第344話・設楽が原の戦い。


三百の精兵を率いて設楽が原に急行する家康と将兵は、地元の兵に案内されて山間を疾駆していた。夜になっても松明の明かりを翳して止ること無く進んだ。一隊がようやく足を止めたのは夜半を回った頃だ。設楽が原まで山越えでおよそ二里の谷あいの村だ。


 甲冑を着けたまま仮眠を取る兵の頬を、木々を揺らした生暖かい風が嬲る。それが次第に強くなり、目覚めた早朝には雨粒が混じっていた。

天候が次第に悪くなっている、野分けが来るのだ。だが逆にそれは徳川の将兵の士気を鼓舞するものだった。

かつて大軍を率いて蹂躙しに来た今川軍を、織田信長が少数で打ち破った桶狭間の戦い。松平が独立する切っ掛けになった日の天候を思いだしたからだ。


「野分けが来ている。これは我らの桶狭間だぞ! 」

「左様。天は我らの味方だ!! 」


 次第に多くなる雨粒に、兵たちは天が味方していると信じて意気揚々と進んだ。


 辰の刻(午前十時ころ)彼等はついに設楽が原を望む峠に到着した。雨粒を叩きつけ吹き荒れる風は体を強く揺らした。普通は戦に向かぬ悪天候だ、しかし強い風雨は彼等の闘気を嫌がうえにも盛り上げた。


そこに先行していた半蔵の手の者が戻って来た。



「信玄らは何処だ?」

「はっ。間も無く設楽が原に入ると思われます」


「よし。我らも行こう」


 徳川隊が設楽が原に降りると、大粒の雨が降り出し始めていた。その中を百姓姿の女が走って来た。半蔵の手のものだ。


「信玄一行、この先の村社に入りました」


 雨宿りに村の神社に避難したのだ。まさに絶好の機会が訪れた。


「皆の者、信玄坊主はこの先の村社で雨宿りだ。護衛は旗本百と騎馬隊三百だが、この雨では火縄も馬も使えまい」


「まさに左様!」


「狙うは信玄の首ひとつ。徳川の意地を見せるのだ!」

「「おおおお!!」」


  叩きつけるような激しい風雨の中、街道を進み鳥居をくぐって村社へ入った。

 ところが、意外にもそこの境内は広かった。子供達の遊び場にしては広すぎる、まるで原っぱの様な大きな境内だった。


 そこに、


 整然と並んだ武田騎馬隊がいた。その中心には輿に乗った白い装束の将が風雨をものともせずに座していた。武田隊も徳川隊が来ていることを察知していた。だからこの広い場所で待っていたのだ。


・信玄、生きていたか・・・


・小僧、来たか・・・


 家康と信玄はその場で激しく睨み合った。


 その時、真っ白な閃光と稲妻が落ちる衝撃が社の境内を揺るがした。期せずして両隊が突撃して激しく衝突した。



 小半刻、雨が不意に上がった。

それを契機として、激しく切り結んでいた両者が一旦退いた。それぞれ百名程は手傷を負っていた。まだどちらが優勢とも言えず決着は付いていない。


「殿、南から山県隊五百、北からも馬場隊五百が来ておりまする・」


「むう。・・・ここまでだな。引き上げだ」

「仕方がありませぬ」

「左様、首は預けておきましょう」


 徳川隊は負傷者を連れて後退していった。それを武田隊は追わなかった。凄まじい戦いで追う気力も残っていなかった。



「土屋、徳川はやはりしぶといのう・・」

「はい。兵の一人一人が戦慣れしており、微妙に急所を外します」


「もっと大事にするべきであった・・・か」

と、言い終わらぬうちに輿の上の信玄はうつ伏せに崩れた。

「お・御屋形様! 」


「・諏訪へ、優衣が待っておる・・・」

「・・出立せよ。このまま諏訪へ戻る」



「・・・出立!」


 武田隊も風が吹きすさぶ中、静々とその場を後にした。



 武田信玄は戦場で具合が悪くなって休もうとしたところを火縄で撃たれたのだ。右肩に入った鉄砲玉は留めの一撃に近かった。

それでもはや時が無いのを悟った信玄は、野田城に寄らずに諏訪に帰ろうとしていた。

そこにこの豪雨の中の戦いだ。信玄の寿命は終わろうとしていた。




 森の奥からその様子を無言で見つめていた二つの集団がいた。

 ひとつは、山中国家臣の三雲賢持とその一党。もう一つは、『赤耳』と呼ばれる鶏鳴講諜報集団の頭・聴天とその一党だ。

 武田隊が去ると彼等も来た時と同じ様に不意に姿を消した。この風雨の中での戦闘は、村の者にも気付かれなかった、ただ田のように乱れた境内がその痕跡を留めていた。


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