第342話・落ち武者。



「信玄本隊の動きが妙だ。何やらおかしい・・・」


と呟いたのは、加藤段蔵、いや加藤の名を捨て井伊直虎に仕える老爺の段蔵だ。段蔵がいるのは東三河・野田城北東の山間だ。


 段蔵は徳川と武田の戦が始まってから、何度も戦見物に来ていた。この辺りは井伊谷から遠くない。といっても山を越えて三里ほどはあるが、忍びの段蔵にとっては散歩がてらに来られる距離だ。


 信玄が乗っていると思われる輿とそれを守る騎馬隊の一行が、野田城を素通りして北に向かっていくのを見ていた。

南西の吉田城では火縄の銃声や戦の響めきが微かに聞こえている。それを指揮していた筈の信玄本隊は伊那に向かうようなのだ。


 どうやら武田軍に何か異変が生じたようだな・・・ということは、三河を制圧した武田が井伊谷に攻めてくることは無さそうだと思った。井伊谷は今しばらく豊かになる努力が出来るというわけだ。井伊家は今、山中国の援助を受けて盛んに豊かになる道を邁進している。それを邪魔されたくないのだ。


 新たに服属した朝比奈泰朝の気まぐれに付き合い山中国に訪れた。久し振りに行く紀伊・大和の発展には目を見張った。とんでも無い国だ、日の本中の国が団結して挑んでも相手にもならぬほど。


 国主・山中百合葉様は恐ろしいお方だった。儂の素姓などとおにご存じだったのだ。無論、それほどの忍び網を持っていると言う事だ。周囲にはかなりの手練れが多数潜んでいたが、当人自体が恐ろしい程の武威を持っている。儂が十人おっても勝てぬ腕だろう。


 百合葉様は何故か殿を気に入って下さり、多くの援助を受けた。国造りの人員が無償で井伊谷に派遣されて来たのだ。これは大きい、途轍もなく大きい。こうなると例え朝比奈様でも口出しできぬ事になったのだ。

 朝比奈様だけでは無い。尾張斉藤家や武田家でも手出しは出来まい。山中国はそれ程の国だ。

いや・・・武田家や徳川家は山中国の力をまともに把握していない様だ。もしかすれば井伊谷に手出しするかも知れぬ。それで両国の戦を見に来ていたのだ。



 どうやら武田徳川の戦が井伊谷に飛び火することは無いようだ。

ならば、井伊谷に戻るか・・・



「ん・・・」


 道脇の草むらに倒れている男がいる。泥だらけの着物にザンバラ頭の侍だ。全身傷だらけだな・意識が無い・だが頑丈な体躯に精悍な顔をしている。おそらくは名の通ったひとかどの武将だな・


 その男を見てかつての儂を思い出した。

 上杉からの追っ手でぼろぼろになり死に体で木曽川を流れた。尾張で藤吉郎に助けられて生きかえったが、今度は斉藤家の戦でボロボロになって落ち延び殿に助けられたのだ。

 もう儂も歳だ。殿の元で生涯を終えるだろう。それで満足だ。独り忍びで生きて行く道もあったろうが、それではつまらぬ。儂には合ってないのだ。


 こやつを助けてみるか・・・

 戦の火種を持ち込むようなものだが、放って置けぬ。何より井伊家は山中国と誼を通じたのだ。何とかなろう・・・


 背負って井伊谷へと歩いた。結構な重さだがゆっくり歩く分には問題ない。



「・・・」

 追ってくる者がある。

井伊谷までの半ばまで来て、背後の気配に気付いた段蔵は逡巡した。


このままでは得体の知れない奴らを領内に入れることになる。おそらく目当てはこの者だ。

ならば、ここでこの者を捨ててゆくか、

だが捨て置いても儂をつけるかも知れぬ。儂ならそうするだろう。



ここで追っ手を始末するか。



 その時、前方に別の気配がした。木々の間からするりと現われたのは茜殿だ。

茜殿は百合葉様が殿の警護にと派遣した忍び(の頭)だ。まだ娘だが腕はかなりのものだ。十名ほどの配下がいて、所々の情勢を探らせている。


「何者です」


「茜殿か。この者は山で拾ってきたのだ。傷だらけだが生きておる。以前の儂を思いだしてな・」


「段蔵、そこに降ろしなさい」

「これは殿・」


駆けてきたのは殿(井伊直虎)だ。茜殿がいるからには殿もいるかも知れぬとは思っていた。背負っている男を降ろすと、早速殿が体を検分し始めた。


「まあ大変。本当に以前の段蔵の様ですよ・」



「段蔵殿、何者です?」

「分からぬが、途中からつけてきた。この男が目当てだろう・」


 茜殿が追ってくる者に気付いた。留まって距離が縮まった故に、複数の者が来ていると分かった。

 無論、茜殿は一人では無い。距離をおいて五名ほどの配下が付き従っている。皆手練れだ。短筒という武器も持っている。



 程なく木々の間からしみ出るように姿を現わしたのは若い女だ。背後に五・六名の者、なかに娘もいる。


「何者です」


「その男を渡して」


 茜殿が殿を見た。殿は渡さぬと首を振った。やむおえぬ、闘うしか無い。立って茜殿の横に並ぶ。


「ここは井伊家の領地だ。殿が渡さぬといったら渡さぬ。欲しくば、力尽くで奪え」


 茜殿の言葉に奴らは動揺を見せ相談している。きやつら井伊家を知っているのか?



「もしや、そちらのお方は?」


「私は井伊家当主・井伊直虎です。そなたらは何者です?」


 殿の言葉にきやつらは膝を着いて下手に出た。何故だ、井伊家ほど弱小のお家に阿る必要があるのか?


「失礼致しました。我らは斉藤帰蝶様ゆかりの者。井伊家には手を出しませぬ」


「帰蝶様の・・・そうですか。ならばこの者は、井伊直虎が預かりますとお伝え下され」


「・・・承知致しました」



 帰蝶殿か・・・恨みは無いが藤吉郎を成敗された気丈なおなごであったな。そういえば、山中百合葉様が儂の事を追わないように、帰蝶様と上杉家に話して下さったのだな。今度は直虎の殿が帰蝶様ゆかりの者からこの男を庇うか・・・奇妙な縁かも知れぬ。



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