳細は不明ですが、あっという間の出来事だったようです」
「左様ですか。撤退・・・」
三河侵攻は潰えたか・・・
「それだけではありませぬ。どうやら信玄殿が亡くなった様です」
「御屋形様が・・・」
「戦陣で病が悪化して、移動中に火縄で撃たれた様です」
「・・・」
「途次の根羽村で亡くなり、諏訪の勝頼殿の元に亡骸で戻られたと」
「・・・」
「それで、勝頼殿が武田家重代の家宝御旗盾無を受け取り、家督を継ぐと宣言なされた」
「・・・馬鹿な」
家督は嫡男の義信様が継ぐべきだ。戦国の世とは言え長幼の序列を乱してはならぬ。
「はい。その結果、武田家中は混乱しているようです」
となると某が帰還すればその争いに巻き込まれる。伊那は勝頼様に近いが、某としては嫡子の義信様を差し置いて勝頼様を持ち上げることは出来ぬ・・・
いや、それよりも某は一度死んだ身だ。その恩に報いなければならぬ。
うむ、御屋形様のいない武田に戻って家中で相争うよりも、いっそここで新しい人生を送るか・
「あそこから、某一人が逃れて来たという訳か・・・」
「いいえ、一人ではありませぬ。あとから訪ねて来たものがいます」
「・・・誰です?」
思わぬ答えだった。それに行方不明になった某の居場所が何故分かったのだろう・・・
「栗色に白混じりのたてがみの馬です」
「あっ・早風か・」
「貴方が来た三日後に屋敷の前で佇んでいました。今は馬屋で大人しくしておりますよ」
そうか。早風が来てくれたか・・・大人しく、早風は気性の激しい馬だが・・・
「追って来た忍びの者は斉藤家ゆかりの者でした。帰蝶様は貴方がここに隠れることに条件をつけて来ました」
「条件・・・何で御座ろう?」
「それは・・・」
何故か、直虎殿はもじもじしている。顔が紅くなっておるし・・・
「それは?」
「貴方が井伊家に入り、わたくしと子を成すこと・・」
「・・承った」
「以前の名を捨てよと言うのですよ?」
「承知で御座る。今となっては某、この身一つの落ち武者で御座る。お助け頂いた場所で励みましょう」
「・・・」
きっぱりと言い切った秋山に、直虎はちょっと驚いた。
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