第340話・那古屋城陥落。


永禄十一年(1568)五月 尾張矢田川畔


「今夜はぁ、でら気持ちよかー」

「んだ。だもんでお月さんも喜んでるじゃん」

「んだな・」


 その夜は見事な三日月が夜空に輝いていた。尾張斉藤家と武田家の国境の庄内川と矢田川には要所に高櫓が立てられた見張り所が設けられていた。

 那古屋城の北東にあるここは、那古屋城水堀の導入水路がある。その為に十人ほどの兵が昼夜を問わず詰めている重要地点である。その高櫓の見張り三人の会話である。


「こんな夜でも南では戦の最中だべ」

「おとろしかー。おらここで良かっただ」

「んだ、んだ」


 その時黒い影が翻ってその気配に振り向いた見張りの喉元に、月光を反射する白刃が突きつけられた。


「ひぃ・・」


「武田家に忠誠を誓って死ぬか、降伏するかを選べ」


「・おら、只の足軽だぇ。武田家への忠誠なんぞ無え・」

「んだ。降参するだょ」

「おらもだ・」


降参して降ろされ縛られた三人。彼等は兵を載せた小舟が何艘も那古屋城に向かって行くのを目にした。




三河高木城 武田軍西三河本陣


 御屋形様の言われる通り徳川は相当にしぶとい・・・


 三河に進軍して既にひと月が過ぎた。山崎城・安祥城を接収して前線を少し押し込んだもののそこで膠着したままだ。御屋形様出陣で少し気配が変わったが北の守兵をこちらに当てたと見えて押し切るには至らなかった。

 徳川の守りはとにかく固い。竹を束にして立てて火縄銃も寄せ付けず、近付けば石を雨のように降らせてくる。戦闘も強い、精強な武田兵をも押し返してくるのだ。


 だが、これで良い。

東三河の御屋形様隊は、簡単に岡崎城に進軍出来るのだ。その上に徳川の兵員は切迫している。前線負傷兵との交代で岡崎城兵には動ける者が減ってきている筈だ。

それは我らとて同じ、那古屋城の兵の半数以上が負傷兵だ。動けなくとも守りは出来るのだ。

敵との違いは我らには多数の援軍がいる事。伊那からの援軍が来れば一気に岡崎城に押し込める。

もう少しの辛抱だ。



「た・大変です。那古屋城が、那古屋城が・・」


「・那古屋城がどうした?」

「那古屋城が敵の手に! 」


「敵の手にだと・・・馬鹿を申すな。敵が攻めて来たなど聞いておらぬぞ」

「ですが、斉藤家の旗が立っております」


「斉藤家だと・・・馬鹿な・・・」


 事実はすぐに判明した。那古屋城から逃げて来た兵が息も絶え絶えに駆け込んで来たのだ。


「今朝未明の事でした。大手を監視している我らの背後から多数の敵が現われて、あっという間に。どうしようも無く逃げ出して・・・」


「何だと、背後から?」

「はい、二の郭から雪崩れ込んで来て・」


「馬鹿な・・・」


 大手門は開いていたのだ。朝には開けて門外の掃除をして一日が始まる。三河に出陣しているとはいえ、尾張は平和だった。監視は厳重だが明るい内は開門している。

物見を出すとさらに那古屋城から逃げ出した多くの者が、こちらに向かって来ていると言う。残りの城兵の半数以上が降伏したようだ。

 衝撃だった。青天の霹靂とはこの事か・・・


「しかし殿、ここにいては前後を敵に囲まれますぞ!」


「・そうだな。撤収だ。ひとまず伊那街道に向かい、足助城に入る。急げ!」

「撤収!! 」

「撤収せよ!」

「急げ、撤収だ!」


 兵らは戸惑っていたが、那古屋城が敵の手に渡ったと知ってからは必死で準備を始めだした。


「馬場殿、ここは某が」

「高木殿、それでは、お手前が・・」

「構いませぬ。某は刈谷城に戻りますれば」

「・・・うむ。ではお願いする」



 西三河に領地がある水野家は、ここに残るようだ。無理も無いが、我らに取っては幸いだ。

 こうして水野隊が残り徳川軍を引き付けている間に、武田隊は伊那街道・足助宿を目指して移動を始めた。




 那古屋城は大手門が南の城下町に向いている。それに西門と東門の三方の出入り口がある。

もう一方の北側の田畑村との間は高い城壁で囲まれ出入り口が無く、矢田川からの入水路が東西に引かれているのみである。


実は以前の織田家でもほんの僅かな者しか知り得ないが、田幡村は特別な秘密を持った村であった。

すなわち那古屋城が落城する時に、城主をお守りして脱出する役目を担っていた。入水路を利用して矢田川に逃れる、その為に巧妙な作りの村と水路開削の折に城に繋がる隠し通路が作られていた。

今まで一度も使用されていなかった故に、織田家の重臣も知らぬこの秘密は、無論那古屋城を占領した武田家にも知られる事は無かった。肝心の田幡村の衆も素知らぬ顔で武田家に従い農作をこなしていたのだ。


 その秘密を知る帰蝶は、密かに田幡村と連絡を取り味方に引き入れていたのだ。隠し通路が通じているのは二の郭・武器倉の一画である。

侵入した三百の池田隊がそこから一気に押し出した。背後から湧き出た敵に武田隊は為す術も無かったのだ。

池田隊は抵抗する者は容赦無かったが、逃げる者は追わなかった。それを知り負傷して逃げられない多くの者が降伏した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る