第341話・武田軍の異変。


 豊川を渡った武田軍は、南東の船形山に向けて一隊を置き吉田城を三方より囲んだ。

 背後を幅二町の豊川を防御の要とした吉田城は、大手門を南に東西にも出入り門がある三の郭の三方を空濠と土塁で囲み、その内側の二の郭は高い土塁で囲まれて、一段高い本郭に続く。その周囲には城下町が広がっているが、城の周囲の建物は既に焼き払われていた。


 武田軍はまず残っている町屋を手当たり次第に壊して堀に投げ込み始めた。無論、住民は避難していてもぬけの殻だ。

 それを目のあたりする城兵は歯ぎしりしながら耐えた。それは山中に避難した人々同じだ。城兵が矢を放とうと土塁から頭を出せば、忽ち火縄銃で狙い撃ちされる。何しろ武田軍には五百丁もの火縄銃があるのだ。


 城下を焼き払い乱取りする事は戦国の世の常識だが、武田軍は特に酷かった。捕えて鉱山送りする事も加えて、赤備えの武具の不気味さもあり人々に酷く嫌われていた。怖れられているとも言えるが。


「甲斐の者は人では無い・」

「おのれ、赤鬼めが・・・」

「娘を・倅を返せ・」

「絶対にゆるさん・」と言う怨嗟の声が人々の間に満ちていた。


 城からは投石が雨のように降ってくるが、張り巡らした盾で防ぎ堀は次第に埋められて行く。同時に火矢を放って門を焼き払おうとしているが、川の傍の吉田城は水が豊富だ。門の上からの放水ですぐに消されている。


 だが武田隊には余裕があった。吉田城から四丁ほど離れた所に本陣を置き、船形山城からの夜襲が絶えない夜間は厳重な警備をしているが、昼間は前後に隊を置かなかった。

『どうした、本陣まではがら空きだぞ。出て来ぬか、臆病者めが』と誘い嘲っているのだ。


「ぐぬぬぬぬ・」と酒井・平岩の両将は、歯ぎしりしてこれに耐えた。



だが、転機は突然来た。

それは汗だくになりながら駆け込んで来た伝令がもたらした。


「御屋形様、足助城よりの早馬です!」


「そうか。通せ! 」


 信玄は伊那の援軍が到着したと言う報告だと思っていた。


「伝令、秋山隊が来たか」

「そ・それが・・・」


「ん、何だ。申せ」

「秋山殿の一隊は壊滅した模様で御座いまする」


「・・・何と言った?」

「伊那街道・伊勢陣峠にて、何者かに待ち伏せされて秋山隊は壊滅。昨夜遅くに生き残りの兵らが死に体で足助に来申した」


「なんと・・・」

と、絶句した信玄は固まった。


「お・御屋形様? 」


「相手は何者だ?」

「それが布で顔を隠した山賊の様な集団だったと口々に申しております・・」


「馬鹿な、山賊が四千もの部隊を襲うわけ無かろう・人数は?」

「それが山津波に巻き込まれて、直後に無数の賊が襲いかかってきたと・」


「・・・待ち伏せか。しかし何者だ、徳川にその余力はなかろう・・・」


 この時、那古屋城陥落の報は伝わっていなかった。


「・秋山は、秋山はどうした?」

「解りませぬ。ですが、秋山殿がおられた中軍に山津波が襲ったと・」


「なんと・」

 立ち上がった信玄に目眩が襲った。


「御屋形様!!」


「む。只の目眩だ、案ずるな・」


 しかし動悸と息切れがそして吐き気を催した。すぐに薬師が呼ばれたが、馬上で揺られ野陣で無理をしたと、安静にする他無しという見立てだった。


「この場は山県が指揮を取れ。儂は野田城に入る・」


 信玄は野田城で養生する事にした。土屋の騎馬隊が輿に乗った信玄を護衛して上流に向かった。輿といっても戦場だ、屋根があり四方を厚板で囲まれた厳重な物だ。

 実は那古屋では、山中国では馬車が人の移動にも盛んに使われていると聞いて作らせて使っていた。しかし道の状態が良い市中では使えるが、でこぼこのある街道では振動が酷く仕えない代物だったのだ。


 そのまま信玄一行は前後左右に広がった騎馬隊によって厳重に警護されながら豊川左岸をゆっくりと遡上した。

吉田城より野田城は四里、途次一里半に東海道姫街道の追分がある。その辺りになると川幅も狭く浅くなり渡ることは可能だがそのまま進んだ。野田城まであと一里という付近は、右手の山裾を回り込み道だ。


 そこに独りの老爺が潜んでいた。獣の袖無しを着て山間に溶け込んだかの様に座る老年猟師の三左衛門だ。手にはずっしりとした重みの火縄銃を持っている。つまり大層高価な火縄銃を購えるだけの腕を持っているのだ。


「来た。信玄坊主だ・」


 三左衛門の目は憎しみに光っていた。彼の娘夫婦は御油宿外れで暮らしていて武田軍に連れ去られたのだ。幼い子供は蹴り殺されていた。娘夫婦は大勢の者と一緒に船に乗せられてどこぞに送られた。

 こうなると三左衛門ではもはやどうしようも無い。孫を葬った後、この山に潜んだ、信玄坊主が野田城に行く事があると信じて。


 信玄の乗った輿は厚板で守られている。しかしその時、前後の窓が開いていた。側面で無く前後ならば護衛の騎馬隊がいて大丈夫だと思ったのだ。四方閉め切った輿で移動するのは気分が悪いから開けていた。


「あや、仇は爺がとってやるぞ・」


 一発の銃声が響き信玄一行は、はっきりと混乱し始めた。三左衛門はそれを見て安心したかの様に微笑んだ。



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